第1話 野良猫ミア
第一話 野良猫ミア
妙に日差しが強い日だった。長く厳しい冬が過ぎ、ようやく獣が巣穴から這い出る時分だというのに、ミアの粗末な一張羅はすでにじっとりと湿っている。いい加減、このボロともおさらばしたいものだ。元々、職人街のごみ捨てにあったものを拝借してきたのだから、大したものではないだろう。だが、それにしたって、この頃は服としての機能が損なわれすぎている。シャツもズボンもそこらじゅう擦り切れているし、靴もぶかぶか。そのうえ、底が外れかけているので走りにくくて仕方がない。石に腰掛け、足を放りながら、この靴を履き続けるなら、もっときつく縛らなければならないな、と思った。
つい先日も、足に合わないこのボロ靴のせいで、警備隊に捕まりかけた。
二日前のことだ。懐に手を入れるだけの簡単な仕事を終え、気持ちよく串焼きをほおばっていたら、突然首根っこをつかまれた。逃げようとした一歩目で、靴底が引っかかってつまずいたのがまずかった。咄嗟に、手に持っていた串を相手の腕にぶっ刺して難を逃れたが、さすがにあのときは肝が冷えたものだ。
しかし、逃げおおせてみれば、だんだんと腹が立ってきた。忌々しい警備隊め。野良猫でも捕まえるみたいに扱いやがって。おかげで、襟首が伸びてしまったではないか。いかにミアが少年のような風貌をしているといっても、ごろつきどもが闊歩する街で胸元を晒して歩くのはリスクを伴う。まあ、そう簡単に捕まるわけもないのだが、余計な面倒ごとを抱えるのはごめんだった。結局、適当な布をスカーフのように巻いて隠したが、そのせいで汗まみれになっているのだから、また忌々しい。
「ふざけやがって」
唾を吐き捨て、天を仰ぎ見ると、頭上には雲一つない青空が広がっていた。慈悲深いはずの太陽がじっとミアを見つめていたが、どうやら見下ろすだけで、手を差し伸べてはくれないらしい。
ああ、腹が減った。身一つで警備隊から逃げてきたから、ここ二日間ろくなものを食っていない。そろそろ、さくっともうひと仕事こなしておくべきだった。
ミアのらんらんと光る金色の瞳は、右から左へせわしなく動き、しかし、市場全体をくまなく見渡していた。
今日も市場は、おびただしい数の人で溢れている。まっ昼間から赤ら顔でフラフラと歩く傭兵崩れやら、乳飲み子を紐でくくったくたびれたおっかさんやら、金歯を賭け金にでもしたのか不自然な歯抜けの目立つ乞食やら、多種多様な人種が交じりあって、市場は異様な臭気を発していた。ミアもその臭いの発生源の一つであることは言うまでもない。路地裏では、目の焦点の合わない男が、不自然な色をした粉末をなめてへらへら笑っている。あの男は二度とまともな顔に戻れないだろう。ああはなりたくないものだ。
そう、この市場は、社会からはじき出された落伍者どもの吹き溜まりなのだ。かく言うミアもその一人で、物心ついたころには親も兄弟もなく、特別製の足一つでこの地獄を生き抜いてきた。
無論、こういう連中を狙ったところでうまみはない。狙うべきは、外から来る買い物客だ。
こんな場所だが、いや、だからこそ、この市場には怪しい魅力をたたえた商品に満ち溢れている。それは、夢を見ているような高揚感を味わえる慰めの薬だの、持ち主を次々に死に追いやる呪いの指輪だの、ミアから言わせれば、腹の一つも膨れない無価値な代物なのだが、わざわざ遠方から訪ねてくる趣味の良い客は後を絶たない。ろくでもない夢を売りさばく場所では、存外大きな金が動くのだ。この市場でも、一攫千金を夢見る商人が、傭兵を連れて意気揚々とやってくる。しかし、眉唾の噂に飛びつくような商人である。往々にして審美眼というものが育っていないので、悲しいかな、雇う傭兵のセンスもない。大抵の場合、簡単にミアの飯のタネになってくれる。
財布の厚そうな商人を探して大通りに降りると、じゅうっと、甘辛いタレに漬け込んだ鶏が焦げる香ばしい匂いがミアの鼻孔をくすぐり、腹の虫が大声を上げた。
――よし、今夜は、〈ギアト屋〉までひとっ走りするとしよう。焼きたての雑穀パンに切り込みを入れて、汁気たっぷりの炙り鶏を挟む。そしてそのまま、かぶりつく!三口ほど勢いに任せて口に押し込んだあとは、苦いエールで一気に流し込む。あそこの看板ババアは、口が悪いうえ、どんなに通い詰めてもおまけの一つもしないケチだが、エール作りにかけては天下一品なのだ。ひと仕事終えた後の晩餐はこうでなくては。何の断りもなくレディの首をつかむ無礼者に邪魔されることなど、本来あってはならないのだ。
甘美な妄想に浸っているその時、この場に似つかわしくない小奇麗な外套を、視界の端に捉えた。
外套の持ち主は女だった。すらりと背の高いその女は、腰まで届く艶やかな白髪を揺らし、男を惑わす色香を漂わせていた。神話に語られる女神はこのような姿だろうと思われるほどに美しい顔立ちをしていたが、顔の左半分は髪で隠れており、それが女のミステリアスな雰囲気を更に強調していた。腰に短剣を帯びて、一応は自分でも護身をしているつもりなのだろうが、しばらく観察してみても、短剣に手を触れることはなく、隣の男に全幅の信頼を寄せているようだった。
男は、女が雇った傭兵だろうか。均整の取れたたくましい体つきをしている。よく日に焼けた健康的な肌に、鋭い犬歯が映える野性味あふれる男だった。男は、この市場で顔が利くのか、そこらじゅうで声をかけられては、人のよさそうな笑顔で対応していた。ちゃっかり値引き交渉しているあたり、なかなかできる男のようだ。こういう傭兵は、この町で仕入れをするなら重宝するだろう。あの別嬪さんは、それなりに見る目のある商人のようだ。
男女は、次々に買い物をこなしていく。購入品の多くは小麦やら布やら、たいして高価なものではないが、一般家庭で消費する量ではない。やはり、何かしらの商いをしているのだろう。宿屋で女将でもやっているのだろうか。しかし、この美貌で床を貸すとすると、下世話な想像が働いてしまう。そう考えるのはミアだけではないらしく、女には先ほどから、ねばついた視線が注がれていた。すると突然、男が女の肩を抱いて、乱暴に自分の方に引き寄せた。女は驚いた風でもなく、されるがままになっている。
……ああ、あんたらそういう仲かよ。綺麗な彼女連れて、のんきにデートだったか。
男は「俺の女だ」と誇示するように女の側にぴったりつき、周囲の下衆な男たちに威嚇している。かわいいところのある忠犬である。それだけに、女子どもへの警戒心は薄まっていそうだ。ギアト屋の鶏肉サンドが現実味を帯びてきた。この分なら、追加でチーズもつけられるだろう。
男は、長い前髪に隠れて視界が悪いであろう、女の左側について彼女を守っていた。女は、大量に仕入れた日用品を両手に抱えて、すぐには対応できないはずだ。
場所は大通り。小柄なミアなら、すぐに人ごみに紛れることができる。ミアは、姿勢を低くしたまま男女に近づき、懐から果物ナイフを取り出すと、男が腰に着けていたポーチを切り裂いた。硬い皮を力任せに引っ張った反動で、一瞬よろけたものの、ポーチは簡単に男の腰から離れた。すぐに男が気が付き、ミアの細い手首に手を伸ばす。想定外に素早い動作に一瞬目を見開いたが、そこで簡単に捕まるミアではない。ミアは猫のように俊敏な身のこなしで初動をかわすと、そのまま電光石火で大通りを駆け抜けた。男女が再びミアを視認するころには、ミアの姿ははるか遠く、豆粒のようになっていた。
「……やられたわね」
「ああ。人間とは思えない速さだった」
周囲は、泥棒猫の被害に遭った男女を、ニヤニヤしながら見ていたが、当の被害者たちは、今しがた財布をすられたばかりだというのに、いたって冷静だった。
「なかなか見どころのあるやつだな」
男はそう言うと、鼻をぴくりと動かし、胸いっぱいにかぐわしい大気を吸い込んだ。
一直線に隣町まで駆け抜けたミアは、人気のない丘に腰を下ろした。遮るものがなにもない丘には、絶えず風が吹いている。今すぐこの汗まみれの服を脱ぎ捨てて、水浴びでもしたくなる清々しい気分だ。
焦る場面もあったが、今日の仕事はまずまず成功だろう。あれだけ大量の仕入れができるのだ。大金持ちではないにせよ、あの男女はそれなりの金を持っているはずだ。事実、このポーチも、使い込まれてはいるが、場末の市場では手に入らないような上質な皮で作られている。ポーチから伝わる確かな重みに、思わず笑みがこぼれた。
鶏肉サンドがどこまで豪華になるか妄想を膨らませながら、ポーチを開く。願わくば、マシな服を買う余裕もありますように。
ポーチをひっくり返すと、まず転がり出てきたのは、小刀と研ぎ石だった。なるほど、傭兵ならば持っていて当然の装備だ。小刀は年季が入っているが、刃こぼれ一つなく、よく研がれている。一目見ただけで、丁寧に扱われていることがよくわかる小刀だった。ミアの果物ナイフは、先ほどポーチを切った際にひどく刃こぼれしてしまったので、このセットはありがたく頂戴するとしよう。
次に目についたのは、干し肉。この独特の風味から察するに、猪肉だろうか。悪くはないが、柔らかい鶏肉を夢想していたミアにとっては、格落ち感の否めない代物である。
肝心の財布には、パンが三個買えれば御の字程度の小銭しか入っていなかった。まあいい。最低限、鶏肉サンドは確保できた。だが、まだ何かほかにあるはずだ。特製エールがなければ、わざわざドケチババアに会いに〈ギアト屋〉に行く意味などないのだから。
干し肉を乱暴に噛みながらポーチの底を漁ると、何か重いものが入った包みを発見した。ようやくお目当ての輝きとご対面だ!急いで包みを解くと、その中に入っていたのは、確かな重みをもった……火打石。
「ふざけやがって!」
勢いそのままに火打石を地面にたたきつける。火打石は真っ二つに割れて、ごろごろと丘の下に転がっていった。
なんということだ。あれだけ重いポーチだったのに、その重みの大半は石ころではないか!捕まる危険を冒して手に入れたのが、お古の小刀と、硬くて臭い干し肉、少しばかりの小銭だけとは、あまりにもひどい仕打ちだ。こんなバカなことがあるだろうか。
しかし考えてみれば、女は両手いっぱいに荷物を抱えていたが、仕入れ用の荷台を連れている様子はなかった。ということは、あの男女は、仕入れの大半を終えていたのだ。そのタイミングなら、大金を持っていようはずもない。空腹に支配されて、判断を見誤った。
「しっかし、しけてんなあ……」
「しけてて悪かったわね」
冷ややかな声が見晴らしのいい丘に響いた。驚いて振り返ると、そこには、市場で振り切ったはずの、あの白髪の美女が平然とした様子で立っていた。左隣には、なぜか巨大な狼が控えている。
ありえない。スリを働いてから、まだ半刻しか経っていない。そのわずかな時間で、広大な市場を抜け、川を越え、ようやくこの丘までやってきたのだ。あの雑踏の中、常人離れした速さで駆けていくミアを追ってこられるはずがない。まさか、この狼を使役したとでもいうのか。なんにせよ、この女は危険だ。一刻も早く逃げなければ。ポーチは放ったまま、ぐっと足を踏み込む。
「引き際がわかってるのね。嫌いじゃないわ」
女が言うやいなや、さっと空気が張り詰めた。ミアの汗ばんだ肌をなぞる風が冷たく変わり、吐く息は白く凍てつく。異様な空気から逃れようと、走り出したミアの足元で、何かがひび割れるような高い音が鳴った。視線を落としたそのときには、既に手遅れだった。ぱき、ぱき、と透明な氷が、地面から、上へ上へと這い上がってくる。なす術もなく、ミアの足首は分厚い氷に覆われてしまった。
「なんだよコレ、びくともしねえっ……!」
「暴れるのも結構だが、そのときはお前の足首から下が砕けることになる。レイラの氷は、おっかねえんだ」
女の声ではなかった。どっしりと腹に響く低い唸り声。しゃべったのは、レイラと呼ばれた女の側に控えていた狼だった。
「なにもそんなに驚くことはないだろう?お前も、『能力者』なんだから」
あんぐりと口を開けているミアを笑うようにひと声鳴くと、狼は巨体をぶるりと震わせた。張りつめていた全身の筋肉が緩み、こげ茶の豊かな毛皮が滑らかな小麦肌に変わっていく。鋭い爪の生えた四肢で大地を踏みしめていたはずのその狼は、代わりに二本の足で立ち、獲物を噛み割く硬い牙は、その面影を残したまま、真っ白な犬歯に変わった。最後まで残った太い尾が消えた後に現れたのは、あのときの傭兵だった。
「あんまり速いんで驚いたぞ。おかげで、わざわざ変身する羽目になった。女一人とはいえ、人を乗せて走るのは疲れるから避けたかったんだけどな」
「文句は後で聞くわ、ラウル。私たちから盗った荷物を返してもらうのが先決でしょう」
レイラは、ラウルの言葉を制すと、地面に転がっているポーチを拾い、未だ全く動けずにいるミアの目の前で、ポーチの中身を改め始めた。
「わかってたことだけど、このポーチはもう駄目ね。窃盗犯として警備隊に突き出すのがいいかしら、泥棒猫さん?」
「わかった、返す!返すって!だからこの氷さっさと解けよ!」
「無理なお願いね。解いた瞬間に逃げる気でいるくせに」
レイラがふっと笑って、続けた。
「もっとも、逃げたところでこんな生活、遠からず破綻するでしょうけど」
焼けるような痛みを感じて、ミアはぎりっと歯をくいしばった。何を考えるよりも先に、ミアの手は、レイラの胸倉につかみかかっていた。
「……知ったような口を利くじゃねえか。え?オレが好き好んで、こんな暮らししてるとでも思うのか?今日の飯にも事欠く生活なんて、身ぎれいにしていられる人間にゃ、想像もできねえだろうさ」
普段の様子からは想像もできないほど、ミアの声は低くかすれていた。丁寧な刺繍がしつらえられた外套を掴むミアの拳は、小刻みに震えていた。
「牢屋行きがオチなのに、盗みを続けるなんて馬鹿だと思うか?オレには、親も家もねえ。当然、金も学もねえし、信用なんてものは皆無だ。社会のゴミとして蔑まれる孤児には、まっとうに稼ぐなんてことできやしねえのさ」
一息で言い切ったミアの声に、自嘲的な響きが混じった。
「だが、ないない尽くしのオレを憐れんでか、くそったれの神様は一つだけ武器を与えてくれた。それが、風より速いこの足だ。こういう力は、世間では忌み嫌われてるらしいが、オレには関係ないね。オレは、社会がオレに与えなかった取り分を、自分の力で取り返してるだけだ」
力いっぱいに外套を掴み上げられ、すごまれているにも関わらず、レイラの表情は冬の湖面のように静かで、さざ波一つ生じない。
「わざわざ説明してもらわなくても、一目見ただけでわかるわ。あまり大人を舐めないことね。それで?長々と自分の不幸を話して何がしたいの?どんなに正当化したところで、あなたが盗人であることは変わらない。これから先も、あなたは警備隊に追われ続ける。一生、心休まる日は来ない」
「わかりきったことをべらべら喋るのは、お前も一緒みたいだな、鉄仮面。人の話を聞けねえあたり、オレよりひでえや。何も持たねえスラムのガキが、一人でどう生きればいいのか言ってみろよ」
ミアの怒りは頂点まで達していた。レイラの言葉は、今まで耳にタコができるほど浴びせられた正論に過ぎなかったが、このときばかりは、鼻で笑ってやることができなかった。ぬか喜びの果てに恥をかかされ、必死の十数年がいとも簡単に切り捨てられたのだ。この女がなんと答えようと、口を開いた瞬間、綺麗な顔面をゆがめてやろうと決意していた。だが、レイラの答えは、思いもよらぬもので、ミアの拳は振り上げる機を逸してしまった。
「『一人』をやめればいい。簡単なことよ」
「……はあ?」
思わず間の抜けた声が洩れた。いきなり何を言い出すのだ、この女は。
「まあまず落ち着け。人の話は最後まで聞くもんだ」
まさに一触即発の二人の間に、ラウルが割って入る。拳を握ったまま固まっているミアの手を下ろさせると、ラウルはミアに向き合った。
「俺たちは、お前に興味があるんだ。単刀直入に言う。俺たちと一緒に来い」
「はあ⁉」
思わず素っ頓狂な声が飛び出た。いきなり何を言い出すのだ、この男は。やはりこいつらからは一刻も早く逃げた方がいい。
「わけわかんねえこと言ってんじゃねえよ。だれが人の体臭追って来た変質者にほいほい着いて行くと思うんだ」
「……ごもっともな指摘はやめてくれ。だが、お前に選択権はない。拒否すれば、このまま警備隊に引き渡すだけだし、しっかりお前の匂いは覚えたからな。どこに逃げようと追跡できる」
「気色わりい!てめーが警備隊に自首しとけ。……第一、何が目的だ?オレの何を知ってて、誘拐しようっての?」
ミアは混乱していた。盗みを咎めるでもなく、警備隊に突き出すでもなく、盗人を連れ帰ろうとする男女のこの奇妙な行動に、ミアは薄ら寒いものを覚えた。
「何を知ってる、か……結構色々だ。何日も水浴び一つできていないことも、すぐ保存食に手を出すくらい腹ペコなことも、スリの常習犯で警備隊が手を焼いてるってことも」
あとはそう、とラウルは続けた。
「靴が合ってないからよく躓くこと」
ミアの瞳が一瞬乱れた。図星だった。ついさっき、丘を駆け上がるときにも、ほんのわずかに足がもつれた。気合いでねじ伏せたが、ああした遅れの数々がなければ、追いつかれることもなかったのかもしれない。
「……うるせえな」
ようやく口に出した一言は、反論の形をなすことはなく、あまりにも弱弱しい響きを伴っていた。
「それがてめえに関係あんのかよ」
「ないな。ただ――勿体ないと思ったんだ」
顔をしかめているミアを意にも介さず、ラウルは話を続けた。
「逃げ足の速さは大したものだ。状況判断もできてるし、腹ペコでも長距離走りぬくだけの体力もある。詰めはちょっと甘いが……大した才能だよ。それだけに、惜しい。自分に合う靴さえ履いてりゃ、俺の追跡からも逃げ切れたのかもしれねえのに」
ラウルの言葉を聞いて、思わず乾いた笑いがこぼれた。
「……っは。靴だあ?『自分に合う靴』とやらを買う金がねえから、このボロを履いてるんだ。体に合う服も、手作りの飯も、風雨をしのげる寝床も用意されてねえから、奪って生きてる。そんなことを言うために、わざわざ追ってくるなんて、あんたら相当暇人なんだな」
動揺はすっかり落ち着いていた。結局、こいつらも同じだ。何もわかっちゃいないくせに、正論を振りかざして、まっとうに生きろと説いてくる。もしくは、理解者面して、憐みの目を向けてくる。それらは、口をこじ開けられ、無理やり大量の水を流し込まれているかのような不快感を伴う行為だった。飲み込み切れずむせようと、やつらが手を止めることはない。今、ミアの前には、「正しい大人」が立ちはだかっていた。
不信を前面に押し出して睨みつけたが、二人は引くどころか、更にミアに近づいてきた。
「そんなに暇はしてないわ。毎日、炊事に洗濯におおわらわ。我が家は万年、人手不足だから」
乱れた襟首を直しながらそう言うと、レイラは突然ミアの顎を掴んだ。
「あなたが知りたいのは、私たちの目的だったかしら?端的に言えば、人手不足解消よ。あなたを拾うのは、ただの気まぐれ。賃金なし、個室なし、三食食事付きで、こき使われる気はある?」
簡単に振りほどけるはずだった。しかし、しなやかなレイラの細腕を、ミアは振りほどくことができなかった。顎を掴まれたまま、予想外の方向に逸れていった話を咀嚼しようと何度か瞬きをし、そして口を開いた。
「……ひどい労働環境だな。それで恩を着せるつもりか」
「残念ね。牢屋の硬い床がお好みなら仕方ないわ」
レイラは淡々とそう告げた。脅そうとする意図すらない、ただ事実を提示するようなその響きに、この女に交渉を仕掛けても無駄だと悟った。従うしかない。少なくとも、今は。
「……本当に飯は出るんだろうな」
「拾った挙句、飢えさせる悪趣味なことはしねえよ。上等なものはないが、腹いっぱい食えるだけが自慢の大皿料理を出してやる」
あっさりと答える。「三食食事付き」というとんでもなく魅惑的な言葉は、どうやら嘘ではないらしい。そのとき、ぐうっと、情けない音を立てて、ミアの腹の虫が激しく主張を始めた。中途半端に齧った干し肉の塩気が、かえって食欲を刺激していた。
「腹は口よりずっと素直みたいだな」
ラウルが、くつくつと笑う。
「交渉成立だ。今日からお前は、炊事、洗濯、掃除に畑仕事と、朝から晩まで働くことになる。報酬は、清潔な服と温かい飯、それから安全なベッド」
「いつまでも『あなた』じゃ、指示しづらくてたまらないわ。名前は?」
レイラがそう尋ねる一瞬のうちに、ミアの足を捕えて離さなかった分厚い氷は跡形もなく消え失せた。
「……ミア」
「よし、ミア。お前は、今日から生まれ変わる」
ラウルは確信めいた様子で言い切った。その頭上で、太陽は相変わらずかんかんと照り、ミアを見下ろしていた。
こいつらを信用したわけじゃない。ただ、この吹き溜まりから這い出て、身綺麗になるのも悪くないと思った。
「ようこそ、〈アルカの家〉へ」




