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【第28話】時には欲張りながら、自分のためにいたいらしい。

 紙子が呑まれた常闇。自然とその方を見つめながら、自分の膝ががくりと折れた。

 膝に小石が刺さる感覚がした。だが、痛覚よりも悲痛の方が強かった。

 周りのことなんて考えることもできなくなった。

 

――おじさんが死んだ。


 おじさんの笑顔が胸を刺してくる。

 おじさんは、俺を恨んでいるのだろう。

 俺もおじさんを恨んでいるのだろう。


 それでも優しかった、ピアノを愛していたおじさんの顔が忘れられなかった。



「――っ……太陽くん……!」


 気づくと八社宮さんが俺の名前を懸命に呼んでいた。

 

「八社宮さん……」


 弱々しい音が喉からこぼれ落ちると、八社宮さんはしっかりしてくださいと芯の通った鋭い目を向けた。


 もう、駄目かもしれないと自分でも思った。

 立ち上がる気力は擦り剝けた膝の小石なんかよりもっと小さくなっていく。


「立って――」


 彼女は、俺の腕を引いた。

 唖然とした。

 驚愕が声にならなかった。

 

「太陽くん……いえ、今だけはこう呼ばせてください」


――ASAHIさん


 八社宮さんの呼びかけに折れ曲がっていた膝がすくりと伸びた。

 自分の体が、本体から分離したように動いた。

 期待もない暗く閉ざされた音もない空間に踏み入れたはずだったのに。

 ASAHIは俺の体のどこかで生きようとしていた。


 八社宮さんは、俺の腕を引いて抜けたはずの裏口のドアを開け、店内に戻って行く。


「ちょ、ちょっと八社宮さん……!?」


 私服のままバックヤードを抜けて客席に出て行く二人の姿に従業員たちが驚いて顔を向けていた。

 

 八社宮さんは、窓際のアップライトピアノの前で立ち止まり俺を椅子に座らせた。


「弾いてください……!」


 息を切らしながら強引にそう言い切る彼女の顔はどこまでも真剣だった。


「え……」


 周囲の客の視線が何事かとこちらに集まっていく。

 視界の端に父の姿が見えた。

 

 許可なく弾いたら、どうなるだろうか。

 

「私のためじゃなくていい。誰かのために――」


 微かに震えを帯びた彼女の声が俺の指先を包み込んだ。


「八社宮さん、許可なく弾いたらどうなると思う……?」

「どうしましょう。許可は必要でしょうか?」

「いや、俺も知らない」

「では、許可を出すのは――」


 自分自身だ。


 母さんの使っていた古いアップライトピアノの蓋は、表向きの重厚感とは裏腹に開かれる瞬間を待ちわびていた。

 指先がひんやりと冷たい鍵盤に触れる。

 押し込み沈み込んだ白鍵の向こうで何かが弾ける。

 黒鍵が旋律に奥行きを与えていく。


 弾いてもいいよ。


 その許可は、あの日以来誰かに許された時とは違う。

 止める理由が自分の中のどこを探しても、見当たらなくなった。


 過去の過ちは変えられない。

 

 それでも未来には、

 隣で腕を引き、肩を叩いてくれる人たちがいて――

 

 前を向き、鍵盤に指を下ろせば

 自分を取り囲む重圧も痛みも


 この音が打ち消してくれる。


「……」


 気づくと周囲の音がピアノの音色ではなく拍手に変わっていた。

 振り返るとちらほらと見知った客の顔がこちらに笑顔を向けている。


 目尻に浮かんだ涙を拭う八社宮さんと視線を交えたあと、

 父さんの方へ恐る恐る視線を向けた。


 手を打っていた。

 様子を窺った俺の視線にハッとして、それから投げかけるように笑みを浮かべる。

 山根さんの隣で誇らしげに。


 その表情を見てもう17歳だというのに、子どものように安堵と嬉しさで身体が熱くなった。


「太陽くん――」


 八社宮さんが俺の肩を指先でつついた。

 温かな拍手が俺にもあった。


 俺は、ピアノの椅子から立ち上がり、頭を下げた


――拍手をくれた人へ

――待っていてくれた人へ

――腕を引き、肩を叩いてくれた人へ

――過去に巻き込んでしまった人へ


 一人ひとりの顔を思い浮かべながら。

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