第1883話 道徳的優位性6
本テーマはここまでです。
人も現象も因果の影響を大きく受けるが、さりとて因果だけで人生の総て物事の総てが決まるわけではない。よって、すべては必然という論は誤りだと考える。
やる前から分かることはなく、やってみなければ分からない。
だから、やるのだ。そうでなければ、やる必要がなくなってしまう。
この世に生まれ、僕らは様々な体験をするが、これらは総て、やるためである。そして、やることにより、僕らは分かる。やる前から分かっていたら、やる必要がなくなり、それはひいては僕らの存在意義に関わってくる。やることがあるから僕らは存在意義を持つのだ。
愚直という言葉があるが、それがこの、やる、なんだろう。
とにかく、やるしかない。やらなければ何も始まらない。
分かってやるのではなく、やって分かる。やってる最中は分からない。
僕はここに神様の意思を感じるが、であるならば、やってやろうじゃないか。思考し、新しい発見をし、行動し、成功し、失敗し、人と交流し、本を読み書きし、各方面で活動し、人助けし、仲間を増やし、皆と共に前に進む。
この世界を劇場に例えるなら、僕らは皆、演者。精一杯、観客(神様)がお気に召すよう演じようじゃないか。この観客は寛大であり、芝居がどんなに下手であっても、筋書がどんなにくだらなくても、また筋書から離れた演技や道理に反する演技をしていても、席を立たずに温かく見続けてくれる。
実の親ですら見続けてくれるのは、せいぜい数十年だろう。だが、この観客は舞台が何度変わり、役が何度変わっても、通して数千年、数万年、数億年という単位で見続けてくれる。席を立たずにね。見放すことは絶対にしない。
おっ、道理に反する、に反応して、ワードが浮かんできた。
大衆の代弁者になるな。か……ふむふむ……。
これは前世でテレビを観ていた際、コメンテーターが主語に「国民の皆さんは」を使って論じている時に感じたことだ。今も変わらないようだが、マスコミ関係者は「一般国民は」「大多数の皆さんは」「ほとんどの人は」などの言葉を当たり前のように使い、ただの個人的な意見をまるで大衆の意見かのようにすり替えて話すことが多い。新聞や雑誌などの記事でもそう。勝手に大衆の代弁者を気取り、自分を権威付けし、発信力を持たせようとすることに余念がない。
そういう記事を見る度、心の中で突っ込む。
いつ、あなたは大衆の代弁者になった?
大衆から代理に言うことを任されているのか? とね。
マスコミはただの一民間企業であり、大衆の代弁者でも何でもない。取材はしてるだろうが、それは数えられる程度だろう。それなのに主語に「多くの人は」「国民の皆さんは」を使えば、実態を反映しておらず、限りなく騙しに近い。
会見で記者が国会議員に対し「国民の皆さんが」を主語にして話すことは常態化しているが、国民の代表でも何でもない記者が、正真正銘、国民の代表である国会議員に対し、そのワードを使い、謎の上から目線で言説を垂れるのは滑稽としか言いようがない。「多くの国民の皆さんは反対してますよ」って、お前が反対してるだけだろうに。
もし僕が国会議員なら「それはあなたの個人的な意見ですよね。いつ、あなたは国民を代表する立場になったのですか?」と反論するだろう。ただ、これを言ったら、キリトリ編集され、記者に対する反論を国民への反論とすり替えられ、「あの議員は国民に対し横柄だ」と、テレビのコメンテーターあたりに言われそう。彼らはどんな正論でも捻じ曲げてくるからな。
あと、国会で野党が与党を攻める際、「国民の皆さんは」を主語に話をするが、これもよく考えたら変。確かに野党も国民の代表ではあるが、支持者は与党の方が断然多い。どこかの野党は前回の選挙で数百万人の投票を得たことを根拠に「国民の皆さんは」と声高に叫ぶが、それを言ったら、与党は数千万人から投票されている。支持者の少ない政党が支持者の多い政党に対し「国民の皆さんは」と言うのは、客観的事実に照らし合わせ、どう考えても変だし滑稽だ。
ひょっとして、自党の支持者は国民であり、
他党の支持者は国民でないとでも思っているのだろうか?
であるなら、バイアス(認知の歪み)のかかりが半端ではない。
マスコミや野党や自称リベラルは、やたら大衆の代弁者を気取るが、その心は自分を大きく見せたいという自己肥大の欲求であり、虎の威を借りる狐であり、道徳的優位性を持ちたいという歪んだプライドであろう。そうなってしまったのは、バイアスのかかったお仲間だけで集まり、同じ意見の人とばかり交流し、価値観を狭めてしまったから。こういうのを――
「井の中の蛙大海を知らず」
と言い、日本だけでなく、この世界でも知られるようになったが、
実は続きがある。それは――
「されど、空の深さ(青さ)を知る」「されど、天の高さを知る」
だ。但し、これは原典である中国の『荘子』にはなく、日本で後付けされた言葉だ。前文はネガティブだが、後文はポジティブであり、全文でバランスが取れて良くなった。さらに後文が付くことにより、前文の説得力が待つことになった。流石、日本人、改善のプロ、改善は英語で「improvement 」と訳されるが、訳さず「Kaizen」として世界共通のビジネス用語になってるもんな。
どうして井の中の蛙になってしまうのか?
井の中を狭いところだと判れば、普通気が付くはずだ。でも、そうならないのは、自分が狭いところにいると思っていないから。空を見て、その広さに感じ入り、そこにいるように錯覚してしまったのではないだろうか。
これはネットという世界中に通じるツールと接続しながら、実際はエコーチェンバーやフィルターバブルにより、狭い範囲でしか情報を得ていない状況とよく似ている。
「ネットの世界は広大だわ」
というのはある有名なアニメ作品の主人公の台詞だが、確かにネットは広大だが、実際に個人が関わる情報量はたかが知れている。いや、ネットに限った話ではない。この世界にある全情報のうち、いったいどれだけと僕らは出会えているだろうか。割合をパーセンテージで言ったら、きっと、0.00000…と0がいくつも続くに違いない。はっきり言って僕らはほとんどのことを知らない。
それなのに僕らは知った気になり、解った気になり、一人前を気取っている。そういう意味で僕らはみんな井の中の蛙だ。だからこそ、徹頭徹尾、謙虚でなければならない。僕らから見たら細菌はごく小さい存在だが、世界から見たら僕らもごく小さい存在だ。小さくて小さくて本当に小さい存在。吹かなくても飛ぶような矮小な存在と言っていい。それが偉そうなことを言ったら世界に笑われる。
汝、偉そうに振る舞うべからず。
偉そうに振る舞えば、世界との調和が乱れ、精神性は下がる。
精神性を上げたければ、偉そうにしないこと。
僕らの目標は精神性を上げることであり、そう努めることは善いことだ。どんどんやるといい。だが、自分の精神性が他人より高いと思うことは善いことではない。道徳的であろうと努めるのはいい。だが、自分は道徳的な存在であり、為すこと、言うこと、考えることが全て正しいと考えるなら、それは思い上がり以外の何物でもない。
人は向上すべきだが、そうすればするほど、
自分は偉いという思い上がりが生じやすくなる。
これは本当に厄介だが、打ち消しながら前に進むしかない。
雪国で雪は生活を脅かす存在であり、ライフラインを守るため、除雪車が雪を吹き飛ばしながら進む光景が日常にあるが、雪を飛ばせば飛ばすほど、その雪が前面のフロントガラスに付着することが増え、それを放置すると前が見えなくなってしまう。僕らも悪を吹き飛ばし、善なる道を歩んでいるが、それをすればするほど、自分は偉くなったという高慢な思いが視界を曇らすようになるので、それを取り除いていかないと。
先日、番組収録で「仕事論」について話したが、仕事の本質、あるべき姿について話し、あえて処世術、テクニック的なことは話さなかった。そのうちのひとつが「替えの利かない仕事をしろ」だ。替えが利かないとは、その人や物、経験が唯一無二であり、他で代用できない価値を持つ状態を指すが、替えの利かない仕事をすると、希少性を持ち、働きの割に多くの収入を得やすくなる。
そこだけ見れば悪い話ではない。だが、「替えの利かない仕事」をする人が優遇されるようになると、「替えの利く仕事」をする人が冷遇されるようになる。これは組織全体から見て由々しき事態だ。
それに、替えが利かないということは、その人しかできないということであり、それ自体がマズい状況だ。仕事は皆で協力して行うべきものであり、代行や引継ぎを考慮し、常に替えが利くようにしておかなければならない。
誰かしかできないということは、その誰かにとって一見良さそうに見えて、他の人にとってまったくいいことではなく、また、負担が特定個人にのしかかるため、当人にとっても実はいいことではない。
つまり、替えが利かない状態は組織にとってリスクそのものであり、避けるべき事案ということになる。処世術として勤め人が「替えの利かない人材」を目指すのは賢い反面、実は利己的な面があると言えよう。
さらに「替えの利かない人材」になることにより、自分を特別視し、他の人を見下すようになりやすい。そして、自分の有利なポジションを維持するため、知識や技術の伝授を他の人にしなくなる。その結果、組織の世代交代に支障をきたし、衰退を招く。
昔気質の職人は新入りの職人に何も教えず、
「盗んで覚えろ」と言ったりするが、そういう職場は長続きしない。
実際は盗ませてもくれないし。
組織をあげて従業員の職務能力の向上に取り組むのはいいが、その結果、授業員が「替えの利かない人材」を目指すようになったら、その組織に未来はない。だが、これをよく認識せず、そうなってしまった組織は多いと推察する。仕事を怠けて組織が衰退するなら、よくある話だが、仕事を熱心にやり、専門性を高めた結果、衰退することも実はままあるのだ。
この構造は道徳的優位性に似てるところがある。道徳的であろうと努め、やがて道徳的になった自分を特別視し、まわりを見下すようになる。真に道徳的なら見下すようにならないが、マイルールに基づく偽装道徳なので、そういうことが起きるのだ。職人の世界では技術の高い人が尊ばれ、その結果、その人の考えがルールのようになる。まぁこれはどの分野の世界でも言えることだけどね。
物事はすべからく使い方次第で善くも悪くもなるが、善いことの本丸である道徳を悪く使うのは相当悪質だ。これにより本来の正しい道徳まで疑わしいように見られてしまう。なので、ただのマイルーム、主観を道徳と呼ばないでもらいたい。モラルハラスメントもそう。そのモラルはその人の中の歪んだモラルであり、真のモラルとは違う。真のモラルはハラスメントと対極にあり、同列に語るべき概念ではない。道徳バトルのようにね。
努力し、向上するのはいいが、その先に、替えの利かない人材、チート、エリートのような存在が目標にあるとしたら、それは決して善いことではない。そういう人物は自分を特別だと思い、道徳的優位性を抱くようになる。
道徳的に優れた人になろうとするのはいい。
だが、道徳的に優れた人になってはいけない。
偉人を目指すのはいい。
だが、偉人になってはいけない。
道徳的に優れた人か、偉人かは、
自分が決めることではなく、ただただ目指すもの。
僕らは皆、あすなろの木のような存在だ。
あすなろは漢字で「翌檜」と書き、
「明日はヒノキになろう」という想いが名前の由来。
あすなろはヒノキ科の常緑針葉樹であり、見た目がヒノキと似ているが、素材的にはヒノキより落ちるため、そこに先人は「明日はヒノキになろう」という真摯な思いを感じ取った。だが、あすなろはヒノキと別の種であり、あすなろがヒノキになることは決してない。
だが、それがいい。「明日はヒノキになろう」と精進し続けるからこそ道徳性を高めるのだ。もし、ヒノキになり、精進を止めたら、道徳性は崩れ去ってしまうだろう。道徳的に生きるとは、精進し続けることであり、完成したと驕り高ぶらないことだ。霊性進化の道に「終わり」や「完成」などの文字はない。
社会的に成功を収めても終わりではないし、
死んでも終わりではないし、極楽や天国に行っても終わりではない。
それらは果てしなく続く道の途中に過ぎないのだ。
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