第6話 将棋協会
夕方になると、自然に人が集まるようになった。
最初は子どもだけだった。
歯の欠けた少年。
いつも裸足の小さな子。
負けるとすぐ机を叩く兄。
その後ろに隠れる妹。
それだけだった。
だが今は違う。
市場帰りの女が、買い物袋を下げたまま覗き込む。
煙草を吸う男が、入口の横に座る。
暇を潰す老人が、勝手に駒の動きを教える。
時には、仕事帰りの警官まで顔を出した。
「先生、今日は空いてるか?」
警官は帽子を脱ぎ、子どもの後ろに立つ。
子どもの手を見ているようで、
時々、奥の席の男たちの金の動きも見ていた。
アキヤマはそれに気づいていた。
だが、何も言わなかった。
黒板には初期配置が描かれている。
王将。
飛車。
角。
金。
銀。
その横には、子どもたちが勝手に描いた落書きが増えていた。
誰も消さなかった。
歯の欠けた少年が、得意げに飛車を前へ出す。
「これで勝ちだろ!」
向かいの少年が盤を睨む。
「待てよ。なんかあるだろ。」
アキヤマは盤を見る。
「飛車は強い。でも一枚で前に出ると崩れる。」
「先生そればっか。」
数手後、本当に飛車は囲まれて消えた。
周囲が笑う。
「また読まれてる!」
「だから言ったじゃねえか!」
負けた少年は悔しそうに盤を睨んだ。
以前なら机を蹴っていた。
駒を投げていた。
相手の胸ぐらを掴んでいた。
だが今は、黙って駒を並べ直した。
「もう一回。」
その声には、怒りよりも悔しさがあった。
市場の女が、水の入った瓶を置いていく。
「先生、今日も暑いから。」
アキヤマは軽く頭を下げる。
靴修理の老婆は、破れた座布団へ布を縫い付けていた。
「ここ、人が増えたねぇ。」
屋台の主人は、ガタつく机の脚を直しながら笑う。
「そりゃ将棋協会だからな。」
子どもたちが顔を上げる。
「将棋協会?」
「なんだそれ。」
「知らねえ。でもそれっぽいだろ。」
教室に笑い声が広がった。
それから、その呼び名はすぐに広まった。
「協会行くぞ。」
「先生いるか?」
「丸アもらいに行こうぜ。」
誰かがそう言うたびに、子どもたちはこの場所へ来た。
アキヤマは良い手を見ると、紙の端に小さく丸で囲んだ「ア」を書いた。
日本で、生徒たちが笑っていた印だった。
ここでも、子どもたちはそれを覚えた。
「先生、今日も丸ア?」
丸アをもらった子どもは、わざと紙を大人に見せる。
女が褒める。
老人が頷く。
歯の欠けた少年が悔しがる。
そのたびに、教室の空気が少し明るくなった。
ただ、すべてが綺麗に変わったわけではない。
賭けを始める男たちはいた。
負けた腹いせに駒を隠す子どももいた。
順番を抜かそうとして、取っ組み合いになることもあった。
そのたびに、アキヤマは短く言った。
「戻せ。」
「並べ。」
「待て。」
怒鳴らなかった。
説明もしすぎなかった。
ただ、盤を元に戻させた。
駒を並べさせた。
順番に座らせた。
不思議なことに、
その方がよく効いた。
夜。
遠くでサイレンが鳴る。
窓の外では、酔っ払い同士が怒鳴り合っている。
瓶が割れる音もした。
誰かが走る足音も聞こえた。
だが、この部屋の呼吸は乱れなかった。
子どもたちは盤を見ていた。
老人は腕を組んで考えていた。
市場の女は水を配っていた。
屋台の主人は、直した机を満足そうに叩いた。
「ここ、明かりが消えないから安心だ。」
誰かがそう言った。
小さな声だった。
だが、何人かが頷いた。
アキヤマは黒板の前から、部屋を見渡す。
老若男女が、同じ盤を挟んでいる。
本来なら交わらない人間たちが、同じ順番を待っている。
盤の上では、誰もが同じ条件で王を守る。
金を動かす。
銀を上げる。
歩を進める。
勝てば笑う。
負ければ悔しがる。
そして、もう一度考える。
歯の欠けた少年が、負けた相手へ盤を戻した。
「もう一回。」
以前なら、机を蹴って終わっていた。
アキヤマは、その変化を見ていた。
窓の外では、まだ怒鳴り声が続いている。
それでも、この部屋だけは違っていた。
「先生。ここ、いい場所になったね。」
アキヤマは少しだけ黙る。
それから、盤へ視線を落とした。
王将。
飛車。
角。
歩。
駒は正しく並んでいる。
子どもたちは順番を待っていた。
老人は黙って盤を見ていた。
警官は入口の横で、煙草を吸う男たちを見ていた。
外では、誰かが怒鳴っている。
中では、誰もが次の一手を待っている。
アキヤマは、それを美しいと思った。




