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第十話 それでも、手を伸ばす



 ルミナリアは、しばらく考えた末に結論を出した。


 このままでは足りない。


 ゼインが裏で何かしている気配はある。破滅フラグだけが見事に折れていくのも、そのせいだろう。しかも、その動きはかなり正確だ。原作知識があるのか、あるいはそれに近い何かを知っているのか。少なくとも、ただの優秀な護衛の範囲を少し超えている。


 それは分かった。


 だが、分かったところで決定打にはならない。


 ゼインがあの人なのか、ただの「原作を知る別の誰か」なのか。あるいはまったく別の理由で自分を守っているだけなのか。肝心なところがまだ、どうしても届かない。


 そして何より、ルミナリアには確信に近い直感があった。

 このまま静かに観察を続けていても、ゼインは自分からは言わない。


 そういう人間だ。


 言いたくても言えない。近づきたくても、近づきすぎることを恐れている。ずっと見てきたわけでもないのに、それだけはなぜだか痛いほど分かった。


 だったら。


 こっちから、大きく手を伸ばすしかない。

 彼が止められないほど分かりやすく。見過ごせないほど派手に。


 そうすれば、きっと動く。


 ルミナリアは自室の机に向かいながら、そんなことを真剣に考えていた。窓の外では夕方の光が庭の噴水へ反射して、水面に細かな揺らぎを作っている。薔薇の香りが、少しだけ風に乗って部屋へ届いた。


 広げているのは、学園祭前夜に行われる夜会の案内状だった。


 学園の上級生や有力貴族の子女が集う、華やかな催し。原作でも大きなイベントの一つであり、主人公エミリアが正式に「特別な存在」として周囲から認識され始めるきっかけになる夜でもある。攻略対象たちも揃うし、社交界の耳目も集まる。ここでルミナリアが派手に動けば、かなり印象に残る。


 目立つ舞台としては申し分ない。


 しかも原作を踏まえるなら、ここには小さな破滅フラグがいくつか仕込まれていた。聖女候補に対するあてこすり。攻略対象との微妙な対立。令嬢たちの噂話。そこから先の断罪へ、少しずつ空気が傾いていく。


 今までなら、そのどれかがまた絶妙に潰されるのだろう。


 でも今回は、たぶん規模が違う。


 個人的な昼休みの嫌味や、茶会でのひとこととは違う。大勢の前で、社交の場で、わざわざ自分から舞台中央へ出ていくのだ。さすがのゼインでも、全部を自然に消すのは難しいはず。


 ルミナリアは案内状の紙端を指先でなぞった。


「夜会で、ね……」


 呟く声は小さかったが、瞳の奥にはすでに決意があった。


 いいわ。そこまで隠すなら、私だって遠慮はしない。


 どうせ私は、何度も届かないまま終わってきたのだ。今さら「もう少し様子を見よう」なんて、おとなしいことをしていられるものですか。


 会いたい相手の前では、もともとかなりしぶといのだ、自分は。


 ひかりの頃だって、そうだった。小さなステージでは足りないと思えば、もっと大きな場所へ行こうとした。日本で見つからないなら、もっと広い場所を目指そうと本気で考えていた。


 だったら今だって同じだ。この学園の中で足りないなら、夜会へ出る。

 夜会でも足りないなら、社交界そのものの中心に立ってやる。


 そこまで考えて、ルミナリアはふと笑った。


 我ながら、本当に執念深い。でも、それでこそ自分だとも思う。


    *


 計画は、単純だが効果的だった。


 夜会でルミナリアは、わざと主人公エミリアへ強く印象を残すような立ち回りをする。あからさまな嫌がらせではなく、公爵令嬢としての圧を最大限に活かした形で。加えて、攻略対象の一人――原作でルミナリアと婚約話が噂されていた王太子殿下にも、それとなく意味深な態度をとる。


 そうすれば注目が集まる。

 エミリアにも、攻略対象たちにも、周囲の貴族たちにも。


 そしてその流れの中で、ゼインがどう動くかを見る。

 もし彼がまた何かを潰そうとするなら、かなり無理をしてでも出てくるはずだ。


 ルミナリアは、そこを捕まえたかった。


 もちろん完璧な賭けではない。多少危険もある。下手をすれば本当に悪評が立つかもしれないし、原作に近づきすぎる可能性だってある。


 けれど、考えた末にルミナリアは、やはり引かなかった。

 危ないからやめる、という発想は、昔から自分の中であまり育たなかったのだろう。


 危ないなら、どうすれば踏み込めるかを考える。

 届かないなら、どうしたら届くかを考える。


 それが良くも悪くも、彼女の本質だった。


 夜会の数日前から、ルミナリアは少しずつ準備を始めた。


 衣装は公爵令嬢として申し分なく、それでいて一度見たら忘れられないものがいい。派手なだけでは駄目だ。目に焼きつく美しさと、記憶に残る品格がいる。結果として選ばれたのは、深い藍に銀糸を散らしたドレスだった。夜の色に近いのに、灯りの下では星のように細かな光を返す。立っているだけで目を引く、でも軽薄には見えない、絶妙なラインだ。


 髪飾りも、宝石の大きさではなく印象で選んだ。揺れるたび光が細く流れる細工で、遠くから見ても輪郭が美しいもの。ルミナリアは鏡越しに何度も全身のバランスを確認しながら、ひどく真面目に「どう見えるか」を詰めていった。


 その様子を見た侍女が、少し不思議そうに言ったことがある。


「ルミナリア様、今回の夜会は特にお心づもりがおありなのですか?」


 ルミナリアは鏡の中の自分を見たまま、少しだけ笑った。


「ええ。少しだけ、ね」


 少しどころではない。かなりある。


 でも、まさか「ここで運命の人をおびき出したいの」とは言えないので、そのくらいでちょうどよかった。


    *


 一方で、ゼインの方も、何かを察していた。


 ルミナリアが妙に静かになるときがあることを、彼はここ最近知っていた。何か企んでいる時の彼女は、表面上むしろ整って見える。感情的になるのではなく、妙に落ち着いて、目だけが少し強くなるのだ。


 そして今の彼女は、まさにその目をしていた。


 夜会前日の昼、学園から戻ったルミナリアが馬車の中でいつもより口数少なく窓の外を見ていたとき、ゼインは内心でひどく嫌な予感を覚えていた。


 何かするつもりだ。それも、おそらくかなり大きく。


 理由は分からない。だが、これまでの流れを考えれば察しはつく。ルミナリアは最近、自分が裏で何かしていることにほぼ気づき始めている。原作通りのフラグが妙に折れることも、そこにゼインが絡んでいるらしいことも、薄々感じ取っているはずだ。


 そして彼女は、気づいたら待つタイプではない。


 来ないなら、自分から行く。

 届かないなら、もっと大きく手を振る。


 そういう人だ。


 夜会は、彼にとっても厄介な場だった。


 人が多く、貴族も多く、社交辞令も思惑も渦巻く。ルミナリアがそこで目立とうとすれば、場そのものが後押ししてしまう。原作でも重要イベントだ。できれば穏便に終えてほしい。


 だがたぶん、穏便には終わらない。

 その予感を抱えたまま、ゼインは無言で拳を握った。


 今度こそ、止めなければ。


 そう思う一方で、止めようとすること自体が彼女を余計に刺激する可能性も分かっていた。


 厄介だ。本当に、どうしようもなく。


 けれど彼女が相手だと、それを厄介だと思いながらも、嫌にはなれない自分がいる。


    *


 夜会の当日、学園の大広間は光に満ちていた。


 高い天井には大きなシャンデリアがいくつも下がり、磨かれた床はそれを受けて鏡のように輝いている。壁際には季節の花が飾られ、音楽隊の奏でる旋律が、談笑のざわめきと重なってやわらかく空間を満たしていた。


 次々と現れる令息令嬢たちは、皆、家格に応じた華やかさをまとっている。衣装も宝石も豪奢だが、この場ではそれが当たり前の景色だった。


 その中でも、ルミナリアが現れた瞬間、空気がわずかに変わった。


 藍色のドレスは夜の深さをそのまま写したようで、動くたび銀糸が淡く光る。結い上げた髪から零れる蜂蜜色の髪は、温かな照明の下で柔らかく艶めき、青の瞳は宝石よりも印象深く人を惹いた。


 元々目立つ令嬢だ。


 それに加えて、今日の彼女は「見られる」ことを前提に完璧に整えてきている。


 噂を交わしていた令嬢たちの声が一瞬途切れ、男性陣の視線が自然と流れる。ルミナリアはそれを感じ取りながら、あくまで当然のような顔でホールへ入った。


 いい。


 とてもいい。


 ちゃんと見られている。


 ルミナリアの胸の奥に、小さな高揚が灯る。


 昔、ひかりとしてステージへ立ったときと少し似ていた。光があって、人がいて、こちらへ視線が集まる。ここにいると伝わる場所へ、自分から歩いていく感覚。


 ただし今回は、歌も踊りもいらない。


 公爵令嬢として立つだけでいい。


 そしてその中心で、もう一歩だけ強く印象を残す。


 ルミナリアは会場を見渡した。


 エミリアがいる。やや緊張した面持ちで、けれど周囲の令嬢たちからも少しずつ受け入れられ始めている。攻略対象の何人かもすでに近くにいる。王太子殿下の姿もある。原作通りなら、この夜はエミリアにとって大きな転機になるはずだ。


 そして――ゼインも、少し離れた壁際にいた。


 護衛として、あくまで目立たぬ位置に立っている。黒に近い礼装は華やかな会場の中ではかえって影のようで、意識しなければ見落としそうなくらいだ。


 けれどルミナリアは、一目で見つけた。


 当然だ。


 ずっと探してきた相手かもしれない人を、今さら見落とせるわけがない。

 ゼインは一瞬だけこちらを見た。そしてすぐ、わずかに眉を寄せた。


 その反応に、ルミナリアは内心で口元を上げる。


 気づいたわね。何かをやる気配くらいは。

 なら、なおさら止めてみなさい。


    *


 最初の接触は、原作通りエミリアのところから始めた。


 ルミナリアは取り巻きの令嬢たちと共に、談笑していた彼女の前へ自然に歩み寄る。周囲にいる人間が多いぶん、会話はひどく耳目を集める。ここでの一言は、きっとすぐ広まるだろう。


「ごきげんよう、エミリアさん」


 にこやかに声をかけると、エミリアが少し緊張しながら礼をした。


「ご、ごきげんよう、ルミナリア様」

「今夜はとてもお綺麗ですこと」

「えっ……ありがとうございます」

「ええ、本当に。まるで、おとぎ話から抜け出してきたみたい」


 言葉だけ聞けば褒め言葉だ。だがルミナリアは、そこへほんの少しだけ含みを滲ませる。現実離れした可憐さ、という言い方は、貴族社会ではしばしば「場に馴染んでいない」という含意を持つ。


 周囲の空気が、かすかに揺れた。

 エミリアは困ったように笑う。


「そんな……」

「でも、気をつけた方がよろしくてよ」


 ルミナリアはさらに一歩、言葉を重ねた。


「このような場では、注目を集めるほど、いろいろなものが見えてしまいますもの」


 それはほとんど宣戦布告に近かった。


 あからさますぎない程度に、でも確実に「貴女は見られているわ」と圧をかける言い方。近くにいた令嬢たちが息を呑み、少し離れた場所にいた王太子の視線までこちらへ向く。


 いい。


 とてもいい。


 ちゃんと空気が動いている。


 ルミナリアはさらに追撃をかけようとして――その瞬間、背筋に何かが触れたような感覚に足を止めた。


 ゼインの視線だ。


 直接触れたわけではないのに、なぜだか分かった。静かで、鋭くて、ひどく真剣な目。こちらの次の一歩を読んで、止めるかどうかを考えている気配。


 ルミナリアの胸の奥が熱くなる。


 やっぱり見てる。ちゃんと、見てるじゃない。


 嬉しい、と思った。


 ほんの一瞬だけ。


 でもその直後、ルミナリアはわざと視線を逸らし、さらに王太子の方へ身体を向けた。今度はそちらを巻き込むつもりだった。


「殿下も、そう思われませんこと?」


 王太子は一瞬だけ目を見開き、すぐに整った微笑みを浮かべた。さすがに場慣れしている。だが、その返答が発せられる前に、別方向から声が飛んだ。


「ルミナリア様」


 低く、しかしこの場に不自然ではない音量だった。


 ゼインだ。


 ルミナリアはゆっくり振り返った。


 彼は人混みの向こうからこちらへ近づいてくる。その歩みは急ぎすぎず、遅すぎず、まるで「必要があるのでやって来ました」と言わんばかりに自然だ。


「何かしら」


 ルミナリアは優雅な顔を崩さず訊いた。


「少々、お話が」

「今?」

「今です」


 その一言が、やけにきっぱりしていた。


 周囲の空気がまた揺れる。護衛が主へ進言するにはやや踏み込みすぎているが、ルミナリアの身辺を預かる立場だと考えれば、全く不自然とも言い切れない。その絶妙な線を、ゼインは迷いなく踏んできた。


 ルミナリアは扇の内側で小さく笑いそうになった。


 来た。


 とうとう、自分から。


 けれどここで素直に従うほどやさしくはない。せっかくここまで仕掛けたのだ。もう少しだけ、彼を追い詰めたい。


「後になさい」


 あくまで冷ややかに言い返す。


「今は大事な会話の途中よ」

「承知しております」


 ゼインの灰青の瞳が、まっすぐにこちらを見る。


「それでも、今です」


 その声音には、静かな切迫があった。


 怒っているのではない。焦っているのでもない。ただ、これ以上は行かせないという意志だけが、ひどく強く滲んでいる。


 周囲の何人かも、さすがにこれは妙だと思ったのか、小さくざわめき始めた。王太子も興味深そうにこちらを見ている。これ以上ここで押し問答を続ければ、別の意味で派手に目立つだろう。


 ルミナリアは一拍だけ考え、そしてゆっくり微笑んだ。


「……いいわ」


 そのかわり、というようにゼインを見つめる。


「お話があるなら、きちんと聞かせてもらうわ」

「はい」


 短く返した声が、少しだけ低くなった気がした。


    *


 ゼインがルミナリアを連れて行ったのは、大広間から少し外れた中庭へ続く回廊だった。


 夜気が入るその場所は、ホールの熱気と比べると驚くほど静かだった。開け放たれた窓からは夜風が吹き込み、薄いカーテンを揺らしている。遠くから音楽と談笑のざわめきが届くが、ここまで来るとそれも一枚越しの音みたいに柔らかい。


 月が出ていた。


 庭には夜咲きの白い花が咲いていて、石畳にその影が淡く落ちている。

 その景色を見た瞬間、ルミナリアの胸はひどくざわついた。


 月夜。白い花。静かな回廊。


 最初の人生の記憶と、あまりに似ていたからだ。

 けれど今は、その感傷に沈んでいる場合ではない。


 ルミナリアは回廊の中央で足を止め、振り返った。


「それで?」


 ドレスの裾が夜気にわずかに揺れる。


「護衛が主人を夜会の真ん中から連れ出してまで、何をお話しくださるのかしら」


 言葉はややきつかった。


 わざとだ。


 ここで曖昧にしたくなかった。彼が出てきた以上、もうごまかしでは済ませたくない。


 ゼインは数歩離れた位置で足を止めた。近いようでいて、まだ遠い。

 その絶妙な距離感が、ルミナリアには少し苛立たしかった。


「先ほどの会話は」


 ゼインが口を開く。


「これ以上、続けるべきではありませんでした」

「どうして?」

「あなたにとって良くないからです」


 その答えに、ルミナリアは目を細めた。


「それだけ?」

「それで十分です」

「全然足りないわ」


 ぴしゃりと言うと、ゼインの眉がほんのわずかに寄る。

 ルミナリアは一歩、彼に近づいた。


「ねえ、ゼイン」


 名前を呼ぶ。

 その音だけで、彼の瞳がかすかに揺れるのが分かった。


「あなた、私に何を隠しているの?」


 夜風が吹き、窓辺のカーテンがふわりと膨らむ。白い花の香りが、ひどく微かに漂っていた。

 ゼインはすぐには答えなかった。


「ルミナリア様」

「その呼び方、やめて」


 反射的に口をついて出た。自分でも驚くほど早かった。


 ゼインの目が大きく見開かれる。


 ルミナリアは自分の喉が少しだけ震えるのを感じながら、それでも言葉を止めなかった。


「少なくとも今、この場では、そういう呼び方をしてほしくないの」


 静かに言うと、ゼインはしばらく黙っていた。


 その沈黙が痛かった。ここでまた彼が引いたらどうしよう、と思う。けれど同時に、ここまで来て引かれたくないとも思う。


 だから、ルミナリアはさらに踏み込んだ。


「私、ずっと考えていたのよ」

「……何を」

「どうして私が原作通りに動こうとすると、絶妙に邪魔が入るのか」


 ゼインの睫毛が、ごくわずかに揺れる。


「どうして破滅しそうな場面だけ、あんなに器用に折れていくのか」


 もう一歩。

 ルミナリアはほとんど、問い詰めるように彼を見つめた。


「ねえ、あれ、あなたでしょう?」


 沈黙。


 肯定も否定もない。

 だが、それ自体がほとんど答えだった。


 ルミナリアの胸が熱くなる。


「やっぱり」

「……偶然です」

「そんなわけないじゃない」


 思わず語気が強くなった。


「家からの手紙も、学園長の呼び出しも、階段のあれも、全部あなたがいた。全部、私が“その先”へ行こうとした時だけ」


 ゼインは目を伏せた。否定しない。

 ルミナリアの胸の奥に、喜びと苛立ちが同時に湧き上がる。


 やっぱり、見ていたのだ。


 ずっと。


 でも同時に、どうしてそこまでしておいて、まだ何も言わないのだろう。


「どうして邪魔するの?」


 その問いは、思っていたよりずっと切実な音になった。


「私が何をしたいのか、分かってるんでしょう?」


 ゼインの喉が、かすかに動いた。


「……分かっています」


 その答えに、ルミナリアの心臓が強く鳴る。


 分かっている。

 やっぱり、分かっているのだ。


 だったら。


「なら、どうして」


 声が震えた。


「目立たなきゃ、見つけてもらえないの!」


 言ってしまった。けれど、もう止められなかった。


 夜会の華やかな空気も、公爵令嬢としての仮面も、その瞬間には全部どうでもよくなっていた。ただ、自分の中で何度も何度も積み上がってきた気持ちだけが、ひどくまっすぐにあふれた。


「今まで、何度も届かなかったのよ」


 ルミナリアは息を詰めるように続けた。


「あと少しだったのに、届かなかった。会えそうで会えなかった。だから、今度は分かりやすくしないとって思ったの。ここにいるって、ちゃんと見えるようにしないとって」


 ひどく静かな夜だった。

 でもルミナリアの声だけが、その中で震えていた。


「待ってるだけじゃ駄目だったの」


 目の奥が熱い。


「静かにしてたら、また見つからないかもしれないでしょう」


 その言葉は、ひかりとしてアイドルになった理由そのものだった。ルミナリアとして悪役令嬢ムーブを選ぼうとしていた理由も同じだ。


 ここにいるよ、と手を振りたい。

 どうしても、見つけてもらいたい。


 そのためなら、少しくらい派手になっても構わないと思っていた。


 ゼインは、そんな彼女をじっと見ていた。

 そしてようやく、ひどく低い声で言った。


「……分かってる」


 その一言だけで、ルミナリアの呼吸が止まりそうになる。

 ゼインは少しだけ目を伏せ、それからまた、まっすぐにこちらを見た。


「あなたが、そうやって何度も手を伸ばしてきたことくらい」


 胸の奥で、何かが震えた。

 その言い方は、ただ事情を知っている人間のものではなかった。


 見てきた人の言い方だ。


 ずっと。


 何度も。


 同じように、届かない彼女を見てきた人の声だった。


 ルミナリアの指先が、わずかに震える。

 けれどゼインは、その次に、さらに静かに言った。


「でも」


 たった二文字なのに、それはやけに重かった。


「今度は、そんなことしなくていい」


 その言葉が落ちた瞬間、ルミナリアの胸の中で、嬉しさと怒りと悲しさが一緒くたになって弾けた。


「どうして、そんなこと言うの」


 ルミナリアはほとんど掠れた声で言った。


「だって、そうしなきゃ――」


「今度は、俺が見つけた」



 ゼインが遮るように言った。


 その声は大きくない。


 けれど、世界のどんな音よりもはっきり聞こえた。


 ルミナリアは、目を見開いた。


 月光が、彼の横顔を白く照らしている。灰青の瞳の奥には、今まで見えそうで見えなかった感情が、もう隠しきれないほど溢れていた。


「見つけたんだ」


 ゼインは、まるで自分に言い聞かせるみたいに続けた。


「だから、もうそんなふうに危ない場所へ自分から行かなくていい」


 ルミナリアの喉が詰まる。

 それは、ずっと欲しかった言葉のはずだった。


 今度は、俺が見つけた。


 その一言だけで、何度も届かなかった人生たちが一気に報われる気がする。嬉しい。たまらなく。


 なのに、それでも、ルミナリアはすぐ頷けなかった。

 だって自分は、そこまで行くしかなかったからだ。


 見つからないかもしれない恐怖の中で、前へ出ることでしか呼吸できなかったから。


「……でも、怖かったのよ」


 気づけば、そう零していた。

 ゼインの瞳が揺れる。


「本当に届くか分からなかった。何度やっても駄目で、今度も駄目かもしれなくて、それでも止まったら二度と見つからない気がして……」


 ルミナリアは唇を噛んだ。

 泣きたくないのに、声が少しだけ震える。


「だから、止まれなかったの」


 それは、ひかりとして走り続けた年月の告白でもあった。小さなオーディション会場から始まって、レッスンを重ねて、SNSも配信も使って、もっと広い場所へ行こうとした自分。その全部が、この一言に詰まっていた。


 ゼインは黙って聞いていた。

 やがて、深く息を吐く。


「……俺も、怖かった」


 その言葉に、ルミナリアははっと顔を上げた。


「やっと見つけたと思ったのに」


 ゼインの声は低く、少し掠れていた。


「また失うくらいなら、気づかれないままでも、近くにいられればいいと思った」


 ルミナリアの心臓が痛いほど鳴る。


 やっぱり。


 やっぱりこの人なのだ。


 その気持ちの向きも、言葉の選び方も、どうしようもなく彼だった。

 最初の人生で、月夜の窓辺に来てくれた騎士。


 正直すぎて、優しすぎて、不器用すぎて、だからこそ忘れられなかった人。


「また見つけて、また失うのが」


 ゼインは一度だけ目を伏せた。


「……怖かった」


 その声に、ルミナリアの胸の奥で何かが音もなく崩れた。


 怒っていたはずなのに。

 どうして名乗ってくれないの、と責めたかったはずなのに。


 その一言だけで、責めきれなくなってしまう。


 何度もすれ違って、何度も失ってきたのは、自分だけではなかったのだ。

 この人もずっと同じように怖かったのだと、ようやく分かった。


 夜風が吹き、回廊のカーテンがまた揺れた。

 遠くで音楽が鳴っている。楽しげな夜会のざわめきが、ここだけ別の世界みたいに遠い。


 ルミナリアは、ゆっくり息を吸った。


「……ずるいわ」


 泣きそうなまま、そう言うと、ゼインが少しだけ眉を上げた。


「そんなこと言われたら、怒れないじゃない」


 唇が震える。


「私は、ずっと……ずっと見つけてもらいたくて、目立つしかなかったのに」

「分かってる」

「分かってるなら、もっと早く言ってよ」


 それは、ほとんど泣き言みたいだった。ゼインは答えなかった。


 答えられないのだろう。言えなかった理由があることも、もうルミナリアには分かっている。


 だから彼女は、もう一歩だけ彼に近づいた。

 夜の光の中で、二人の距離がようやく縮まる。


「でも」


 ルミナリアは小さく言った。


「まだ、足りないわ」


 ゼインの目が揺れる。


「え……」

「“見つけた”だけじゃ、足りないの」


 喉の奥が熱い。

 それでも、ルミナリアは逃げなかった。


「私はずっと、あなたに会いたかった」


 その言葉を聞いた瞬間、ゼインの表情が静かに崩れた。

 ずっと張りつめていたものが、ひびの入るように。


 けれどそこで、回廊の向こうから誰かの足音が近づいてきた。夜会の場だ。いつまでも二人きりではいられない。


 ゼインははっと顔を上げ、すぐに公の顔へ戻ろうとした。だがルミナリアは、それを許さなかった。


 咄嗟に彼の袖口を掴んだのだ。


 ほんの一瞬だけ。


 でも、その仕草には彼女の全部がこもっていた。


 行かないで。今ここでまた、曖昧なまま離れたくない。


 ゼインの身体が止まる。

 足音はまだ少し遠い。数秒なら、ある。


 ルミナリアは震える息で囁いた。


「逃げないで」


 その一言に、ゼインは目を閉じた。苦しそうだった。

 でも同時に、もう逃げられないと分かっている顔でもあった。


 彼はゆっくりと目を開き、ルミナリアを見た。

 そして、音にならないほど低い声で言った。


「……次は、逃げない」


 足音が近づく。


 ルミナリアはようやく袖を離した。ゼインもすぐに一歩引き、護衛の位置へ戻る。ほんの数秒前まで、二人のあいだで世界が揺れていたことなど、誰にも分からない顔で。


 だが、もう違う。


 はっきりした。


 まだ名前の奥までは言葉になっていない。過去の全部を確認し合えたわけでもない。けれど、もう間違えようがないところまで来ている。


 ゼインは自分を見つけていた。

 そしてルミナリアもまた、もう彼を見失わない。


 近づいてきた使用人へ何事もない顔で応じながら、ルミナリアの胸の中では熱いものが燃えていた。


 今夜は、まだ終わらない。

 でもたぶん、次で届く。


 何度も何度も、あと一歩で届かなかった恋が、今度こそ。


 その確信だけが、月光の下で静かに息づいていた。



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