【第35話】型のない即興でもいいんだって思える瞬間があるらしい。
真っ白だった壁に描かれた八社宮さんの絵は、バイオリンを奏でる晴日を先頭に様々な楽器を演奏する人々の姿だった。
楽しそうな演奏は、同時に幸福を運んでいる。
俺もなれるだろうか。
この絵のように。
会が終わり片付けを終えたあと、関谷さんに許可を得て俺は少しこの場の余韻に浸ることにした。
「笑ってくれていましたね」
横から八社宮さんの声がして、息を吐いた。
てっきり、帰ったものだと思っていたから油断した。
「帰ったんじゃなかったの?」
「そうですねぇ~、いったん帰ろうと思ったんですけど……」
そう言って茶を濁した八社宮さんに「けど?」と問い詰めると、八社宮さんはポケットから仮面を取り出した。
「一緒に帰りたくなって」
仮面を被った彼女は、いつもより素直になる。
「なんちゃって」と照れながら、仮面を外す八社宮さんを見て、好きだと思った。
今なら言える気がした。
「ねぇ、八社宮さん――俺と付き合ってくれませんか」
わずかに開けた窓の隙間から雪がちらついた。
カーテンが風に揺れて、アップライトピアノに立てかけた譜面が靡いた。
「えっ?」
思いもしなかったと、彼女の表情が語っていた。
「え、あのその」
戸惑う八社宮さんが可愛らしくて、鼻から息を漏らして笑った。
こんなこと言える立場じゃないことくらい、自分でも分かっていた。
それでも、自分の素直な気持ちを伝えておきたかった。
自分の気持ちを素直に、丁寧に伝えようとしてくれた八社宮さんへ。
「――び、びっくりしました。あの、れ、恋愛とかしたことがなくて、その……」
慌てる彼女に、俺は少し笑って助け舟を出す。
「友だちから?」
「いえ、もう友だちだと思っているので」
「え? じゃなに?」
「えっと……なんでしょう」
「パートナー?」
「いや、それはちょっと」
「えー? なら、奏友?」
「考えておきます……もっと、相応しい感じのを」
少しの沈黙の間、空いた窓の方へ足を向けた。
「いや、やっぱりさ名前なんていいから――八社宮さんの準備ができたら飛び込んできてよ」
どうしても八社宮さんのいない未来は今の俺には想像つかなかった。
「はい」
八社宮さんの瞳は、いつも真っすぐに俺を見てくれていた。
広間の中央に残された備品の段ボールがある。
中には、仮面が詰め込まれている。
形状様々、色とりどり。
俺たちの被っている仮面は、一体、どんな形をしているのだろうか。
八社宮さんの仮面はきっと、真っ白な羽が生えている。
そんな空想じみたことを考えていると、濡れた床に足を滑らせた。
情けなく、腰をついた俺に八社宮さんが驚きながら、駆け寄り、手を差し伸べてくれた。
転んだ拍子に、オーディオデッキのリモコンが押され、スピーカーから曲が流れだした。
「ん?」
聞き覚えがある。
「ルミエール……!」
八社宮さんと声が重なった。
それから、苦笑した俺が小さく付け加える。
「カッコ、ジャズバージョン」
数センチ先で八社宮さんの息遣いが聞こえる。
顔が熱を帯びていく。
「太陽くん……」
薄紅の艶やかな唇が、微笑みながら俺の名を口にする。
それから、彼女は仮面を額に当てた。
「――踊りますか?」
突拍子もない彼女の提案を却下する気には、どうしてもなれなかった。
「はい」
不格好でも、差し出された八社宮さんの手を掴み返すことができた。
踊ったことなんてなかった。
それはきっと、八社宮さんも同じだろう。
めちゃくちゃでも、でたらめでも気にしないでいられる。
そんな関係の彼女に出会えた俺は、
外れることのない仮面と共に、この先も自分を奏でていく。




