第54話「レオンハルトとの再会」
王宮の長い大理石の回廊は、冷え切った静寂に支配されていた。
エリシアは分厚い記録鞄を手に、足音を忍ばせるようにして歩みを進めている。
昨日、記録保管室の奥深くで侍女頭の隠された帳面を発見し、アルヴェイン伯の暗躍を示す決定的な証拠を手に入れた。
本日は王妃から非公式に依頼されていた王宮内の人事や贈答の流れに関する調査の総仕上げとして、最後の裏付け確認を終えたところだった。
すでに彼女の頭の中では、アルヴェイン伯という巨悪の喉元へ突き立てるべき反撃の刃が、冷徹な論理の形となって研ぎ澄まされつつある。
王宮の表面を覆う『苦情のない完璧な静けさ』が、無数の声なき悲鳴を塗り込めた巨大な嘘の空間であるという事実を暴き出すための準備は整った。
鞄の中にしまわれた古い革表紙の帳面の重みが、エリシアの心に静かで熱い覚悟の炎を灯し続けている。
この息の詰まるような偽りの美しい世界から早く立ち去り、埃まみれで泥臭い苦情処理局の執務室へ戻りたかった。
あそこには、共に泥沼の中で足掻きながら戦ってくれる、無愛想だが信頼できる次席監察官がいるのだから。
回廊の角を曲がろうとしたその時、不意に前方の開けた空間から複数の足音が近づいてきた。
磨き抜かれた床に反射する華やかな衣装の色と、金属の軽やかなふれあう音。
数人の近衛騎士を従えて歩いてきたのは、王太子レオンハルトであった。
エリシアの足が、反射的にピタリと止まる。
かつて彼女が王太子妃候補として隣に立ち、王国の未来を共に背負うと信じていた相手。
そして卒業舞踏会の華やかな光の中で、一切の事実を問うことなく彼女を理不尽な感情で切り捨てた男である。
レオンハルトもまた、前方から歩いてくる濃紺の質素なドレス姿のエリシアの存在に気づき、わずかに目を見開いて立ち止まった。
彼は背後の近衛騎士たちに短く手で合図を送り、彼らを少し離れた場所へと下がらせた。
エリシアは静かに壁際へと歩み寄り、臣下として非の打ち所がない完璧なカーテシーを行った。
微かにインクの染みがついた純白の絹の手袋に包まれた指先がドレスの裾を優雅に広げ、彼女の動作には一切の迷いも乱れも生じていない。
「お久しぶりだね、エリシア」
頭上から降ってきた声は、あの婚約破棄の夜と同じようにどこまでも柔らかく、穏やかな響きを持っていた。
エリシアがゆっくりと顔を上げると、目の前に立つレオンハルトの顔には、かつての屈託のない明るい輝きは失われていた。
彼の目元にははっきりとした暗い疲労の影が落ちており、華やかな王太子の衣装がどこか重たげに見える。
彼が良かれと思って進めた実力主義の改革が王宮の古い人間たちとの間に無用な摩擦を生み出していること。
そしてミレーユの無責任な善意が引き起こした慈善行事の混乱など、彼の理想と現実のズレが少しずつ彼の肩にのしかかっている証拠であった。
「ごきげんよう、殿下。このような場所でお目にかかるとは存じませんでした。殿下におかれましても、息災そうで何よりでございます」
エリシアの感情を完全に排した氷のように澄んだ声に、レオンハルトは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「君が王宮の資料室へ頻繁に出入りしていることは、私の耳にも届いていたよ。苦情処理局での君の活躍もね。君のその冷徹なまでの実務能力が、あのような掃き溜めで活かされるとは皮肉なものだ。ずいぶんと……苦労しているようだね」
彼の言葉には、エリシアを嘲るような響きは全くない。
むしろ、左遷された先で彼女が泥にまみれて働いていることに対する、純粋な同情と痛ましさが込められていた。
「王国の規定に基づき、実務官としての職務を全うしているだけでございます。苦労などというものは存在いたしません」
「君は、相変わらずだね」
レオンハルトは小さくため息をつき、窓から差し込む秋の薄日を見つめながら、ぽつりとこぼすように言った。
「あの夜のことは……少し、誤解が多かったのかもしれないと、最近よく考えるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、エリシアの心の奥底が微かに、しかし冷たく反応した。
「誤解、でございますか」
「ああ。君のやり方は厳しすぎるところがあったが、すべてはこの国を思ってのことだったのだろう。君の優秀さは私も認めている。だが……」
レオンハルトは少し躊躇いがちに、エリシアの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「もう少しだけ、君が柔らかく振る舞ってくれていたら。ミレーユのように人の心に寄り添い、周囲を和ませるような態度を少しでも見せてくれていたら、あんなすれ違いは起きなかったのにと、そう思わずにはいられないんだ」
彼の言葉は、彼なりの最大の歩み寄りであり、善意に満ちた再評価のつもりなのだろう。
婚約破棄という決定的な断罪を、ただの「行き違い」であったかのように柔らかい言葉で包み込もうとしているのだ。
だがエリシアの明晰な頭脳は、彼の言葉の奥に潜む致命的な思想の欠落を正確に読み取っていた。
彼が言いたいのは、「君は有能だが、なぜもっと愛想よくできなかったのか」という、彼女の資質に対する根源的な不満である。
彼はエリシアの実務能力を認め始めてはいるものの、統治というものの本質を全く理解していない。
好感を持たれ、善意で場を和ませることこそが王の役割であり、国を平穏に導く最善の道だと信じて疑っていないのだ。
あの王妃が「大局のために多少の不満は飲み込まれるべき」と理知的に語ったのと同じように、レオンハルトもまた、波風を立てない優しい空気がすべてを解決すると信じている。
だが、その「優しさ」や「柔らかさ」がどれほど残酷な代償を伴うか、エリシアはすでに嫌というほど知っていた。
ミレーユの優しい約束が貧民街の人々を二重の絶望に突き落としそうになり、現場の実務官たちを地獄に引きずり込んだように。
あるいは波風を立てないための穏便な処理が、結果としてアルヴェイン伯のような怪物を育て、末端のディートハルトのような名もなき人々を理不尽に押し潰してきたように。
「殿下」
エリシアの声は静かであったが、そこには大理石の床を割るような鋭い強さがあった。
「好感を持たれることと、国に対する責任を負うことは別でございます」
レオンハルトが驚いたように目を瞬かせる。
「殿下の求められる『柔らかさ』や『優しさ』は、たしかにその場を和ませ、人々に一時的な安らぎを与えるでしょう。しかしそれは時に見たくない残酷な現実から目を背け、声なき者たちの切実な痛みに波風を立てずに黙殺するための、恐ろしい蓋になります」
彼女の言葉は、かつて彼女自身がぶつかり血を流しながら学んだ真理だった。
「事実を直視し制度の歪みにメスを入れることは、決して人に好かれる行いではありません。ですが誰かに憎まれる覚悟で泥にまみれなければ、本当に弱い人々を守り抜くことなどできないのです」
エリシアのその真っ直ぐで冷徹な言葉は、傷つくことを恐れて善意の空気に逃げ込んでいるレオンハルトを容赦なく切り裂くものであった。
レオンハルトはしばらくの間エリシアの顔をまじまじと見つめていたが、やがて深く、ひどく哀しげに首を振った。
「君はやはり……理屈ばかりで、人の心が分からないのだね」
彼のその言葉には、かつての婚約破棄の夜に放たれた非難のような棘はなかった。
ただ純粋に彼とエリシアの間に横たわる理解不能な溝に対する、深い諦めと悲哀だけが滲んでいた。
彼には悪意がない。
ただ純粋に泥臭い痛みを伴う統治の厳しさを理解できないだけなのだ。
エリシアは彼に対して怒りも悲しみも湧いてこなかった。
かつては彼に認められ、王太子妃として隣に立つためだけに自分の感情をすべて白い手袋の奥に封じ込めてきた。
彼に選ばれるためだけに生きてきた自分が、ひどく遠い過去の幻のように感じられる。
今彼女の目の前に立っているのは、王国の未来を託すべき偉大な王ではなく、ただ善意の重さに耐えきれずに迷い続けている一人の善良で弱い青年でしかなかった。
「……私の言葉が至らず、申し訳ありません」
エリシアは感情を完全に消し去り、再び完璧な礼をとって深く頭を下げた。
彼女の心の中で、かつて彼と共有していたわずかな未来の欠片が音もなく静かに完全に崩れ去っていくのを感じた。
もう二度と二人の道が交わることはない。
彼と自分の立っている世界が決定的に違い、その断絶が永遠に埋まらないものであることが、王宮の冷たい静寂の中で美しく確定した瞬間だった。
「殿下のご健勝と、王国の平穏を心よりお祈り申し上げます」
エリシアはそれだけを静かに告げると、身を翻して彼に背を向けた。
レオンハルトは彼女を引き留めることもなく、遠ざかっていく濃紺のドレスの小さな背中を、ただ複雑な表情で見送るしかなかった。
王宮の外へ出ると、冷たい秋の風がエリシアの銀色の髪を激しく揺らした。
灰色の空の下、彼女は大きく深呼吸をして肺の中に冷たい空気を満たす。
先ほどの再会によって、彼女の足取りが重くなることは微塵もなかった。
むしろ過去の未練やしがらみから完全に解放され、目指すべき道がどこまでも鮮明に鋭く見え渡っているように感じられた。
彼女の鞄の奥には、侍女頭が命を削って残した反撃の剣である古い帳面が確かに眠っている。
王妃の善意の黙殺と、アルヴェイン伯の冷酷な貪欲さ。
この国を蝕む巨大な病理を根底から打ち崩すための戦いは、ここからが本当の始まりなのだ。
「待っていてください、ユリウス様。私たちにはまだ、やるべきことが山ほど残されていますから」
彼女は誰に聞かせるでもなく、小さく、しかし確かな熱を帯びた声で呟いた。
泥臭い苦情処理局の執務室で、彼女の帰りを待ちわびている無愛想な共犯者の顔が浮かぶ。
エリシアは微かにインクの染みがついた純白の絹の手袋で鞄をしっかりと抱え直し、王立苦情処理局へ向かって真っ直ぐに迷いのない力強い歩みを進めていったのである。




