第75話「局長の記録」
大公謁見の間はミレーユの凄絶な証言が残した果てしなく重い余韻に包まれていた。
王国の最高権力者たちは自分たちが無自覚に消費してきた感情の搾取を突きつけられ、ただ息を殺して下を向いている。
その息苦しい空間の中でエリシアは次なる証言者の名を広間に響き渡らせたのである。
重厚な木製の扉が低い音を立てて再び開かれ、王立苦情処理局のバルテン局長が静かに謁見の間へと足を踏み入れた。
彼の歩みはひどくゆっくりとしたものであったものの、その背筋はかつてないほどに力強く真っ直ぐに伸びている。
その両腕には彼が長年にわたって地下の旧保管庫の深い暗闇の中に隠蔽し続けてきた膨大な量の古い記録の束がしっかりと抱えられていた。
証言台の前に立ったバルテンは深く皺の刻まれた顔をゆっくりと上げ、議席に座るかつての同僚や権力を持つ上官たちを一人残らず静かに見渡した。
「私が本日この場に提出いたしますのはかつて存在した旧陳情制度時代の未処理記録のすべてです」
彼のしわがれた低い声が果てしない沈黙が支配する広間の隅々にまで重く冷たく響き渡る。
「そしてここにあるのは他でもない私自身が過去に大局的な秩序を守るという名目で無残に握り潰してきた案件の整理文書なのです」
バルテンは自らの重い罪を決して誤魔化すことなく、真っ直ぐな言葉で一つずつ丁寧に紡ぎ出していく。
「私は長年のあいだ王宮の美しい秩序を乱すような厄介な訴えを闇に葬り去ることが国を守るための正しい統治なのだと本気で信じ込んできました」
「全体を生かすためならば一部の者の小さな犠牲はやむを得ないものだと自分に言い聞かせ、理不尽な痛みに泣く人々の声を聞かなかったことにしてきたのです」
エリシアはバルテンの言葉を聞きながら、ふと静かに悟った。
——この人が守ろうとしたものは、私と同じだった。
バルテンもかつては、この国を良くしたかった。
波風を立てないことで国が守れると信じていた。
それは善意から来ていた。
自分が初めてこの局に来た時、書類を完璧に処理することで世界を正しくできると信じていたのと、形は違えど——同じ思いから出発していたのだ。
その善意が、いつしか「聞かないことに慣れる」ことへと変質していった。
しかし守ろうとしたものそのものは、間違っていなかった。
エリシアはそのことを、静かに理解した。断罪ではなく、理解として。
「しかしその無自覚な善意の隠蔽こそが結果としてこの国を根底から腐らせる恐ろしい巨大な病理を育て上げてしまいました」
バルテンは腕に抱えていた分厚い書類の束を証言台の上に重い音を立てて置くと、さらに決定的な言葉を権力者たちに向けて力強く放った。
「たしかにアルヴェイン伯が行ってきた数々の横領や不正は決して許されることのない国家に対する重大な犯罪です」
「しかし皆様、彼一人をすべての元凶として血祭りに上げそれでこの国が綺麗になったと安心していては絶対にいけないのです」
「アルヴェイン伯という男は我々が波風を立てないために作り上げたこの巨大な隠蔽の構造に寄生したただの一匹の貪欲な虫にすぎません」
「我々が不都合な真実を忌み嫌い臭いものに蓋をする事勿れ主義を蔓延させていたからこそ彼はそこにつけ込んで甘い汁を吸い続けることができたのです」
「彼一人を切り捨てて満足するのではなく我々自身の内にある聞かないことに慣れた善意そのものを根本から解体しなければならないのです」
エリシアは証言台の傍らでバルテンのその命がけの告発の姿をただ静かに誇り高く見つめ続けていた。
この人が守ろうとしたものは私と同じだった——その確信が、今は胸の中で温かく静かに輝いていた。
対立から共鳴へ。
それが今、この場で起きていることだった。
彼女が王立苦情処理局という掃き溜めのような部署で泥にまみれて積み上げてきたのは、特定の誰かを罰するためだけの戦いではなかったのだ。
無数の声なき悲鳴を白日の下に晒し、長年続いてきた上品で残酷な隠蔽の連鎖を終わらせるための極めて正確で重い仕事だったのである。
大公謁見の間を重く支配する沈黙はもはや絶望や戸惑いのものではなく、新たな時代の幕開けを告げる厳粛な胎動へと変わっていた。




