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第1881話 道徳的優位性4

 続きです。

 隣国なんだから仲良くしなければ。と主張するおめでたい人もいるが、それは互いの価値観が合った場合の話だ。それが合わないのに仲良くできるわけがない。特に某国は物心つく頃から反日教育を受け、日本に精神勝利することに無上の喜びを感じる反日ジャンキーだ。誰が自分のことを蛇蝎のごとく嫌う人間と仲良くできるだろうか? それを強要するなら罰ゲーム以外の何物でもない。


 もし仲良くしたい人がいるなら、当人がそうすればいいが、知れば知るほど嫌いになるのが某国であり、その先に明るい未来がないだろうことは忠告する。本当に向こうが良い国なら、こちらに来ている某国出身者が帰国するはずだが、彼らはいっこうに帰ろうとしない。なんだかんだ日本にケチをつけつつも、腹の中では某国がろくでもない場所であることを知っているのだろう。「強制連行された」と主張するなら、大手を振って母国に戻ればいい。誰も止めはしない。


 僕は排外主義者ではないので、今さら帰れとまでは言わないが、日本に暮らす以上、日本の世話になるわけだから、日本人にヘイトを向けるようなことはせず、礼儀をわきまえてもらいたい。これは日本に限らず、どの国でも求められるだろう。それができなければ、周囲から反感を持たれても仕方ない。それにより居心地が悪くなるだろうが自業自得だ。自分が相手に投げかけたものが自分に返ってくる。


 話を戻そう。


 道徳的優位性とは、自分や自分が属する集団が他よりも道徳的に優越している、という信念だが、その字面から受ける印象とは裏腹に非常に厄介でネガティブなものだ。これほど外側の印象と中身が違う概念はそうそうないだろう。


 自らの道徳的優位性を主張する個人や集団は独善的な思考を持ち、他に対して傲慢で軽蔑的、威圧的または攻撃的な態度をとる。彼らに共通するのは合理的な理由がないのに、自らが優れていると思い込むことだ。これは「優越の錯覚」と呼ばれる認知バイアスであり、これにより自らの道徳性を過大評価する。つまり、道徳的に優れているから自分が優位にあるというより、自分が優位にあるというバイアスにより、道徳的に優れていると思い込んでいるのだ。


 普通は善いことをして、その愚直な積み重ねにより、自己評価を上げるものだが、そうじゃない。最初に過大な自己評価があり、それにより自分がすることすべてが善いことだと思い込む。これは認知の歪みどころの話ではない。認知がひっくり返っている。


 善いことをして善い人を目指すのではなく、自分を善い人だと思い込み、その優れた自分がすることなのだから、間違いがあるはずがなく、やること為すこと善いことだと、これまた思い込む。


 道徳的優位性をこじらせるとこうなるが、それを細かく分析すると、非合理性、被害者意識、共感の欠如、特権意識、道徳的排除という現象が見えてくる。


「優越の錯覚」により、事実を客観的に見れなくなり、物事を合理的に判断できなくなる。それを指摘されたら、相手を加害者、自分を被害者と設定することにより心理的に防衛しようとする。当然、そんな状態では他者から距離を置かれ、ますます意固地になり、他者の意見や行動に対し不寛容になる。


 また、道徳的優位性は自らの特権性の主張根拠ともなる。自分の道徳的優位を信じることは、自分は守られ、承認され、尊敬される特権を持つと信じることにつながるのだ。そして、それを阻む敵対者を攻撃し、私刑にかけ、罰する特権を持つと信じるようにさえなる。


 自分たちの集団とその規範を他より優れたものとみなし、他の集団を、道徳的に義務付けられた権利と保護に値しないものとして軽蔑し、疎外し、排除し、あまつさえ非人間化する。


 つまり、道徳的優位性とは、道徳をツールとして利用しながらも、それはあくまで自分の優位性を保つためのものであり、他者の道徳は踏みにじっても構わないとするものだ。総じて言えば、まったく道徳的ではない。


 現代社会に蔓延する争いの多くは、家庭内から政治や宗教に至るまで、この道徳的優位をめぐる争いの面がある。異なる正義を信じる個人や集団が、それぞれの道徳性や精神性の優位を主張し合い、同時に、相手を劣ったものとみなして平然と攻撃する。


 自分の道徳性(善性)は自分で評価すべき性質のものではない。もし自分で自分を善い人だと評価するなら、それは単なる独善だ。独善は善と付くが善ではなく、はっきり言って悪である。それは道徳的優位性がもたらす現象を見れば一目瞭然であろう。自らの道徳的優位性を主張する個人や集団は道徳から最も遠い位置にある。


 道徳的優位性をこじらせる人は

 サイコパス、ソシオパス、ダークエンパス、反社会性パーソナリティ障害など

 と共通する部分が多いが、おそらく根っこは同じであろう。


 ただ、ここまで極端にいかなくても、その病的気質は多かれ少なかれ誰にでもある。道徳的優位性の根源となっているのは「自分は他人より優れている」という思いだが、実はこれ、ほとんどの人に標準装備されているんだよな。


 もちろん程度の差はあるが、人は皆、自分と他人を比較して、自分の方が上であり、特別だと思いたがる。そう、人は自らを過大評価し、他の人を過小評価する、という悪習を持っているのだ。


 自分は他人より上の存在だ。


 この思いの正体は傲慢であり、

 一生涯をかけて解消すべき悪想念のひとつとなっている。

 これは人が持つ原罪(根本的な罪)と言っていいかもしれない。


 傲慢は七つの大罪のひとつであり、対応する悪魔はルシファー。最強クラスの悪想念であり、これが他の多くの悪想念を生みだし、強化していることから、この克服・制御が霊性進化の鍵を握る。


 どの程度、自分は霊性進化できているのだろうか?

 その目安となる事例を出そう。AかBどちらか選択してもらいたい。


◇ 道を歩いていたら、石があり、躓きそうになった。


A わっ、なんで、こんなところに石がある!? 

  転んだら怪我をするかもしれないだろ。ふざけてやがる。

  人通りが多いんだから、誰か片付けておけ。

  前を歩いてる奴が何人もいるが、お前らのせいで

  転びそうになっただろ。追い越す際に睨みつけてやる。


B おっと、危ない。でも気付けて良かった。

  ここにあったら危ないから端に寄せておこう。


◇ 飲食店で料理を頼んだら、

  後から頼んだお客さんの方に先に料理が提供された。


A おいおい、何で向こうが先なんだ。こっちが先だろ! 

  畜生、ムカつく、店員が来たら、文句を言ってやる。


B きっと調理の都合か何かだろう。よくあることだ。

  気にしない、気にしない。


◇ 狭い道を歩いていたら、前から来る人とすれ違い様に

  肩が軽くぶつかった。(わざとではない)


A おい、肩がぶつかったぞ。もっと端に寄れ。

  不愉快な気分にさせるな。ちっ、腹立つ。


B おっと、ぶつかってしまった。一言、謝ろう。


◇ 一日の終わり、寝る前。


A 今日はムカつくことばかりだった。本当にムカつく。

  もっと人(自分)に気を使え。


B 今日も平穏無事で良い一日だった。

  感謝しながら寝るとしよう。


 Aを選択する人は道徳的優位性(特権意識・傲慢)が強く、

 Bを選択する人はそれが弱い人すなわち道徳的な人だ。


 AもBも目の前で起こる現象は同じだが、意識の違いにより、Aは地獄、Bは天国のようになってしまった。AとBの意識の違いは精神性の高さの違いによるものだが、それを突き詰めると、Aは「してもらって当然」という意識、Bは「してもらって有難い」という意識だろう。この「してもらって当然」という意識は例えるなら幼児の意識のようなもの。


 幼児は親から、「してもらう」のが当然であり、逆に幼児から親に「しよう」とは思わない。親が与える側、幼児がもらう側という一方通行の関係だ。だが、通常、成長するに従い、「もらう」ことに対し「お返し」を意識し、かつ実行するようになり、いっぱしの大人になれば、ギブ&テイクが普通になる。だが、肉体が大人になっても、精神が幼児のままの者は、ずっと「もらう」だけの一方通行であり、「してもらって当然」をまわりに強いるのだ。


 肉体はしっかり大人で、いろいろ知識を詰め込んで頭も良く、学歴や職歴が立派でも、こういう人はそのあたりに普通にいる。いくら外面を取り繕っても、それだけで内面は成長しない。


 そうそう、誤解がないようにしたいが、幼児が「してもらう」のは当然であり、貶める意図はまったくない。物理的にも精神的にも親の助けがなければ生きていけない状態なのだからね。だが、大人になれば話は別。自分で働き、稼ぎ、お返しすることが可能なのに、それをしないなら大いに問題だ。


 こういう人が増えれば、周囲が疲弊し、世の中は乱れるだろう。

 精神的に成長しない、ということは悪と等しい。


 多くの人は低級霊界から、ここに来ているが、それは精神的に成長するためだ。肉体や環境はそのためのツールである。だからツールをうまく活用して、どんどん精神的に成長しよう。ツール磨きにかまけるのではなく、やるべきは心魂磨きだ。

 

 この意識の有り様により、成長に大きな違いが発生する。同じ低級霊界出身で、スタート時点は一緒でも、意識の違いで大きな差となるだろう。なにせ精神は肉体と違い、その気になれば、一生成長することができる。肉体は20代でピークを迎えるが、精神は20代は序の口、30代、40代、50代と、年と共にずっと伸び続ける。


 なので、肉体年齢は40才でも、精神年齢は60才、80才という人がいるし、逆に、20才、10才という人がいたりする。こう捉えると人に対する見方が大きく変わるだろうが、外面ではなく内面で判断するのが正しい向き合い方であり、そう変わり、そうあるべきだ。


 想像してみて欲しい。

 もし肉体年齢は50才なのに精神年齢は5才のままという人がいたら、

 どうなるか。


 おそらくというか、間違いなく、周囲を振り回し、多くの人に迷惑をかけることになるだろう。5才児は他者への配慮が不足し、自己中心的で好き勝手に行動する。それでも本当の5才児なら、小さいし、金も知恵も権力もないので、周囲の大人が言うことを聞かせられるが、肉体年齢50才はそうはいかない。金や知恵や権力を持っていたりするので、遊び道具のようにそれを使う。『キ〇〇イに刃物』という言葉があるが、まさにそれ。


 何を言いたいかというと、年相応に精神性を成長させないと、

 まわりに迷惑をかけ、業を積みやすいということだ。

 得積みなど考えも及ばないだろう。


 おっ、マイ図書館から情報が入ってきた。ふむふむ、これも興味深い内容だな。


『私は人を雇う際、3つの条件で判断する。

 第一が人間としての誠実さ。第二が知性、そして第三が行動力だ。

 ただし第一の条件が欠けると、他の二つはその人を滅ぼす』


 これはアメリカの投資家、経営者、資産家、慈善家であるウォーレン・バフェットの言葉だが、精神性をおざなりにしたまま、突き進むことの警告となるものだ。おそらく彼はそういう事例を数多く見聞し、また自身も体験することにより、その知見を得たのだろう。


 僕は他人の上前(労働成果)をはねる生き方を忌避しており、株で儲ける投資家という職業をまともな職業とみなしていないが、だからと言って、それに関わる人を全否定することはしない。特にバフェットは「投資の神様」と言われるだけあって、他の投資家とは色合いがかなり違うしね。彼は独特の哲学を持っており、それは投資戦略にも表れている。


『他人が貪欲なときに恐れ、他人が恐れているときに貪欲であれ』


『投資の第1ルールは、絶対に損をしないこと。

 第2ルールは、第1ルールを忘れないこと』


『株式市場は、せっかちな人から忍耐強い人にお金を移転するための装置である』


『まずまずの企業を素晴らしい価格で買うよりも、

 素晴らしい企業をまずまずの価格で買う方がはるかに良い』


『10年間保有する気がなければ、10分間でも保有してはならない』


『私は、愚か者でも経営できるくらい素晴らしい企業の株を買うようにしている。

 遅かれ早かれ、そういう人間が経営者になるのだから』


 とかね。アメリカ人らしく、少しユーモア含みだが、

 ウイットに富み、核心を突いているんじゃないかな。

 人生訓でも、的を得たことを言っている。


『悪いことは起きるものだから、それよりも人生でよかったこと

 に目を向けるべきだ』


『評判を築くのに20年かかるが、それを壊すのは5分でできる』


『価格とはあなたが支払うもの、価値とはあなたが得るものだ』


 得る、というより、見いだす、という方が正しいだろう。


『リスクとは、自分が何をしているのか理解していないことから生まれる』


 そうそう、リスクをリスクとして認識していないことが

 最大のリスクだ。


『私は確実なことを好む。樽の中にいる魚を捕りたいが、

 捕るなら水がすっかり抜けた後にしたい』


 石橋を叩いて渡る、だな。


『床屋に行って『散髪が必要か』と聞いてはいけない』


 これは『空気を読む』に該当するな。


『自分より優れた人と付き合う方がいい。自分より振る舞いの立派な仲間を

 選べば、自分もその方向に引っ張られていく』


『時代遅れになるようなら、それは『原則』ではない』


 まぁそうなんだけど、原則の重要性を知らず、知りたがらず、

 時代遅れ扱いするケースもあるんじゃないかな。


『予測が教えてくれることは、未来のことではなく、

 むしろ予測者のことである』


 他にもたくさんあるが、バフェットの教えは、ビジネスの世界から家庭生活に至るまで、あらゆる分野に適用できると評されており、とても一投資家の枠に収まる人物ではない。投資家という職業でありながら、彼には共感できる部分がある。


 彼は伝説的な投資家で、世界最大級の企業の指揮をとり、何十年もの間、世界で最も裕福な人物の1人に数えられている。だが、彼の報酬は年間10万ドルと控えめであり、その金額は40年間上がっていないことが、アメリカ証券取引委員会への提出書類で判明している。2019年のS&P500企業のCEOの平均年俸である1500万ドルに比べるとごくわずかだ。


 1ドル150円で換算したら、

 バフェットの年俸は1500万円、

 S&P500企業のCEOの平均年俸は22億5000万円だ。

 この差は凄まじいなんてレベルではない。有り得ないレベルだ。


 こうなると、同じ投資家でも味方がまったく変わってくる。僕が投資を忌避するのは自己の労働に対し、報酬が多過ぎることによるものだが、バフェットはそのあたりを意識し、自己の労働分の報酬に抑えている可能性が多分にある。というか、行動からしてそうだろう。行動こそが最大の雄弁者だ。


 バフェットは、高額の収入を求めず、大金を使うこともなく、控えめな住居に住み、ごく普通の車(スバル車)に乗り、マクドナルドの朝食を好んで食べるという。にわかに信じがたいが、朝マックしてるそうだ。毎日車でドライブスルーを利用し、株価(ダウ平均)が高い日は高価なセット、低い日は安価なメニューを選ぶというこだわりがあるんだと。


 ちなみにバフェットの年俸が10万ドルなのは事実だが、彼の警備費用(会社負担)はその3倍かかっているらしい。それでも、世界一の投資家にしてはかなり少ない金額だ。ただ、誘拐などのトラブルにあった話は聞かないので、何か特別なものを持ってるのだろう。投資と言っても堅実投資一本槍で、人から恨みを買うような投資をしてこなかったしね。

 最後までお読み頂きまして、誠にありがとうございました。もし拙作を気にいって頂けましたら、いいね、ブックマーク、評価をして頂けると大変有難いです。

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