第1882話 道徳的優位性5
続きです。
道徳的優位性とは、傲慢であり、特権意識であり、自分は絶対に正しいマンであり、幼児の精神レベルであり、テイク&テイクのテイカー気質(簒奪者)である。
こんな酷いものを信条や行動原理に据えるなら、本来の道徳からかけ離れていくしかない。本人は道徳的であるつもりでも、それはあくまでその人の頭の中だけの「つもり道徳」であり、マイルール、主観に過ぎず、とても道徳と呼べるものではない。道徳的優位性の実態は反道徳性だ。
道徳的であろうと目指すのはいい。
だが、自分が道徳的だと思い込むのは危うい。
真に正しく道徳的である人は、自分を道徳的に素晴らしい人物
だとは思わないものだ。もし思っているとしたら正した方がいい。
過去に立派なことをした人を「偉人」として称えるが、これはあくまで後世の人の評価、つまり他人の評価によるものだ。自分で自分を「偉人」と呼んだり、思う偉人はいない。どこかの国の政治家はノーベル賞にご執心のようだが、「くれ」と言って、もらえたとして、嬉しいのだろうか? それじゃ何の意味もないことに気付いた方がいい。
せっかく道徳に目覚め、道徳的行為に勤しんでも、
自己優位の思いがあると容易に道を踏み外す。
神にしても善にしても道徳にしても、それは常に自分の上方に位置し、目指すべきものだ。それと自分を一体化ないし同列に捉えたら、上を見なくなり、逆にまわりを見下すようになる。これは非常に危ういことだ。自分が目指すものと一体化ないし同列となったら、向上を止め、堕落することになる。自分が他者より道徳的に優位だと思い込むことは、人としての道を踏み外す危険な思想だ。
汝、自己中心教・自己優位教から離れるべし。
西洋では無宗教だと人間扱いされないが、その理由がこれである。彼らは個人主義であり、自己中心・自己優位の思いに囚われやすいため、それを防ぐため宗教に入り、自己中心・自己優位の思いから放れようとしてきた。
でもはっきり言って、自己中心教・自己優位教から抜けるのに宗教は不要。自分がそう意識すればいいだけの話だ。それに、宗教に入っても、神を信じる自分は偉い、という思いが生じれば、かえって状況は悪化する。
宗教に入り神を信じる自分は偉い。
だから、そうでない者を教え導くのだ。
その高慢さが戦争や侵略につながった。
普通は理性が働き、こじらせないものだが、元々あった気質や因果に加え、特殊な環境がそうさせた可能性がある。普通の環境なら、まわりを見て異常に気付くものだが、環境そのものが異常だと、それにどっぷり浸かり、自分の異常さに気付けない。集団心理で合理的な判断ができなくなり、前後不覚の状態で同調行動することをレミング現象というが、それを素でやってる連中がいたっけ。
例えば、誰かを敵視し、憎しむことが常態化してる環境なら、憎しむことが普通になる。某国と自称リベラルの人は日本と日本人を憎んでいるが、まわりがそういう人たちばかりで、彼らの頭の中ではそれが正しい認識になっているのだろう。朱に交われば赤くなる。類は友を呼ぶ。
SNSなどの閉鎖的なコミュニティ内で似た意見が反響・増幅し、自説が正当かつ主流であると誤認する現象をエコーチェンバーという。自分と似た価値観を持つ人々とつながり、異なる意見が排除される閉鎖的環境においては、 同調意見ばかりが返ってくるため、自分の考えが正しいと勘違いし、異なる立場への理解が著しく低下し、対立や極端な偏りが生まれるようになる。
これは道徳的優位性(反道徳性)で起きるのと同じ現象。これにより、誤った情報が検証されずに真実として扱われ、さらにストローマン論法を駆使し、自分たちにとって都合よく情報を捻じ曲げていく。
ストローマン論法とは、相手が言ってないことを言ったことにして、
反論、いや難癖を付けるものだが、これは自称リベラルの常套手段だ。
例を挙げると――
「子供を道路で遊ばせるのは危険」→「子供を家に閉じ込めておけというのか」
とかね。咄嗟に言われると、そうかな、と思ってしまいがちだが、
相手の主張を歪め、言ってないことを言ったことにして、反論してるので、
実はまったく合理的ではない。
「働いて働いて働いてまいります」→「ワークライフバランスを壊す気か」
とかもね。自分がそうすると言ってるだけなのに、
他人に強いる話にすり替わっている。自分が責めやすいように。
「近隣の有事は日本の有事です」→「戦争を始めるのか」
「不法滞在外国人の取り締まりを強化します」→「外国人差別だ」
「スパイ防止法を制定します」→「基本的人権の侵害だ」
「偏向報道の是正をします」→「知る権利を守れ」
「靖国神社に参拝します」→「戦争を美化するな」
これらはすべて自称リベラルによるストローマン論法だが、これにお仲間であるマスコミの偏向報道、印象操作が加わり、普通に行動してる人が悪者扱いだ。誰かを悪者にして責めることにより、正義の旗手として振る舞い、燃料を投下して炎上させ、視聴率や部数を伸ばそうとする。
「エコーチェンバー」は、もともとは音響効果や実験のため人工的にエコー(反響)を作り出す部屋「残響室」を指す語であったが、メディア学などの分野で、声を出すとやまびこのように増幅して返ってくる残響室の様子に例えて、特定の主張だけが受け入れられ、あたかも異論が存在しないかのような集団の状態を指す用語として使われるようになった。
「自分たちは正義だ」と言えば、それが残響室でぐわんぐわんと響き、何の理論的根拠もなく、それを信じ込んでしまう。「嘘も百回言えば信じるになる」という言葉があるが、「自分たちは正義だ」が何度もエコーし、そのような状態になるのだろう。そして「〇〇は悪だ」と決めつけ、それをエコーさせ、激しい憎悪を相手に向けるのだ。
ネット社会では、自分とよく似た価値観を持つ人を探すことは容易であり、リアルな社会では不可能な人数の人とつながることができる。また、リアルな社会ではなかなか出会えないような価値観であってもネットであれば見つけられ、容易に居心地の良い情報環境を作りだせる。これによりネット社会ではエコーチェンバーが発生しやすい。
だが、エコーチェンバーの閉じた情報環境の内部にいる人は、何度も同じ情報を見聞きするため、怪しい情報でも信じやすくなり、また、自分とは異なる考え方や価値観の違う人々との交流がなくなり、自分とは異なる意見やデマを訂正する情報が入らなくなる。そうなると状況はさらに悪化する。
そして、そのエコーチェンバーを強化してるのがフィルターバブルだ、これは、アルゴリズムが利用者の趣味・嗜好を分析し、自動的に知りたい情報だけを表示する現象を指す。SNSや検索エンジンがユーザーの閲覧履歴や好みに合わせて情報を自動的に選択・表示するため、見たい情報ばかりに囲まれ、異なる視点や意見が遮断されるようになるのだ。
自分好みの情報ばかりのため、客観的・中立的な情報に触れにくくなり、それにより、自分の意見が正しいと思い込み、極端な思想や陰謀論を信じやすくなる。エコーチェンバー同様、道徳的優位性(反道徳性)の助長に一役買っていると言えるだろう。
これらの状況を鑑みて、僕はこの世界へのネット導入を見送った。便利なのは間違いないが、害が大きい。最大の問題はリアルでの人付き合いが減り、人からの学びが薄くなってしまうこと。この世界は霊界と違い、高低様々な周波数の人が同時空間に存在し、身近にリアルに接することで、その周波数に触れることができる。低級霊界では絶対に会うことができない高い周波数の人と会うことも可能だ。
この世に来た目的は、多くの人と交流し、その経験を通して、霊性(精神性)の向上を成し遂げるためだが、特に、自分より高い周波数の人との交流は良質な学びを得ることができるので、意識してやった方がいい。同類とばかり付き合っていては、やがて向上は頭打ちとなる。同類とだけ交流するなら、お里と同じであり、ここに来た意味が薄れてしまう。
そういう意味で、同類とばかり交流する(させようとする)、ネット、SNS、エコーチェンバー、フィルターバブルなどは霊性進化の妨げになりかねず、注意が必要だ。
それと、ネット偏重の社会は広いようでいて、狭い情報空間に偏る傾向があるため、セレンディピティ(偶然の発見)の減少が指摘される。予想外の情報や新しい視点に出会うチャンスが失われてしまうのだ。例えば、現物の本が置いてあるリアル書店なら、興味のない分野の本でも、たまたま気になり、手に取る偶然性はあるが、ネット書店では、それがほとんどない。興味のある分野や、お気に入りの作家や出版社に絞れるのは、探す手間が省けるが、それにより失うものもある。
この世で起きることはすべて必然。
人は生まれる前にすべての計画を立ててきた。
との説があるが、僕はこれに与しない。因果律は確かにあるが、何もかもすべてが因果で動いてるわけでなく、それから外れる動き、偶発性というものがあると考える。実際、物事はどんなに念入りに計画しても完全に予想通りになることはほぼない。何かしら予想外、計画外のことが起きる。
やってみなければ分からない。
これが真理であろう。以前の物理学は因果律を前提にしていたが、最新の量子力学でその前提が崩れている。通常、物理の世界では、物理という名の通り、物の動きだけで物事は決まり、そこに観測者の意思が入り込む余地はない。だが、二重スリット実験では同じ物理現象を起こしても、観測者の意識により観測結果が変わるのだ。これは従来の物理学(因果律)で説明することはできない。
かつてアンシュタインとボーアは量子力学の「因果性(決定論)」を巡り激しく論争した。アインシュタインは「神はサイコロを振らない」とし、現象は必然的因果で記述されるべきだと主張し、ボーアは観測が結果を決める「確率的」な「相補性」を主張したんだよな。
当時は大御所のアインシュタインと若手のボーアということもあり、アインシュタインがボーアを攻める形だったが、この論争は二人の後も続き、現代ではボーアの確率的解釈が物理学の標準的な解釈となっている。つまり最新の物理学では物事は因果だけでなく、それを越えた作用があることを認めているのだ。
ミクロな現象は観測されるまで状態が確定せずに確率的に振る舞い、
粒子性と波動性は相補的(同時に明確には測定できない)であり、
確定した因果的記述は不可能だそうな。
とにかく、この世界は因果ですべてが決まるものではないということだ。サイコロだって、普通、どの目も6分の1の確率で出ることになっているが、これだって実際にやってみないと分からない。ある人、あるケースでは、同じ目が続けて何回も出るかもしれない。ひょっとしたら、ずっとね。人がこの世界に生まれる確率を考えたら、まったく有り得ない話ではない。一説によると、人がこの世に生まれる確率は約400~700兆分の1という。まさに奇跡。
人は生まれる前、ある程度の計画を立てるのはその通りだが、それはあくまで主要な部分であり、細部まで決めてはいないと推察する。というか細部まで決めるなんてできないだろう。人は生まれてから死ぬまでの間、数多くの人と交流するが、それらがすべて計画通りいくものだろうか? 自分の行動もそうだが、他人の行動まで自分の計画に合わせるなんてできっこない。不確定要素がたくさんあるはず。
僕らは物理や因果律の影響を受け、それに基づく体験をしつつ、
偶発性、意外性、ドラマ性、超越性なども体験してるに違いない。
なぜ、そう考えるのかと言えば、神様の視点を想像したからだ。神様は人を創造し、人の活動を照覧されているが、もし、人の活動がすべて因果に基づくもので、何もかも計画通りに起きることなら、照覧しても面白くも何ともなく、そんなことなら、そもそも人を創造しなかっただろう。
何が起きるか分からない。わくわく。
という要素を神様は楽しんでいるのではないだろうか。
観たことがない芝居は楽しめるが、筋書や内容が分かった芝居は楽しめない。
インドの古代文献において、
世界は神の戯れ(リーラ)によって創られた、と示されているが、
これに従えば、世界の一部である人も同じなんだろう。
人をロボットのように定められた動きをするものとしてではなく、
何をするか分からない存在として創ったのだ。自分と同じように。
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