第一章 呼び合うふたり① ー昼休みー
「結衣、お昼食べよっ」
昼休みになると早速、加奈子が結衣の袖を引っ張った。
「食堂行くよっ」
強引に引っ張っていこうとする加奈子を、結衣は押し止めた。
まだ授業の教科書やノートを片付けられていなかったからだ。
「まだ片付けてないの? 早く行こうよ。もう食堂の席埋まっちゃうよ?」
「加奈子は授業の最後の方で既に教科書しまってたじゃん。しまうの早すぎだよー。それに、そんなに急がなくてもきっと恵子たちが先に行って席とってくれてるでしょ?」
隣のクラスの恵子たちは食堂の近く教室での授業なので、いつも席を確保してくれているのだ。
「結衣ちゃん、ここのとこわからなかったんだけど、ちょっと教えてくれるかな?」
「花園、俺もそこんとこわからんかったからちょっと教えてくれ」
授業後にはいつも何人かの生徒が結衣の席にやってくる。
結衣はいつも嫌な顔一つせず全ての質問に答えていた。
「もー。あんたたち、質問なら先生に聞きなよ!」
加奈子が文句を言うと、質問にきた男子生徒が唸る。
「だって、花園の方がわかりやすいしな」
その言葉に反論できず、加奈子はぐっと黙った。
「もう、先に行っちゃうよー」
いつもそう言いながら、加奈子は最後まで待っていてくれる。
最後の生徒の質問が終わり、やっと結衣が自由になった頃には、既に二十分ほどが経っていた。
昼休みは短い。
今度こそ結衣を引っ張っていこうとした加奈子の袖を、結衣が逆に引っ張った。
「加奈子。あの子」
結衣は、教室の隅に一人で座ってご飯を食べている女子生徒を指差した。
「ああ、田中さん? 今日は吉野さん休みだから、一人なのかな」
二人はおとなしい生徒で、いつも二人で行動していた。
「ちょっと……」
加奈子が止める前に、結衣は田中の席まで歩いていっていた。
「もう、また遅くなっちゃうよ」
そう言いながらも加奈子は結衣のそんな優しさが大好きだった。
「ねー田中さん、一緒に食堂でお昼食べない?」
急に話しかけられた田中は、びっくりした様子で恥ずかしそうに首を振った。
眼鏡の奥の目がぱちくりとせわしなく動く。
「田中さん、書道部でしょ? 他にも書道部の子いるから、田中さんが来てくれたらきっとみんな喜ぶよ。ね、行こっ」
田中は少し迷って、首を縦に振った。
昼休みは、早紀の最も嫌いな時間だった。
早紀のひそひそ話をするののかたちのグループが居る教室で食べる昼食は、味もしなければ食べた気にもならなかった。
かといって一部生徒のようにトイレで昼食を食べようとも思わない。
ののかに負けたくなかった。
いつものように自分の席で弁当を広げようとしていると、いつのまにか早紀の席まできていた畑中先生に話しかけられた。
「水野、お前、大丈夫か?」
脈絡もなく心配されて、早紀は動揺した。
「なんのことですか?」
「物理の小テスト、お前、クラスで最下位だったぞ」
なんだ、その話か。
早紀は心にシャッターが下りるのを感じた。
てゆうか、大丈夫かって……、失礼じゃないか?
「ごめんなさい。最近部活が忙しくて、あんまり勉強してませんでした」
俯いて、できるだけ小さな声で答える。
きっとののかたちが盗み聞きしているからだ。
「しっかりしてくれよ水野。お前の姉さんは常に学年トップだったぞ。お前も、やればきっとできるはずだ。な。部活だけじゃなく、ちゃんと勉強もするんだぞ。もし今度のテストで赤点とったら、学校の決まりで部活動禁止なんだぞ。陸上部の高橋先生も、水野には期待してるとおっしゃってたんだから、頑張れよ」
きっと早紀を励まそうとしているんだろうことは、早紀にも感じ取れた。
ただ、そんなことはどうでもよくなるくらい、吐き気がしそうなほどの嫌悪感を覚えた。
“お前の姉さんは常に学年トップだったぞ。”
何度その言葉を聞かされたかわからない。
姉とは違って成績の悪い自分に、周りが勝手に期待して、勝手にがっかりされているのを感じる。
早紀はその度、あんなに大好きだった姉の存在が認められなくなる。
そんなことを考えている自分は、どうしようもなく嫌いだ。
お姉ちゃん。
私は、あなたみたいにはなれそうにないよ…。
心の声は、誰にも聞こえない。
決して、誰にも。
気がつくと、畑中先生は教室から出て行っていた。
早紀は、開きかけた弁当箱を閉じた。
食欲が湧かなかったからだ。
お腹は空いているはずなのに、食欲がない。
食べ物を口にすると、吐いてしまいたくなるのがわかっていた。
弁当箱を閉じて、休み時間いっぱい校内をぶらぶらすることにした。
「水野さんどこに行くの? 一緒にお弁当食べましょうよ」
教室から出て行こうとする早紀を、そんな気はないのにののかが呼び止めた。
ののかと席をくっつけて一緒に昼食をとっている連中は、それをにやにやしながら見ている。
「ありがとう如月さん」
それだけ言って、早紀は教室を後にした。
追いかけてくる笑い声は聞こえないふりをして。
図書館にでも行こうと階段を上がっていると、運悪く踊り場で荒木先輩が数人の友人と談笑しているとこ
ろに遭遇した。
引き返そうかとも思ったが、それも癪なので、早紀は気づかないふりをして通り過ぎようとした。
だが、荒木は早紀を見逃してはくれなかった。
「水野」
他の先輩の手前、呼び止める声を無視するわけにもいかず、早紀は水野の前で立ち止まった。
「お前ら、先に教室に帰ってくれ」
荒木は友人を追い払うと、早紀に向き直った。
「なんですか」
感情を出さないように意識はしていたが、それでも嫌悪感のこもった声になってしまった。
荒木先輩に告白されて以来、ののかのいじめは目に見えてひどくなった。
この件に関しては、自分は何もしていない。
何も悪くない。
周囲の感情に巻き込まれて嫌な思いをするのにはうんざりしていた。
なぜ自分なんかに告白したのか。
女子たちに人気があることは、先輩本人も自覚しているはずなのに。
女子の嫉妬、妬みが、告白された誰かを苦しめるとは考えなかったのか。
それに、告白したことをみんなに言いふらしたことにも腹が立つ。
次の日には、早紀が荒木先輩をフッたという話が学校中を駆け回っていたからだ。
「ごめんな。水野。俺が告白したこと、連れが隠れて見てたみたいで、それで、そいつがみんなに言いふらしやがって……」
ばつが悪そうに荒木は頭をかいた。
「ほんとに……、ごめん」
荒木は腰を折って、深々と頭を下げた。
そんなことでは、早紀の感情はどうにもならなかった。
「別にいいです」
それだけ言って、早紀は背中を向けて階段を上ろうとした。
「俺は!」
頭を下げたまま、荒木は言葉を続けた。
「俺は、ひたむきに走る水野のことが好きになったんだ。野球部の練習してると、同じグラウンドで練習してる陸上部が、よく見えるんだよ。水野はうちの強豪の陸上部の中で、なんとか一つでも上のポジションをとろうともがいてて、そんんな姿を俺、毎日見てて、それで……」
荒木は頭を上げて、早紀の顔を見た。
「俺、水野のこと、尊敬してるんだ。あんなにすげー姉ちゃんに追いつこうとひたすら頑張ってる姿とか、ほんとにすげーなって思ったんだ。だから……、こんなことになって、ほんとに、ごめん」
何も言うことができず、早紀はその場を後にした。
自分のことをそんな風に見てくれてる人が居ることに、早紀は驚いた。
荒木のことが気になりだしたわけではない。
結衣の妹としてではなく、自分自身を見てくれている人が居ることに、早紀は初めて気づいた。
午後の授業は頭に入らなかった。
初めて、この学校に自分が存在しているような気がした。
そうやって悶々としていると、いつのまにか放課後になっていた。