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第1873話 教育番組~仕事論8~

 続きです。

 働くは傍を楽にすることであり、仕事は誰かに仕える事、

 どちらも他人の役に立ち、他人を幸せにすることで、

 自分も幸せになる。世のため人のためは自分のためでもある。


 次の質問者が手を挙げる。


「ハラスメント規制はすべきだと考えますが、一方、修行にもなります。

 そのあたりはいかがでしょうか?」


 僕の話をよく聞いている。矛盾点を解消したいということだな。


「確かにハラスメントを受けても、『スルー』や『話半分で聞く』をすれば、かわすことができるだろう。まともに受ける必要はないが、あえて受けて修行とすることはできないでもない。だけど、それはあまりお勧めしない。というのも、ハラスメントは悪行だからだ。やる側にその自覚がなくてもね。だから、それをする側は業を積むことになる。それだと相手が可哀想だ。だから可能なら注意し、改めてもらうのが望ましい。「そんなことしない方がいいよ」とね。仮に『スルー』や『話半分で聞く』にしても、最初の数回は注意しよう。それが思いやりというものだ」


 可哀想と思っても、ただ思うだけなら、慈愛の善性より、我関せず、高みの見物、蔑みという悪性の方が強くなる。例を言うなら、見世物小屋に通う客のようなもの。本当に可哀想と思うなら、そこで終わらず、一歩踏み出して助け舟を出す。「可哀想~w」「哀れ~w」「悲惨~w」などと言いながら、ニヤつくだけなら小悪人だ。こういう行為も業を積む。


「相手が改めない場合はいかがでしょうか?」


「その場合は仕方ない。チャンスを与えて、それを活かさなかったわけだから、

 こちらに非はない。堂々と『スルー』や『話半分で聞く』を行使すればいい」


 これも言っておこう。


「今の件に絡み、相手がハラスメントしてきて、それを自分の修行と割り切る場合の注意点を言っておく。これにより相手は業を積むことになるが、間違っても、『ざまあみろ』『馬鹿な奴だな』などと思わないこと。そんなことをしたら自分も業を積むことになる。他人の不幸を喜ぶのと構造的に一緒だからね」


 パネルを提示する。


□-------------------


 蔑み、見下し、上から目線、高みの見物


□-------------------


「人を下に見る行為は慎むように。これは悪であり、業を積む。仮に自分が正しく、相手が間違っていても、それで相手を下に見たらダメ。その行為自体が間違っている」


 上から目線は日常的にありがちな行為だが、これを常態化してる人は日々、業を積むことになるので、気付かずそれを続けていると、一生のうちに膨大な量の業となるだろう。安全な場所から偉そうに言うポジショントークも同じ。いくら良い内容のことを言っても、それで「自分はお前たちより偉い、上の存在だ」と悦に浸るなら、どんどん業を積む。


 僕も人前で話すことが多いので、この点はよくよく注意している。

 まったく他人事ではない。


 マザー・テレサは「大切なのは、どれだけ大きなことをするかではなく、 小さなことにどれだけ大きな愛を込めるかです」と言ったが、行為をする際、その行為にどのような思いを込めるかが肝心だ。同じ行為であっても、悪い想念を抱きながらするのと、善い想念を抱きながらするのとでは、結果が大きく変わってくる。


「精神修行をして精神性が高くなると、ついつい慢心し、まわりを見下すことがあるが、それで精神を安定させるようなことはすべきではない。例えば、人の悪口を言いまくる人や、感情むき出しに怒る人や、ハラスメントして悦に浸っているような人を見て、『哀れ』『レベルが低い』と見下すのもね。ついついやってしまいがちだが、やらないように」


 哀れと思えば、思った方が哀れとなり、

 レベルが低いと思えば、思った方のレベルが低くなる。

 馬鹿と思えば、思った方が馬鹿になる。


 汝、人を見下すなかれ。

 この世に見下していい人はただの一人も存在しない。 

 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。

 

 アンガーマネジメントには、最初の数秒、怒りを抑え込めば、後は我慢できるという手法(6秒ルール)があるが、この他、相手を取るに足らない人物とみなし、それにより怒りを発生させないという手法(認知の転換)がある。


 大勢の前で話すとアガるので、相手をジャガイモか何かだと思えば、アガらないのと理屈は同じだが、これを僕はお勧めしない。相手を下に見ることにより、波長が合わなくなり、相手から影響を受けにくくなるが、相手を下に見る行為そのものが悪いことだ。


 相手を下に見ることにより、自分が上にいると錯覚しがちだが、意識のベクトルが下に向かうから、波長が下がることになる。意識はそれを向けた対象物と同調する性質があるからね。「自分はお前たちより上だ」と思えば、自分の波長を落とすことになる。


『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』

               フリードリヒ・ニーチェ


 やるなら、取るに足らない人物やジャガイモのように下の存在と思うのではなく、味方と思うことだ。サッカーの試合ではアウェーだと敵チームから罵声を浴び、委縮して実力が発揮できないということがあるが、敵チームの応援団を味方の応援団とみなし、罵声を応援だと思えばいい。プロはそれをやっている。


 この世で一番重要なことは、自分がどこにいるかではなく、どの方向に向かっているかだ。他人を見下すことにより、意識が下に向かえば、必然的に自分の意識は下に落ちることになる。『蜘蛛の糸』の主人公の犍陀多かんだたは糸を信じて、そのまま素直に上にあがれば天に行けたが、途中、下に意識を向け、自分の後を追って登ってくる亡者たちに対し、見下すことを口走ったがため、糸が切れ、元いた地獄に落ちてしまった。


「加害者のことも考えるんですね」


「そういうこと。被害者がハラスメント受けを修行として好意的に解釈できれば、加害者の業積みは軽減されるだろう。でも、行為そのものがなくなるわけじゃないから、本当はやめさせた方がいい。だから最初に注意する。相手のことを思って」


 いじめやハラスメントをする人に対し、やめるように言うのは慈悲だ。最終的にやめるか否かは相手次第だが、言う前から「言っても無駄」と決めつけるのではなく、最低一度は言ってみる。できれば二度、三度。僕が見たところ、言えば直す人はかなりの割合でいて、心の奥で言ってくれるのを待っている。そこは救い上げないとね。問答無用でバッサリはダメ、誰でも間違いはあり、チャンスを与えないと。


 せっかく縁あって結婚したのに、たった一度の不倫で離婚するケースがある。不倫はあってはならないことであり、された側からすると裏切り者を許したくないのは感情的によく分かる。だが、初回なら更生のチャンスを与えるべきというのが僕の考えだ。


 人は過ちを犯すもの。過ちを犯さない人はこの世に存在しない。その事実を鑑みれば、一度の過ちも許さないのでは器が小さ過ぎる。この経験を乗り越えることにより器を大きくするべきだ。許さない人の理屈として、一度、不倫した者は二度、三度、繰り返す、というのがあるが、確かにそういう人もいるだろう。その場合は遠慮なく離婚すればいい。だが中には、一度の過ちできっぱり直せる人もいるはずだ。それを見てから判断してもいいのではないだろうか。いきなりレッドカードではなく、先ずはイエローカードを出そう。


 どんな人もミスをするものであり、そのミスを乗り越えることにより、成長することができる。ミスをした相手を許すことができるなら、これまで以上の大きな愛や信用を相手から得ることができ、互いに精神性を高めることができるだろう。だが許さず、相手との関係を切ったら、その機会をみすみす逃すことになる。


 一度は許す。それは互いのためになる。

 愛、許し、慈悲、忍耐、寛容の精神を学ぶのだ。

 だが、何度も許す必要はない。それは互いのためにならない。

 仏の顔も三度まで。


 修行の猛者ともなると、他人からの、いじめ、迫害、裏切り、ハラスメントなどを喜び、どんどん受けようとするが、それは相手のことが見えておらず、望ましいことではない。相手の業積みと引き換えに自分の業を解消してもねぇ。


 やられる側を喜ぶという被害者意識は決していいものではない。自分は被害者だと思うことにより、加害者より道徳的に優位だとみなし、加害者を見下すようになる。狡猾な悪党はそれを知っており、加害者であっても被害者ぶったりする。だが、道徳的優位になったとしても、それで相手を見下せば、結局、自分の波長を落とすだけなんだけどね。


 ある家庭で、夫が妻に対し、パワハラ、モラハラしまくり、

 妻がそれにひたすら耐え続けるというのがあった。


 普通ならすぐ破綻するはずだが、そうならなかった。

 妻の我慢でね。どうして妻は我慢できたか? 


 それは心の中で夫を見下し、夫より自分の方が精神的に上だと思っていたからだ。まともな人物ではなく、くだらない人物だと思うことにより、夫の言動が気にならなくなっていた。


 ただ、どうだろう。

 夫が妻を見下し、妻も夫を見下す関係が健全と言えるだろうか?


 修行にはなるものの、同時も業を積むため、好ましい状態とはとても言えない。こういう夫婦は妻が先立つと残された夫はがたがたに崩れ、夫が先立つと妻は喜び、ずっと夫の悪口をグチグチ言いながら過ごしそう。


 修行しても精神性が向上しないことがあるが、

 それはこのように修行の質が悪いからだ。こういう修行は避けた方がいい。


 夫婦であれば、互いに善想念を抱き、高め合う関係がいい。

 互いに悪想念を抱き、低め合う関係じゃ、低級霊界と一緒。 


 次の質問者が手を挙げる。


「仕事は修行という理解で宜しいのでしょうか?」

「そうだね。苦しい仕事ほど、苦行としての性格が強くなる」

「ハラスメントがあったたら猶更ですね」


「そうそう。だけど仕事を続けるうちに利他の気持ちが育まれ、利他行の性格が強くなっていく。さらに進むと楽しさ生まれ、楽行となっていくんだ。これゆえ同じ仕事をしていても、苦しく感じる人もいれば、楽しく感じる人もいる」


 パネルを提示する。


□----


 苦行

 利他行

 楽行


□----


「楽行は自分が楽しいだけでなく、相手やまわりも楽ませるものだから、そう簡単にはいかない。歌手なら自分だけでなく聴衆を楽しませ、料理人なら自分だけでなく、お客さんを満足させなければならない。そのレベルに達するには苦行、利他行を経験する必要がある」


 これは因果解消の方法でもあり、因果解消には他に、善念行、神念行があるが、これはあくまで念行(お祈り)であり、実践の場である現世では、それだけに没入するのは避けるべきだ。「ありがとうございます」ばかり唱えて、あとは何もしないんじゃねぇ。これに限らず、長時間、お経や真言や祝詞やマントラなどを唱え続ける修行はどうかと思う。瞑想と同じく、お祈りは程々でいい。


 それより、実践行として、苦行、利他行、楽行を行う。それが仕事だ。仕事を

 せず、ずっと引き籠って、瞑想やお祈りばかりするのは正しいあり方ではない。


 ここでいう仕事は、外で働く勤め人の仕事に限らず、家事、育児、勉強、創作、奉仕などの活動も入る。子守りやペットの世話や掃除などももちろんね。五体を使って、人のために行動するなら、すべて仕事になる。

 最後までお読み頂きまして、誠にありがとうございました。もし拙作を気にいって頂けましたら、いいね、ブックマーク、評価をして頂けると大変有難いです。

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