第80話「気高き居場所」
かつて、エリシアは純白の手袋をはめていた。
一点の汚れもない白い絹。それが彼女の誇りであり、外界の不浄から自分を守る鎧だった。
しかし今、その手袋は侯爵邸の引き出しの奥に静かに眠っている。
王立苦情処理局が新たな独立機関として正式に発足してから、数ヶ月の時が流れた。
特務監査局との連携強化に伴う大規模な予算措置と人員の再配置を経て、王宮の敷地内の外れに急ピッチで建設された真新しい局舎はかつて彼らが見捨てられていた古い塔とは比べ物にならないほど広大である。
その一階に設けられた吹き抜けの空間には早朝からすでに途方もない数の人々が訪れ、溢れんばかりの熱気と活気に満ちていた。
文字の読み書きができない貧しい平民や地方から何日もかけて歩いてきた農民たちが口述受付の窓口に長い列を作り、自分たちの切実な痛みを訴える順番を静かに待つ。
特別に訓練を受けた新たな専門の書記官たちが彼らの震える声に真摯に耳を傾け、羽ペンを素早く走らせて丁寧に正式な書類へと書き起こす音が絶え間なく響いている。
かつての王宮とは全く違う、確かな血の通った光景がそこには広がっていた。
局舎の中心でエリシアは手元にある膨大な資料の束を素早くめくりながら、各窓口の進行状況を的確に把握し、新人職員たちへ的確な指示を出し続けていた。
その透き通るような凛とした声が響き渡るたびに、混乱しかけていた現場の空気がすっと引き締まり、滞っていた処理が嘘のように滑らかに動き出していく。
彼女の両手には——純白の手袋ははめられていない。
インクの染みと古い紙の埃で黒く汚れた素手が、書類を次々と受け取り、確認し、指示を出す。
かつて美しい令嬢の誇りだった純白の鎧はなく、ただ仕事をする人間の手だけがそこにある。
その手の方が、純白だった頃よりもはるかに気高い。
背後から複数の足音が近づいてきたかと思うと、いつものように少し気怠げな姿勢で分厚い革表紙のファイルを抱えたユリウスが彼女の隣に並んで立った。
「おいお嬢様初日から飛ばしすぎだぜ。地方からの報告書がまだ馬車二台分も裏口に届いたばかりだっていうのに」
口ではいつものように憎まれ口を叩きながらも、彼の瞳の奥には激務をともに乗り越える美しく気高い相棒に対する絶対的な信頼と温かい光が宿っている。
「息をつく暇がないのは初めから分かっていたことでしょうユリウス。私たちはこれまでに闇に葬られてきた途方もない数の声をすべてこの場所で正確に拾い上げなければならないのですから」
「違いねえ。休むのはこの国の連中全員が安心して夜眠れるようになってからで十分だ」
ふとエリシアは手を止めて、広間で懸命に働く新人職員たちの方へと静かに向き直った。
「あなたたちの中にはこの部署の仕事をただの厄介な面倒事の処理だと考えている者もいるかもしれません。しかしどうかこれだけは忘れないでください」
「苦情とは決して不快な雑音などではありません。理不尽な痛みに押し潰されそうになりながらもあえて声を上げた者がまだこの国を完全には見限っていないという切実な希望の証なのです」
「見捨てられていないという、その証拠なのです」
彼女の言葉は深い実感と途方もない痛みの記憶に裏打ちされた真実の響きを持って、新人たちの胸の奥底へと鋭く突き刺さっていく。
その言葉を聞いた新人職員たちの顔から一切の迷いや戸惑いが消え去った。
誰もが無言のまま強い覚悟を持って自らの机へと向き直り、再び力強く羽ペンを走らせ始めたのである。
窓口に並んでいた一人のみすぼらしい身なりの老人が震える手で一枚のしわくちゃな紙をエリシアの前に差し出した。
エリシアは一切の躊躇なく、インクの染みと古い紙の埃で黒く汚れた自らの素手を真っ直ぐに伸ばし、その泥臭い真実の記録をしっかりと受け取った。
古い紙のざらついた感触が彼女の指先に、生きようとする人々の温かい命の痕跡として確かに伝わってくる。
かつて左遷先として追放されたこの場所は、今や彼女が自ら選び取った居場所となっていた。
開け放たれた窓から朝の光が差し込み、彼女のインクに染まった素手を照らしていた。
エリシアは静かに微笑んだ。
全80話、最後までお読みいただきありがとうございました。
エリシアの物語に最後までお付き合いいただいたこと、心から感謝しております。
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本当にありがとうございました。




