第51話「王妃の依頼」
王妃の私室に隣接する美しい温室を後にしたエリシアは、磨き抜かれた大理石の回廊を静かな足取りで歩いていた。
すれ違う王宮の侍女たちは皆一様に完璧な角度で頭を下げ、衣擦れの音すら立てずに通り過ぎていく。
そこには一切の乱れもなく、不満の溜息も苦痛の呻きも完全に排除された圧倒的な静寂が広がっていた。
だが今の彼女には、その完璧に整調された静けさの裏側に潜む淀んだ空気がひどく息苦しく感じられてならない。
鞄の中に忍ばせた片方の白い手袋が、彼女の冷え切った指先に己の無力さと覚悟の重さを絶えず問いかけてくる。
エリシアは王妃の穏やかで慈愛に満ちたあの微笑みを頭の中で何度も反芻しながら、重い木製の扉を抜けて王宮を後にした。
帰りの揺れる馬車の中で、エリシアは窓の外を流れる王都の石畳をぼんやりと見つめながら、王妃から極秘に告げられた依頼の詳細を改めてひとつずつ整理し始めた。
王太子レオンハルトが現在進めている改革は、古い慣習を打破し実力ある若手を登用するという理想に満ちたものだ。
しかし王妃によれば、その純粋すぎる善意の改革が現場で長年国を支えてきた古い人間たちの間に無用な摩擦と軋轢を生んでいるのだという。
そしてその混乱に乗じるかのように、一部の貴族や商会への不審な便宜供与や不自然な人事の偏りが起きているという噂が王妃の耳にまで届いていた。
本来であればすぐにでも公式な監査のメスを入れるべき重大な事案だが、王妃はそれを公の場で調査することを決して許さなかった。
王宮の内部に不満や軋轢が存在すると公式に認めること自体が、王家の完璧な権威を不必要に傷つけるからであるというのだ。
国を導く大局のためには現場で生じた多少の不満や軋みは波風を立てずに飲み込まれるべきであるという、古い統治の思想。
王妃はレオンハルトの若さを庇い、国の安寧を心から願う純粋な母の愛と善意をもって、非公式な調査をエリシアに託したのである。
それは相関図を描いてアルヴェイン伯の暗躍を追っていたエリシアにとって、王宮内部へ堂々と探りを入れる絶好の機会であった。
だが彼女の胸の奥には、与えられた使命の重大さよりもはるかに重く冷たい違和感が泥のように渦巻いていた。
王妃の論理は完璧であり、国と民を愛していることは痛いほどに伝わってきた。
しかし権威を守るために裏で穏便に揉み消そうとするその姿勢こそが、この国を長年腐らせてきた無自覚な黙殺の根源である。
ディートハルトという青年の人生が残酷に破壊されたのも、突き詰めれば大局のために個人の痛みが切り捨てられたからだ。
王宮に苦情がないのは、決して人々が満ち足りているからではない。最初から声を上げることを許さない強固な抑圧の空気が、美しく上品な善意のベールに包まれて完成しているだけなのだ。
エリシアはその恐ろしい事実に気づいていながら、温室では何一つ明確な言葉で反論することができなかった。
アルヴェイン伯のように私利私欲で不正を働く露骨な悪意なら、冷徹な論理と証拠で切り裂くことができる。
だが王妃は純粋に国を守るため、不満を隠蔽することが最善だと理知的に信じ込んでいる。
悪意のない高潔な善意によって守られた沈黙を、一体どのような論理で打ち崩せばいいのか。
この国の中枢に巣食う上品で厄介な怪物の気配に、エリシアは底知れぬ恐怖に背筋を凍らせた。
やがて馬車は王立苦情処理局の古びた建物の前に到着し、エリシアは雨上がりの冷たい空気の中へと降り立った。
薄暗い執務室の重い扉を開けると、そこにはいつものように気怠げな様子で書類の山に向かっている次席監察官ユリウスの姿があった。
彼は入ってきたエリシアのひどく青ざめた顔を一瞥すると、手元の羽ペンを置いて静かに身を乗り出した。
「王妃からの非公式な呼び出しとは、ずいぶんと厄介な貧乏くじを引かされたようだな」
ユリウスのその平坦な声には、エリシアが抱えている重い疲労を正確に見透かしているかのような響きがあった。
エリシアは無言のまま自分の机へと歩み寄り、巨大な相関図の上に被せていた布をゆっくりと払い除けた。
そして彼女は王宮で王妃から語られたレオンハルトの改革の余波と、不審な人事や便宜供与の調査依頼について、感情を交えずに淡々と報告した。
「王妃様は、この調査をあくまで非公式に行うことを望んでおられます。王家に不和や苦情が存在するという事実を、決して表に出さないために」
エリシアがそう締めくくると、ユリウスは短く鼻を鳴らして深く重い溜息を吐き出した。
「いかにも王宮の人間が考えそうなことだ。臭いものには美しい蓋をして、内部で密かに処理すればすべてが丸く収まると信じて疑わない。だがそれは俺たちにとって好都合でもある。王妃の極秘依頼という名目があれば、アルヴェイン伯が王宮内に張り巡らせている人事や贈答の流れを、誰にも怪しまれずに堂々と探ることができるからな」
ユリウスの言う通り、これはアルヴェイン伯の黒い線のさらなる奥へと踏み込むための最高の隠れ蓑になるはずだ。
だがエリシアの表情は全く晴れることなく、相関図の端に広がる無数の古い線の集まりを虚ろな瞳で見つめていた。
「ユリウス様。私は今日、王妃様のあの穏やかで美しい微笑みを見て、自分が戦おうとしているものの本当の恐ろしさを思い知らされました」
エリシアの掠れた細い声が、黴と古い紙の匂いが立ち込める執務室の冷たい空気を静かに震わせる。
「アルヴェイン伯の悪意なら、私は決して怯みません。ですが、王妃様のように国を心から思い、純粋な善意から『多少の不満は飲み込まれるべきだ』と理知的に語る人々に、私はどう立ち向かえばいいのか分からないのです。苦情を表に出せない場所ほど危ういのだと、あの方に分かってもらうための言葉が、私にはどうしても見つかりませんでした」
彼女の素手は小さく震え、インクの染みがついた指先を力強く握りしめて己の弱さを必死に押さえ込もうとしている。
完璧な論理の鎧を失った彼女は、今まさに生身の心でこの国の巨大な病理と真っ向から対峙しようとしていた。
ユリウスはそんな不器用でもがき苦しむ彼女の姿を、いつもより少しだけ真剣な暗い瞳で静かに見つめ返した。
「言葉が見つからないなら、無理に探すな。実務官の仕事は、立派な思想で王族を説得することじゃない。現場に落ちた小さな声や不自然な記録の欠落を拾い集め、その美しい蓋の下で何が腐っているのかを暴く。それだけだ」
彼の無骨で飾らないその言葉は、エリシアの心に絡みついていた迷いの糸を少しだけ解きほぐしていく。
「お前はただ、お前の作ったあの守るための手順を信じて、王宮に隠された真実を一つずつ拾い上げればいい。王妃の善意が本当に国を守るものなのか、それとも国を内部から壊すものなのかは、すべての点と線が繋がった時に自ずと明らかになるはずだ」
エリシアは深く息を吸い込み、ユリウスの真っ直ぐな言葉を自分の胸の奥底へとしっかりと刻み込んだ。
恐怖が完全に消え去ったわけではない。王宮という上品で残酷な伏魔殿に踏み込むことへの恐れは、依然として彼女の素手を震わせている。
だが彼女にはもうかつてのように安全な場所へ逃げ帰り、目を背けるという選択肢は残されていなかった。
彼女は鞄の中からあの片方の白い手袋を取り出すと、それを身につけることなくただ机の片隅に静かに置いた。
それは彼女が過去の傲慢な自分と完全に決別し、生身の痛みを抱えたままこの絶望的な戦いに挑むという決意の証である。
「ええ、その通りですね。私は私のやり方で、あの静かすぎる王宮に隠された顔のない悲鳴を見つけ出してみせます」
エリシアは顔を上げ、冷徹な鋭さを完全に取り戻した瞳で、広大な相関図の中央に引かれたアルヴェイン伯の黒い線を見据えた。
苦情など存在しないかのように完璧に整調された、あの美しく静かすぎる王宮。
彼女はその奥深くに潜む暗い深淵へと踏み込むため、新たな調査の方向を示す一本の線を、確かな筆圧で静かに書き加えたのである。




