『隠れ里』への逃亡記録:二人
夕暮れが森を沈黙で包み込みつつあった。
濃くなった影が木々の根元に長く伸び、空の色はじわじわと赤黒く染まりはじめている。
風の匂いが変わった。湿り気を帯びた土の香りに、どこか鉄のような、焦げたような、嫌な臭いが混ざっていた。
「もう何時間歩いてる?」
ゼクスが口を開いたのは、沈黙が長すぎたせいかもしれない。
前を歩くミレイが振り返らずに答えた。
「三時間半ほど、だと思う。……あの襲撃から、もうすぐ五時間」
ゼクスは無言で頷く。
腹が、鈍く空腹を訴えていた。喉は乾いていない──ミレイの魔法で水は手に入る。だが、食料は。
「なあ、あのキノコって食えると思う?」
視線を横にやると、腐りかけた倒木の根元に、虹色のキノコが群生していた。薄暗がりに、どこか蛍光色のようにぼんやり光っている。
ゼクスはわざと軽口の調子で言ったが、ミレイの返答は冷静だった。
「食べる前に、まずは毒の有無を確認しないと。火で炙って匂いを嗅ぐか、動物に試食させるのが普通。でも──」
「そんな“普通”をする余裕、今の俺たちにあるか?」
ミレイは黙った。
代わりに、木々の間を駆け抜ける風が葉をざわめかせた。
「……今はいい。まだ数時間の猶予がある。でも、夜になれば話は変わる」
ゼクスは木に背を預け、地面に落ちた枯葉を軽く蹴り飛ばす。
「集合場所の古井戸跡……確か、南。元人類の街の廃墟にある、って話だったよな?」
「ええ。でも、それ以外の詳細は知らない。けど、幸い──」
ミレイは空を指差した。そこには木の合間から夕陽が見えていた。西。つまり、南はあちら。
「方角はわかる。だから、歩き続ければ、明日の昼前にはたどり着けるはず。でも……問題は」
「それまで“無事に”いられるか、って話だ」
ゼクスの声が低くなる。
地龍。あの黒い災厄は、今も生き残りを探しているだろう。音を立てすぎれば気づかれる。運が悪ければ、嗅ぎつけられる。
「迷ったらアウト、食料が尽きてもアウト、運悪く鉢合わせしてもアウト。……詰みだらけだな」
「ええ、本当にどうしようもない状況ね。でも、嘆いても意味はない。足を止める理由にもならない」
ミレイの言葉には、芯があった。
それが“責任感”から来ているのか、“贖罪”から来ているのか、ゼクスはまだ判断がつかなかった。
「暗くなれば視界は落ちる。足音も聞こえにくくなる。追跡にも、逃走にも、不利になる」
「だったらどうする? このまま夜の森を進むのか? それとも、どこかに潜んで夜明けを待つか?」
ミレイはわずかに考え込み、そして言った。
「どちらも危険。でも……このまま進む。少しでも進んでおいた方が、明日の合流の可能性が高くなる」
「はあ……合理的だな。らしいよ」
ゼクスはそう言って、肩の鞄を持ち直した。
腹の虫がまた鳴く。食べられるかどうかもわからないキノコや、不気味な毛皮の小動物がちらちらと視界に映る。
空は、すでに暗い青に染まり始めていた。
「だったらどうする? このまま夜の森を進むのか? それとも、どこかに潜んで夜明けを待つか?」
ゼクスの問いに、ミレイは即答できなかった。
「……」
沈黙が落ちる。風が葉を揺らす音だけが耳に届く。
どうするのか。どちらが正しいのか──いや、正解なんて誰にもわからない。
けれど、これまでは常に誰かが「こっちだ」と道を示してくれていた。
「……タツなら、どうしてたかな」
ゼクスが呟いた。自分でも気づかないうちに、口から漏れていた。
その名を聞いた瞬間、ミレイの肩がぴくりと動いた。
「あいつ、さ……いつも平然と決めてたよな。進む、退く、隠れる、戦う──まるで“迷う”って感情が欠落してるみたいに」
ミレイは小さく笑った。その笑みには苦さが混じっていた。
「ほんとね。私たち、ずっと頼りきりだった。気づいてなかったけど、どれだけ……」
ミレイの言葉が途切れた。
彼女は俯き、口を閉ざす。目をギュッと瞑ると、やがて言葉を吐き出した。
「……どれだけ、タツに依存してたんだろう。私も、ゼクスも。誰も彼も」
「自分で判断して、自分で責任背負って……それを何度もやってきたってわけか。冗談じゃねぇ」
ゼクスは唇を噛んだ。
いま、自分の足元にある“決断”の重みがわかる。どちらに進むか、それだけのことが、こんなにも脳と心を削るとは。
あいつは、この重さをずっと黙って背負ってた。
「……すげえな、タツ。化け物みてぇだよ、あいつ」
その声には、皮肉も揶揄もなかった。
ただ、素直な敬意と、悔しさと、少しの嫉妬が滲んでいた。
「でも、だからこそ……タツくんの分まで、判断しないといけないのよ。私たちが」
ミレイの目が決意に色を取り戻していくのを、ゼクスは見た。
「……ああ、そうだな。いねぇ奴に全部押しつけるのも、あいつの誇りに泥を塗る」
そうして二人は、まだ見ぬ“古井戸”を目指して、再び歩き出した。
夜が来る。命を奪う色をした夜が。




