【第30話】爪先から染み出すらしい。
影は思ったより深くて薄い。いつも光のうしろに存在するのに意識しなければ、気づきもしない。
それでいて意識してみると途端に不快になる。
自分の影は、いつだって自分を模倣してくる。
手の影なんて真っ先に触れてくる。
そんな影を自分の一部にしてしまえば、気持ち悪さもどこか落ち着いてくる。
その日は午前中は晴れていたというのに、夕方には土砂降りの雨が降って、今は小降りの雨になった。
右手に差したビニール傘に時折、大粒の雫が落ちる。
同時に傘の重みが増して、身体が耐え切れずに傘を放り投げたくなった。
雨音と共に少し遠くから聞こえる経。
正面に佇みながら、寺の門をくぐることができず、ひたすら目を瞑った。
焼香をあげる資格のない自分に唯一できることはこれだけだった。
遠目から見ても立派な会場だが、参列者はまばらでお世辞にも多いとは言えない。
御堂への道から絶えず水が流れ、足元に水溜りが広がっていく。
鉄紺の制服の袖が濡れて、どす黒く変色している。
冬の夜の村時雨が告げるのは、終わりと始まりのどちらだろう。
人は、出来事に意味を付けたがると思っていたけれど、それは自分も変わりなかった。
――葬式に降る雨は、故人の涙だと聞いたことがある。
長い間、あの人に不自由を強いるきっかけをつくった俺をあの人がどう思っていたのか。
何度考えても、答えは出なかった。
それでもこの冷たい雨に意味があるとすれば、雨でべちゃべちゃになった靴下でも、少し前に踏み出せる気がする。
しばらくして、音が止み経と雨が止んだ。
不意に顔を上げると喪主席に紙子がいた。
紙子はただ俯き肩を丸めてパイプ椅子に腰を掛けている。
濡れるはずのないその制服の色が以前と違って見えた。
止んだ雨に傘を閉じる行為も忘れて、供花の木札に刻まれた喪主の名が目に入った。
『関谷 紙子』
俺の知る――小原 紙子の名とは違っていた。
それから、同じ苗字の人を思い出しながら、紙子の隣にその人がいることに気づいた。
関谷さんだった。
店の常連の婆ちゃん軍団のリーダー格。
小さい頃からの俺を知る一人でもあり、俺の奏者への復帰を待ち望み、店で俺を見かければ何かにつけて駄賃をくれる。
唖然とする俺に、関谷さんが気づき優しい視線が向けられた。
深々と下げられた頭に、下げ返す。
俺の動揺を意に介さず冷静な関谷さんと紙子の表情が、頭のどこかで腑に落ちた。
まばらな参列席でパイプ椅子の体温が冷え込んでいる。
優し気な関谷さんの横で腫れた瞼と鋭い目つきが俺を突き、湿った土の臭いが胸を締め付けた。




