【第22話】戻れない時をずっと過ごしているらしい。
母さんにスリッパを履くように散々言われていたあの頃。
その日、外出から戻り、遊び疲れた僕は昼から眠り、
1階でポロンと音を立てるグランドピアノの音で目を覚ました。
隣では、紙子がまだ寝息を立てて眠っていた。
部屋は、砂糖とバターのスポンジの香りで包まれていて、それが肺を満たした
珍しく開いたままのカーテンの向こうには、すっかり日の落ちた空が浮かび、掠れた星が点滅していた。
毛足の長い毛布にくるまり、しばらく夢の余韻に浸っていたが、もうすぐ始まるパーティーを待ちきれず、僕は布団から起き上がった。ジングルベルのメロディを鼻先で奏でながら静かにドアを開け、吹き抜けた階下を覗いた。
そこには、大人三人が、三角形に立ち並ぶ姿が見えた。
はじめは、パーティーの準備だと思った。
浮かれて緩んだ頬に、母さんの悲鳴に似た声を聞いて、全身の毛が逆立ち反り返った。
「――晴日を離して!」
よく見ると、白髪混じりの頭が、尖った切っ先を両親に向けていた。
次の瞬間、晴日の泣き声が家中に響いた。
状況が理解できなかったのは、僕が10歳だったからではない。
いつも優しく穏やかだったおじさんが、晴日を腕に両親と争っているのだ。
両親がおじさんになぎ倒され、冷めた大理石に転がり擦れた音を立てて泣き叫んでいる。
「貸してくれと何度も伝えた。なのに、あなたたちは稼げ稼げと、出し惜しみして、妻の病状は悪化するばかりなのに! 私は、あなたたち夫婦に休みの日も何もかも献上して尽くしてきた」
おじさんの怒声が耳に張り付いていた。
それでも気づくと僕は、晴日にキリを突き付けるおじさんの横に立っていた。
「――おじさん、何してるの」
両親が僕に、下がれと叫んでいた。
「なんだ、帰ってたのか……」
おじさんは、幽霊でも見るようにそんなことを言って、2階の僕の部屋を見上げた。
僕は、両親のことや晴日のことで頭がいっぱいで、
呆然とするおじさんに向かって、脇にあったメトロノームを投げつけた。
「っあ」
メトロノームが地面に横たわり、不規則にリズムを刻んだ。
それが頭に当たった反動でおじさんが体勢を崩した。
その瞬間、父さんがおじさんから晴日を引き離した。
次の瞬間、顔を上げたおじさんと目が合った。
ハッとした。
全身が凍ったように固まった。
おじさんは、僕に明確な殺意を向けていた。
後頭部に衝撃が走った瞬間、僕の上におじさんが馬乗りになっていることに気づいた。
首に太い指が食い込んでいく。
「天才であることがそんなに偉いのか!」
おじさんが向ける狂気がきっかけから逸れていようが、その手に込める力が緩むことはなかった。
生にしがみつき、冷酷な床を僕の指先が、並んだ金属を探りあてた。
そして、世界一と称された僕の指先は、調律のために用意された工具を掴み、
おじさんの首筋を――刺した。
呼吸音が何重にも重なっていた。
いつまでも、終わりなく、ノイズのように。
それからの記憶は曖昧で、何人かの警察が家に来て、話を聞いて行った。
でも、その場に居た大人全員が口を揃えてこう言った。
『これは、事故だ』
あの日、紙子が何を見たのか僕は知らない。
だけど、紙子は赤いランプの中で僕に聞いた。
「どうして刺したの」「どうして父さんなの」
その問いに僕は何と答えたのだろう。
覚えているのは、玄関で踏まれて転がった僕のスリッパだけだ。
それから何日が経ったのか、しばらく入院していた僕が病院から戻った夜。
ソファで母さんが、父さんに肩を寄せ、泣いていた。
「どうして、信じられない……人を刺すなんて」
紙子は、寝たきりになった父親とこの街を去り、
母さんは、あれだけ好きだったピアノをやめた。
なのに、僕の手には旋律が残っていた。
何の後遺症もなく、鍵盤を打ち鳴らしてしまうのだ。
『どうして――』
僕に落ちたその問い――答えを与えるように、僕の背後で小さな晴日が服の裾を引っ張るのだ。
僕の中に明確な答えがあるのなら、僕は、
守りたかった。
ただ、それだけだったのに。




