第二章 囚われの記憶 ーキャプテンー
「遅いよ、水野」
部室に入った途端、三年生のキャプテン、柚木に声をかけられた。
部室には柚木だけで、他の部員は既にグラウンドで練習を始めているようだった。
柚木も備品を取りにきて部室に戻ってきただけのようだ。
「あの……、補習があって」
急いで荷物を置いて着替えようとする早紀を、柚木は笑って制した。
「わかってるよ。大変だったね」
それまで教室でずっと緊張しっぱなしだった早紀の心は、その言葉だけで緩んだ。
「すみません」
柚木は、入部当初から早紀の面倒を良く見てくれていた。
他の三年の先輩が、結衣と早紀を比較してくるばかりなのに対して、柚木だけは、結衣と比べたりせずに早紀そのものを見てくれているように感じていた。
柚木たちが一年の頃三年だった結衣は、柚木たちにとってはまるで女神のように見えたに違いない。
その年結衣は、キャプテンとして見事チームをインターハイ優勝へと導いた。
その姿を見て入部した現三年部員も少なくない。
それだけに現三年のいる陸上部は、早紀にとって居心地の良い場所ではなかった。
それでも陸上部に入ったのは、やはり姉を超えたいという思いが早紀の中にあったからだ。
姉と同じ場所で姉以上の結果を残したい。
気持ちばかりが焦り、二年の今になっても未だにチームのエースの座を確固たるものにするに至っていない。
そんな早紀を、柚木はずっと静かに見ていてくれた。
柚木は必要な備品を手に取ると、部室のドアに手をかけ、振り返って早紀に言った。
「後で大事な話があるから。部活の後ちょっと残ってくれるかな?」
「……わかりました」
大事な話、かあ。
柚木が出ていった一人の部室で、大事な話の内容を推測しながら早紀はユニフォームに着替えてグラウンドに向かった。
「はい、みんな集合!」
早紀がグラウンドに入ってきたのを確認すると、柚木が部員全員を集めた。
「今から二百メートルのタイムを計る。このタイムは来月の夏の大会のメンバーの選考基準になるから、そのつもりで」
柚木の言葉に、部員全員の顔が引き締まった。
今度の夏の大会。
それは、柚木たち三年にとっては最後の大会だった。
負けたら最後の、絶対に負けられない大会だ。
去年、一昨年は、インターハイにこそ行けたものの、初戦で敗退してしまった。
結衣が抜けて絶対的エースのいなくなったチームの弱点が露呈された大会だった。
この一年、柚木はチームの引き締めに力を注いできた。
その結果が試される大会の選抜メンバーを決めるだけに、部員全員の意気込みは相当なものだ。
「もちろんこのタイムだけでメンバーを決めることはない。でも、本番のつもりで走ってほしい」
柚木は言葉に力を込めた。
「選抜メンバーに学年は関係ない。三年だろうがタイムが遅ければ大会には出さないし、一年生でも成績が良ければメンバーに入れる」
早紀はそうやって、去年一年生ながら選抜メンバーに選ばれた。
しかし結果は振るわず、結衣のことを良く知るそのときの三年生に陰口を叩かれていたことは知っている。
「結衣先輩の妹だから、もっとやれると思ったのになー」
そんな先輩たちをいなしてくれたのが柚木だったことも、早紀はなんとなく感づいていた。
「水野は今来たばっかりだから、ウォーミングアップして。最後に計測を行う。他の選手は、名前を呼ばれたものから順番にタイムを計る。最初は、赤坂、赤井、前に出て」
柚木はてきぱきとキャプテンとしての仕事を果たしている。
そんな柚木を見ながら、柚木の期待を裏切るようなことだけはしたくないと早紀は思った。
早紀に測定の順番が回ってきたのは、最終下校時間ぎりぎりの時間だった。