メルマー亭の看板娘
レニファドス大陸中央。
ハンスウェルド皇国。
皇都イスマイリア。
誰もが仰ぎ見ては息を漏らす壮麗な大門に目もくれず、下を見て溜め息を吐く年若い商人。
順番が巡り、門衛が声をかけた。
「なんだい、せっかくの皇都だってのにえらく不景気な顔じゃないか。なんか悩み事かい?」
「あぁ……あんたに言っても仕方ないけど、ご領主様に無理難題言われちまってよぉ。身重のカミさん連れて逃げる訳にもいかねぇし、もうどうしたらいいか……」
「そりゃ災難だ。下っ端の兵士に言ったところで仕方ねぇのは確かだな」
「そりゃそうだろうさ。あんたに話してどうにかなるなんて思っちゃいないから安心してくれ」
「おーおー、こりゃ重症だな。どうにかのアテならなくはないが、聞くかい?」
「ホントにどうにかなるならペテン師にだって縋り付くけどよ。そんな情報、いくら」
「職人通りのメルマー亭に行ってみな。看板娘のメルマーって子が相談に乗ってくれるぜ」
「……子供?」
「ああ。いい子だぜ?メガネしてるからすぐ分かる」
「なんだそのメガネってのは」
「あ、知らねぇか。悪い悪い。メガネってのはこう、目のところに輪っかになってる、なんだ、飾りみたいなもんだ」
「はぁ……子供に相談ねぇ。まぁペテンでも構わないって言っちまったのは俺だ。好きに取ってくれ」
通行税と、情報料。若い商人は掌に貨幣を並べた。
「おう、じゃあ遠慮なく」
「……待て」
「あん?」
「それじゃ通行税だけじゃねえか。情報の分も取ってくれよ」
「はぁ?こんなんで情報料なんて取れるかよ。俺がメルマーちゃんに怒られちまう」
ぽかん。
「ほら、後がつかえてるんだ。さっさと行っとくれ。なに、分かんなかったら適当に聞きな。街の奴で知らねぇ奴はいないからよ」
「……あー、礼を言う」
「そりゃ解決した時にとっときな。幸運を!」
「幸運を!」
ーーティートリーの革命からしばらく。
それは、よくある皇都の光景だった。
***
ティートリーの革命より少し前。
メルマー亭といえば、その筋ではそこそこ名の通った宿屋であった。
厳つい主人と娘の二人で切り盛りする安宿で、常宿にしている者も多い。
特徴と言えばなにを置いても看板娘のメルマーだろう。
大人たちを相手に物怖じもせず、宿の諸事を要領よくこなす姿は見ていて気持ちがいい。だが、彼女の特徴を問われれば、みな口をそろえてこう言うだろう。
メガネだ、と。
貴族や豪商などであれば、片眼鏡を掛けているものも稀にはいる。
だが、両眼鏡となるとまず見かけることはない。
それを職人通りの安宿の娘が掛けている、となれば特徴以外のなにものでもない。
だから、メルマー亭の評判は自然とこうなる。
メガネの看板娘と、宿に娘の名前をつけるバカ親父の店だ、と。
「攫われた!?」
慣れた依頼を報告まで済ませて宿に戻ってみれば。
「厄介事か?」
「だろうなぁ」
相棒と息を合わせて踵を返すが。
「お帰り。ちょうどいいところに帰ってきたわ、あんた達」
はじめの一歩を踏み出すより先に揃って襟首を掴まれ、常宿に引きずり込まれる。
「ぎゃー、人さらいだー!」
「蛮族だ、蛮族が出たぞ〜!」
「やかましい!遊んでる場合じゃないっての!」
男二人の悲鳴もそれを消し飛ばす拳骨の轟音もまるで往来の興味を引くことはなかった。
それもそのはず。
ここは渡り鳥たちの巣。中でも鳩や雀ではなく、鷲鷹や梟たち猛禽のねぐらだ。
となれば、静かな方が気味が悪いのである。
「姐さん、分かった!分かったから離して」
「いいから黙って座るんだよ」
男二人をカウンターに座らせ、自分はその間に立つ姐さん。肩で主張しているのは小盾に描かれた鷲のエンブレム。
荒事に長じていることをギルドに認められた戦闘の第一人者だ。
器用貧乏と揶揄される梟の二人ではいかにも分が悪い。
「で、もう一回聞くよ?放っておけ、てのは一体どういう了見だい?」
姐さんが舌鋒を突き付けた先にいるのは、宿の主人だった。動揺か諦念かは知らないが、むくつけき大男が可愛げもなく渋面を晒しているのは見るに堪えない。
「いやちょっと、とりあえず説明をだな」
睨む姐さん、渋面で黙り込む宿の親父。ダメだ、話にならない。
見回す。はた、と目があったのは近所のガキ、もとい子供だった。
「なんでみんなそんなのんびりしてんだよ!メルマーが攫われたって、そう言ってんだろ!?」
「はぁ?」
「黒い馬車に押し込まれて、そのまま連れてかれたんだ!助けなきゃ!」
「メルマーが?」
「さっきからそう言ってんだろ!なんだよ、困ってるやつ助けるのがあんた達の仕事だろ!?なんで」
「そうだよ坊や、それは確かにあたしらの仕事だ」
「だったら」
「仕事だって言ってるだろ。慈善事業じゃないんだよ。無償で動くやつが必要なら兵士の詰所に行くんだね、選ぶ相手を間違ってるよ」
「姐さん、言い過ぎ」
「言い過ぎ?依頼もなしに動いたらあたしらの沽券に関わる。このバカ親父が一言頼むって言やぁそれで済むんだよ。あたしだって金が欲しいわけじゃない。それが言うに事欠いて、放っておけ、だぁ?」
勢い掴みかかろうとする姐さんを、二人がかりで押し留める。ああなるほど、この為にここに座らせたのか。待って潰れるぎゃー。
「てめぇの娘だろ!こんなボロ宿のクソ客の方が大事だってのかい!」
「クソ客なんざ知ったことか!そんなんじゃねぇ!……そんなんじゃねぇんだよ」
「だから!違うってんならそれを言えって言ってんだよあたしは!」
「うるせぇ!テメェらには関係ねぇ!これ以上喧しくするんなら、出て行きやがれ!」
「んだとこの野郎」
「待って待って姐さん」
「なんだよラング、あんたこいつの味方する気かい?」
「いや殴るのは好きなだけどうぞ。けど、その前に俺らが死ぬんで、解放してくれませんかね……」
姐さんとカウンターの板挟みでとっくに限界を過ぎている。隣で泡を吹いてる相棒よりは幾分マシだが。
「ちっ、軟弱な」
「ちょっと姐さん、今舌打ちした?それはさすがにヒドくない?」
「してねぇよ。邪魔だからさっさとどきな」
「助かります」
板挟みから抜け出すついでに辺りを見回す。
宿の一階は酒場兼食堂だ。看板娘の心配半分、酒の余興半分といった雰囲気の中、不自然に外される目線がひとつ。
……なるほどねぇ。
「なぁガキ」
「ガキじゃねえ!俺の名前は」
「なんでもいい。メルマー、助けたいんだろ?」
「……うん」
「依頼だな?」
「……ああ、依頼だ!」
「よく言った。姐さん、この仕事俺らが貰ったぜ」
「好きにしな。あたしゃこいつをシメないと気が済まない」
言いつつ、視線で姐さんの注意を店の奥に促す。
「じゃあ、あとはよろしく」
「任せたよ。メルマー連れて帰らなかったら承知しないからね」
「ただ働きでペナルティだけ手厚いってウソだろ!?」
「やっと起きたか。ヴィル、行くぞ」
「待てよラング、説明しろって」
「後でいくらでもしてやるよ。ただ働きってだけ分かってりゃ上等」
足元の覚束ない相棒の腕を抱え、宿を後にした。
一方、店内。
ドカッ!
頑丈さだけが取り柄の安宿のテーブルが、酔客を一人、宿の隅に磔にした。
姐さんのひと蹴りで椅子もろとも押し込まれたのだ。まるで誂えた枷のように、どれだけ手足を動かしても徒労に終わる。
「さぁて、話してもらうよ?」
「かはっ!……いきなりなにすんだこのメスオーガ。話せってなんのことだよ」
「知らねぇよ。ラングがお前に聞けって言ったんだ。なんのネタもないってこたぁないだろうさ」
「はぁ?バカにも程があるだろうが!」
「ああ、梟と違って察しが悪いんだ。バカでも分かるように話さないと、その格好で墓に入ることになるから覚悟しときな」
***
「なぁ」
「なぁ、おい」
「聞けってのコラ」
職人通りを進み、大路の手前で裏路地に入る。
「おーい」
「ラングさーん」
「ランクルイード坊っちゃまー」
…………。
「ランクルイード=ガ」
「やかましい!」
「なんだ、聞こえてんじゃんか」
「分かっててやってんだろ、めんどくせぇ」
「分かっててスルーする方が悪いんですー」
「黙れガキ」
「ガキって言う方が……はい、黙ります」
騙し絵のような道を迷わず進む。
「おや珍しい。なにか欲しい情報が?」
日の差さぬ路地裏の更に深い暗がりから、声がかかる。
「あぁ、前に売りつけようとしてたネタあったろ?貰いに来たぜ」
「はて、どのネタでしょう?」
「とぼけんな、ウチの宿の常連のネタだよ。ろくに仕事もしてねぇくせに年中管巻いてるおっさんの素性」
「ああ、あのネタですか。では、金貨一枚」
「はぁ?ふざけんな、なんで倍になってんだよ」
「そりゃあ、買い時があれば売り時もあるものでして。何があったかは存じませんが、必要になったのでしょう?ただ働きするくらい余裕があるのですから、こちらにも分けていただかないと」
「くっそ、足元見やがって。ヴィル、金」
「はぁ!?なんで俺が」
「新しい術具の為に貯めていらっしゃるとか。残念ながら、あれは外れですよ?」
「マジか。って、なんで知ってんだよテメェ」
「それが生業なもので」
「ヴィル、こいつが何知ってたところで当たり前だ。驚くだけ損だろ」
「とんでもねぇ地獄耳。信じらんねぇ」
呆れつつ、ベルトの裏に縫いつけた金貨を渋々、暗がりから伸びた手に置く。
「確かに。さて、彼の素性ですか」
「もったいつけんな」
「彼は、ティートリーの元従士ですね」
「はぁ?ティートリーって、あの?」
「他のティートリーは寡聞にして存じませんね」
「お前が知らないもんが存在する訳ねぇだろが」
「それは買いかぶりでございましょう」
「いいんだよそういうのは」
「それで、他に知りたい情報はございますか?」
「もう払うもんがねぇよ、充分だ」
「お二人でしたらツケでも構いませんよ?」
「冗談じゃねぇ。必要になったらまた来る」
「是非また。楽しみにしております」
言い切ると同時、姿も気配も煙と消え去る。
構わず、二人は大路に戻った。
「おい、ティートリーってマジか?」
「あいつが冗談言うとでも?」
「いや、そうだけどよ。だってあれだろ?バカ王女のとばっちりで没落したってあの」
「不敬」
「やべ」
不意の失言に、ヴィルが慌てて周囲を見回した。誰も気に留めた様子はなく、ホッと胸を撫で下ろす。
大路を、城が見える方へと進む。進む先は貴族街だ。
ティートリー。
かつて宰相として辣腕を振るった侯爵の家名。
だが、十余年前の戦役の後、彼は職と爵位を辞して宮廷を去った。
戦役ではその采配で南大陸から攻め上る蛮族の軍を撃退せしめた。その功を疑うものはない。
瑕疵といえば、参戦した第一皇女が敵将を見初め、駆け落ちしたことくらいだ。
それも、誰一人彼の責とするものはない。
問題は、それを描いた戯曲が空前の好評を博し、我も我もと夢見る若者が世に溢れたことであった。
とはいえ、それを実行する者などいるはずもない。
考えなし、いや向こう見ず、いや世間知らず、まぁ有り体に言って大馬鹿者など数えるほどだ。
問題は、その数えるほどの中の一人が、ティートリー侯の愛娘だった、ということだった。
彼女は戦役上がりの荒くれ者と駆け落ちし、世を乱し騒がせたことに恥じ入った侯爵は隠棲した。
王の再三の招聘にも応じず、男爵へと家格を落としたまま彼は世を去り、今は縁戚すら断った夫人が女男爵となり、遺産と年金で細々と過ごしているというが。
「これが……?」
貴族街の外れ、こぢんまりとした邸宅は華もなくひっそりと建っていた。
「ああ。名宰相の終の住処、だな」
「こりゃ、やりきれねぇなぁ」
平民からすれば立派な邸宅だ。しかし、それなりの者からすればこれでは貴族の体裁が成り立たない。
ヴィルが嘆くのも無理はなかった。
だが、今は感想を垂れ流す時間ではない。
「さて、どう忍び込むかな」
***
夜を待ち、二人は二階のバルコニーまで辿り着いた。バカとヴィルは使いようである。
カーテンで中の様子は伺えないが、灯りはついていて話し声も漏れ聞こえてくる。
なんとか会話の内容を聞き取りたいが、気付かれてしまっては元も子もない。
慎重に慎重を重ね、耳を窓に当てようとする。
と。
ガチャリ。
「は?」
思わず声が漏れた。口を塞ごうとしたヴィルの手に顔面を叩かれ、派手に音が立つ。
「窓が汚れますので、それはご遠慮下さいますよう。お二人とも、どうぞ中へ」
泰然と現れたのは、執事らしき老人だった。
「……ええっと」
「不法侵入に関しては不問と致しますゆえ、ご遠慮などなさいませんよう。どうぞ、お嬢様がお待ちです」
丁寧な物腰の中に、明らかな圧があった。逆らいようもなく、招きに応じる。
中にあったのは、件のお嬢様らしき後ろ姿と、ソファに腰掛け項垂れる老婦人のしょんぼりとした姿。
「お嬢様、お迎えが参りました」
「ちょっと待って、今大事な話の最中だから」
「その声、まさかメルマーか?」
「ちょっと待ってってば。って、あれ?」
髪型も格好も安宿の娘とはまるで違う。
だが、振り返った少女の目には見間違いようのない特徴があった。
メガネ。
「ラングにヴィル?なんでこんなとこに?」
「いやこっちのセリフだわ」
「マジでなんなん?ホント、一から全部説明してくれ。訳分からんくてツラい」
あー、説明すんの忘れてた。
泣きそうな表情のヴィルとともに、執事に促され席についた。
「ほぅ……」
執事の淹れた茶に癒され、ヴィルが悦に浸る。
確かに美味い。貧乏貴族が招かれざる客に出す風味ではない。なにもんだこの執事。
「アン、こちらの方々は……?」
「だから、私はアンじゃなくてメルマー!何回言ったら分かってくれるのおばーちゃん」
「おばー、ってちょっと待てメルマー。この人……じゃない、この方がどなたか分かってるか?」
「あたしを攫った人」
「いやそうじゃなくて」
「そうです、あなたはここに居るべきなのですよ」
「それもそうじゃなくて。いや、失礼いたしました。わたくし、ガンベイル子爵家が末子、ランクルイードと申します。これは家人にございます。……おい、礼」
「むぐ、失礼いたしました。ヴィラーマークス=トゥワートゥと申します」
供された菓子を慌てて飲み込み、ヴィルが続ける。と。
「ああ、これは大変なご無礼をいたしました。わたくしは」
「失礼。下位の礼は無用に願います、夫人。臣は皆、ティートリーは宰相の家格と思っておりますれば」
「それでは夫の通した筋が無為になってしまいます。わたくしはイルアネーシェ=ティートリー。数々の非礼をお詫び申し上げます」
忍び込んだ相手に非礼もなにもないだろうに。それでも老婦人は膝を下ろし頭を垂れたまま微動だにしない。
「ああもう、…………許します。楽になさってください」
「感謝致します」
筋金入りの貴族だ。勝てる気がしない。
全く、これをどうやって凹ませたのか。
「メルマーを攫ったのは夫人。それは理解しております。一体どういう経緯なのですか?」
「待ってラング、俺理解してない」
「黙れ」
「はい」
「アンは……」
「おばーちゃん。違う。あたしはメルマー」
「アン……」
「おばーちゃん?」
「……メルマーは、私の実の孫なのです」
「やっぱりかー」
それなら色々納得がいく。というかそうでなければ説明がつかない。
説明してほしそうな目線が刺さるが、無視。
「メルマーは私たちの一人娘が産んだただ一人の子。であれば、この家を継いで貰わなければなりません」
「それはそうかもしれませんが。とはいえ、平民との間に出来た子で、貴族として認められている訳でもないでしょう?」
「それはわたくしがなんとでもしてみせます!陛下も夫を不憫と思っていて下さったのです、道は必ず開けましょう」
「まぁ、他ならぬティートリーの陳情であれば、目がないとまでは思いませんが」
「でしょう?であれば、やはりわたくしの身を犠牲にしてでも、この子に確かな未来を」
「お・ば・あ・ちゃ・ん?」
「でも、アン……?」
「でもじゃないの。アンでもないし」
「夫人。メルマー自身が望まない未来を、あなたは無理に押し付けようとなさるのですか?」
「今はまだ幼い子供ですもの!いずれ分かってくれるはずです!」
「だそうだが。メルマー、どう思う?」
「やだ。ムリ。興味もない」
「ううぅ……」
両手で顔を覆い、肩を震わせる夫人。
「泣き真似したってダメなものはダメだからね。私はメルマー亭のメルマー。貴族なんて真っ平ごめん」
サイズピッタリに設えられたドレスに、華やかに整えられた髪。貴族令嬢然とした格好で言うことではないが。
だが、まぁ気持ちはよく分かる。
メルマーが輝くのは、混み合う宿の切り盛り時だ。社交界ではない。
「あのね」
不意に、メルマーがこちらを向く。
「おばーちゃん、なんだかんだ言ってるけどね。結局寂しいだけなの」
「アン、一体なにを」
「メルマーだってば。執事さんもメイドさんたちもいるだろうけど、それでも、おばーちゃんは一人ぼっち。だって、自分は一人ぼっちだって思っちゃってるから。寂しいから、それで気持ちが溢れて、あたしを攫っちゃったりしたんだよね?」
「そんなこと!」
「ないの?ホントに?絶対?」
「ぜ……絶対!」
「嘘」
「どうして分かってくれないの?」
「だって分かるもん」
「あー、メルマー嘘見抜くの得意だよなぁ。俺、嘘吐き通せたヤツ見たことないや」
ヴィルが、援護射撃のようなそうでないようなことを呟く。
意外にも、それが決定打になったようだった。
「だって……」
「だって?」
「だって、わたくしにはもう、あなたしか!夫に先立たれて、娘も行方知れずで、あなたしか残っていないのだもの!」
「だからって誘拐はダメだよおばーちゃん」
「っ」
「奥様、この場は潔く負けをお認めなさいませ。夜も更けてまいりました、お嬢様もお休みになるお時間かと」
「いや、あたしまだイケるけど」
「メルマー、夫人を休ませてやれよ。もう虫の息じゃねぇか」
「ヴィル、言い方」
「虫の息ではございませんか」
「そういうことじゃねぇよ」
「あはは!ヴィル、バカ過ぎ」
「おま、バカはねぇだろバカは」
「実際バカだから仕方ねぇ」
「ラング、てめぇもか」
ふふふ、と漏れ聞こえるのは夫人の笑い声。
「アンは、いいえ、メルマーはこのように笑うのですね」
「うん、そうだよ」
「後継の件は一度置くこととします。明日、改めてお喋りをしたいのですが、メルマー、いかがですか?」
「ムリ」
「ちょ、メルマー!?」
「だって、お父さんもメルマー亭も心配だもの。帰るに決まってるじゃない」
「そ……それはそう、よね……」
「落ち着いたら改めて来るから。だからそんなにしょんぼりしないでおばーちゃん」
「本当に?」
「うん、約束。だって、まだメガネのお礼すら言えてないもの。これくれたのおばーちゃんでしょ?」
「ええ……ええ、そうです」
「ありがと、すごく助かってる。あ、お礼言っちゃった」
「あ……」
「それはそれとして、また来るから。だから、あぁもう、泣かないでってば」
「ええ、ええ、ずっと、いつまでも待っていますからね」
「重い」
「さて、今生の別れのようなところを失礼致します。夜も遅いですから、お嬢様は本日は当家にお泊まり下さい。明日、朝食が済み次第宿までお送り致します」
「はーい」
「お二人はいかがなさいますか?客間は整えてございます」
「俺らは帰りますよ。上等なベッドで寝ちまったら、メルマー亭に帰れなくなる」
「ちょっと、分かるけどヒドい!」
「分かるならどうにかしてくれよ」
「宿賃倍……じゃ足りないか、五倍でどう?」
「どう?じゃねーよぼったくんな」
逃げるように邸宅を後にする。
後継の件、諦めると言わない辺りはさすがの強かさだが、まぁメルマーに勝てる目はないだろう。
「なぁ、ラング。ホントに帰るのか?」
「なんだよ、用は済んだし、さっさと呑もうぜ?」
「いや、ほら。連れて帰らないと承知しないって言ってなかった?姐さん」
「…………おい、どうする?」
「野宿?」
「あー。まぁ、死ぬよかマシか……」
「へぇ、皇都で野宿とは酔狂だね。あたしも混ぜとくれ」
「ぎゃー、出たー!?」
***
「結局ね。一人ぼっちなのが良くないって思うのよ」
しばらくして。
時々ティートリー家を訪問したりしていたメルマーがそんなことを言い出した。
「へー。まぁ頑張れ」
「聞け。じゃなきゃツケ精算しろ」
「みんな、清聴!」
「よろしい。あ、お父さんも聞いて。料理は後回しでいいから」
初めは、突拍子もないメルマーの思いつきだった。
寂しいなら、寂しくなくしてしまえばいい。
だから、ティートリーの邸宅をメルマー亭二号店にしようと思う、と。
「お嬢、それは無茶が過ぎる」
口を挟んだのは、先日姐さんに磔にされたメルマー亭最古参の飲んだくれだった。
今は髭も格好も整え、メルマーを見守るティートリーの従士の佇まいだ。
隠れて見守る必要がなくなったおかげか実に清々しい顔つきだが、どうしてか酒の匂いは消えない。
「そう?執事さんもメイドさんたちも、面白そう、って言ってくれたけど」
ティートリー家の家人は、経歴を問うと耳を疑うものばかりであった。皇宮や公爵家など名だたる名家に仕えた者たちばかり、よくぞ集めたものである。
聞けば、皇家の意向で送り込まれた面々なのだという。せめて僅かなりとも宰相の功に報いようとしてのことだったのだろう。
そうして事が動き出すと、まず、宰相に恩のある貴族がこぞって使者を向かわせた。
次第に、貴族ばかりでなく商人や平民も恐る恐る門を叩いた。
執事以下、家人が万事滞りなく整えるため夫人の負担も少なく、むしろ日を追って若々しさを増すように、彼女は実に生き生きとするようになった。
邸宅が手狭に思えてきた頃、お忍びで訪問した皇王が、かつての住まいに戻らないかと提案する。
宰相邸。かつて宰相に仕えた家人らが再び集い、ティートリー家は爵位こそ固辞したものの、かつての名望を取り戻した。
夫人に内緒でこっそり掲げられた皇家御用達の小旗は、批判も陰口も寄せ付けない。
あまりの評判の高さに、貴族や商家の子弟子女など、金を払ってでも学びたい、学ばせたいという者たちが押し寄せ、人手は余るほど。知らず知らず、宿は高度な教育の場にもなっていた。
そんな中、様々な身分の客たちは、様々な相談を夫人にもちかける。
貴族には貴族の、商人、平民にもみなそれぞれの悩みがある。夫人はそれを丁寧に聞き、答えられるものは真摯に答える。
あるいは、客同士が答え合い、教え合い、交わりを重ねた。それはすぐに、至極当たり前の光景となった。
交流はやがて絶対と思われた身分の隔たりを押し下げ、溶かし、互いの顔を見えるようにした。
世界は静かに、しかし確かに様相を変えていった。
後に人々は言う。
これは、ティートリーの革命だ、と。
老婦人の寂寥と少女の優しさがもたらした、穏やかな奇跡。
メルマー=アン=ティートリーの。
世界は決して不変などではないという、それは確かな証明であった。
***
「メルマー、あなた、母親に逢いたいと思いますか?」
「お義母さま、それは」
「あなたは黙ってなさい。わたくしはメルマーに聞いているのです」
「えっとねぇ、全然会いたくない」
「……メルマー、お前まさか知ってるのか?」
「知らない訳ないじゃない。酔っぱらいの口に蓋出来ると思った?死んだんじゃなくて、駆け落ちしたんでしょ?顔のいいお客さんと」
「……あのな、メルマー」
「お父さんとこに押し掛けて宿屋開いて、あたしを産んだはいいけど宿屋の切り盛りと子育てに疲れて丁度いい男に言い寄ったか釣られたかして更に駆け落ちとか、なんかもう」
「あんな娘でごめんなさいね、メルマー」
「いいってば、気にしてないし。あ、でも」
「どうした?」
「会いたいかって聞くからには、今どうしてるかは知ってるんだよね?それだけちょっと興味あるかも」
「修道院」
「分かったありがとう満足。さ、おばーちゃん、お父さん。今日も一日頑張ろー!」




