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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第21話「夜会への招待」

王立苦情処理局の薄暗い執務室には、今日も長年染み付いたカビの臭気と古い紙の匂いが澱むように漂っている。


エリシアがいつものように書類の山と向き合っていると、配達員が場違いなほど上等な封筒を彼女のデスクに置いた。

それは王宮に連なる有力貴族であり、旧知の仲である伯爵夫人から送られてきた夜会への個人的な招待状だった。

苦情処理局の正規の窓口を通すには体裁が悪い家の相談があるという文面が、美しい飾り文字でひっそりと綴られている。


「婚約破棄された侯爵令嬢を夜会に呼び出すとはずいぶんと物好きだな。お前が最近厄介な貴族を潰した噂が耳に入って、裏の仕事でも頼みたくなったのだろう」


ユリウスが埃っぽい書類の山からゆっくりと顔を上げ、相変わらずの無愛想な声で皮肉交じりに呟いた。


「家の面子や体裁を重んじる社交界において、正規の手続きを踏めない事情があるのは明らかです。事実を確認して処理する必要があるため、指定された夜会へ赴いてまいります」


エリシアが一切の迷いを見せずに立ち上がると、ユリウスは呆れたように短くため息をついた。


数日後の夜、エリシアは一人で王宮に連なる貴族街にそびえ立つ壮麗な大邸宅へと足を踏み入れた。


夜の闇の中で眩いばかりの光を放ち、周囲の空気を圧倒している。

門の前には各家の紋章が刻まれた豪奢な馬車が次々と到着し、美しく着飾った貴族たちが優雅な足取りで会場へと吸い込まれていく。


エリシアが乗ってきた質素な貸し馬車は、そのきらびやかな景色の中ではひどく異質に見えた。

しかし彼女は表面的な見栄や体裁など全く気にも留めず、淡々と馬車を降りて夜会の会場へと歩みを進めた。


会場の扉が開かれた瞬間に押し寄せてきたのは、かつて彼女が当たり前のように立ち回っていた甘く息苦しい空気だった。


豪奢なシャンデリアが眩い光を放ち、磨き抜かれた大理石の床が貴族たちの華やかなドレスを美しく反射している。

人々はグラスを傾けて優雅に笑い合いながら、互いの隙を探り合う冷酷な計算を笑顔の裏に隠している。

婚約破棄された夜にエリシアを断罪したのも、まさにこの目に見えない恐ろしい空気の渦だったのだ。


彼女の登場は、会場の空気を一瞬にして冷たく凍りつかせた。

好奇と嘲笑の入り混じった視線が突き刺さり、若い令嬢たちの悪意に満ちた囁き声がわざとらしく響いてくる。


「王太子殿下に捨てられた哀れな女がどの面を下げて戻ってきたのかしら。苦情処理局なんていう泥まみれの場所で働いているくせに」


今の彼女にとって、彼らの放つ感情的な毒舌など論理的根拠を持たない無意味な雑音にすぎない。

エリシアは表情を全く崩すことなく、定規で測ったかのように真っ直ぐに背筋を伸ばして歩みを進めた。


しかし胸の奥には、ひとつの奇妙な感覚があった。


かつての彼女はこの夜会の空気を、完璧に読んで演じるべき舞台として捉えていた。しかし今は違う。

感情で動く人間たちがひしめくこの空間は、実務官としての自分にとって「分析すべき盤面」であるはずだ。

なのになぜ、扉をくぐった瞬間から、どこかざわめくものが胸の中に生じているのだろうか。

論理では割り切れない何かが、この甘く危険な空気の中に潜んでいる気がした。


今の彼女は王太子妃候補としてではなく、隠された問題を見抜く実務官としてこの場に立っている。

黒いインクの染みがついた純白の絹の手袋で給仕の盆からグラスを静かに一つだけ取り上げ、冷徹な分析の眼差しで夜会を見渡した。


誰が誰の隣に立ち、誰が不自然なほど誰の視線を避けて遠ざかろうとしているのか。

貴族たちが交わす当たり障りのない会話の内容よりも、その合間に生じるわずかな沈黙の長さの方が雄弁に物を語っている。

ここでは洗練された礼儀こそが武器であり、穏やかな微笑みが目に見えない強烈な牽制なのだ。


彼女は柱の陰に静かに立ち、広大な会場で繰り広げられている権力のゲームを冷静に見渡した。


「中央で談笑している三人の伯爵たちは表面上は同盟を結んでいるように見えますが、グラスを持つ手の角度が不自然です。一番右の男が微妙に体を引いており、彼らの間にすでに決定的な亀裂が生じていることがわかります」


社交界という盤面の上で動く駒たちの本質は、かつて完璧に暗記した資金源と利権の相関図に全て表れている。

誰が誰の視線を恐れ、誰が誰の権威に媚びへつらっているのか。その真実がエリシアの頭の中で次々と整理されていく。


そんな冷徹な分析を続けていた彼女の前に、旧知の伯爵夫人が数人の取り巻きを引き連れて優雅な足取りで近づいてきた。

彼女は王太子妃候補だった頃のエリシアを高く評価し、何かと便宜を図ってくれていた影響力のある狡猾な女性である。


「久しぶりねエリシア。あなたが本当にこの夜会へ顔を出してくれるとは思わなくて、少し驚いてしまったわ」


華やかな仮面を被って微笑みかける伯爵夫人だったが、その手元の扇子の陰で、エリシアにだけ分かる旧来の合図を送ってきた。

それはかつて王宮の複雑な政治的駆け引きの中で、二人が密かに情報をやり取りする際に使っていた特有のサインだった。


その一瞬、夫人の纏う空気がわずかに張り詰め、優雅な仮面の奥にある切実な気配がはっきりと伝わってきた。


「ご無沙汰しております。お言葉に甘えて伺わせていただきましたが、私にお手伝いできるようなことがあるのでしょうか」


エリシアが一切の感情を交えずに淡々と返答すると、伯爵夫人は周囲の視線を気にするように素早く周囲を見渡した。


「ここで立ち話をするのも目立つわね。少し奥の控え室で休ませてもらうから、あなたも後からそっとついてきてちょうだい」


夫人は誰にも気づかれないような小さな声で囁き、再び華やかな微笑みを顔に貼り付けて静かに歩き出した。


彼女の後ろ姿を見送るエリシアの胸の奥に、先日馬車の中で感じたあの重く冷たい疑問のざらつきがわずかに蘇ってくる。


完璧に事実を処理して問題を解決したはずなのに、傷ついた人間の心までは決して救うことができなかった。

今夜こうして個人的な家の相談を持ちかけてきた伯爵夫人もまた、誰も知らない深い痛みを抱え込んでいるのだろうか。


事実の刃で不正を容赦なく切り捨てるだけでは、人間の悲しみや憎悪を拭い去ることはできない。

その冷たい現実が、純白の手袋の指先にこびりついた見えない汚れとなって、彼女の心を静かに縛り付けようとしていた。


だがエリシアは小さく深呼吸をして背筋を真っ直ぐに伸ばし、胸に湧き上がるその人間らしい迷いを冷たい氷の壁の奥へ押し込んだ。


「迷っている暇はありません。どのような事情があろうとも私がやるべきことはただ一つだけです」


彼女は感情を完全に排した無機質な瞳で、自分を蔑む貴族たちの姿を冷ややかに見据える。


会場の喧騒から逃れるように奥の廊下へ進むと、音楽の音は少しずつ遠ざかり重苦しい静寂が周囲を包み込み始めた。


案内された控え室の重い木製の扉を静かに開けると、そこには先ほどの華やかな笑みを完全に消し去り、ソファに深く沈み込むように座っている伯爵夫人が一人で待っていた。


「よく来てくれたわね。実は娘の婚姻に関わることで、どうしても表沙汰にはできない深刻な問題が起きてしまったのよ。王宮の正規の窓口や監査委員会を通せばすぐに噂が広まり、家と娘の将来は完全に閉ざされてしまうの。だからこそ秘密裏に動ける苦情処理局のあなたに、こうして個人的な頼み事をするしかなかったのよ」


夫人の震える手には数枚の古い証文が固く握られており、その目にはかつての誇り高い輝きはなく、追いつめられた者特有の切実な怯えがはっきりと浮かんでいる。


「詳細な記録と関係者の名前を全て私に提出してください。感情に流されることなく王国の規定に基づいて、私が事実だけを処理いたします」


エリシアは調査用の分厚い記録鞄を机の上に静かに置き、インクの染みがついた純白の手袋でその証文を冷徹に受け取った。


今のエリシアにとって社交界は、帰る場所ではなかった。

ただ、嘘の綻びを拾うための盤面にすぎない。


「どれほど巧妙でも、記録に残る綻びまでは消せません」


静まり返った重苦しい空気の控え室の中で、エリシアの澄んだ声が鋭く真っ直ぐに響き渡る。

彼女は証文と古い帳簿の束を素早く広げ、事実という名の冷たい武器を手に再び孤独な戦いへと身を投じていく。


遠くで音楽が続いていた。

控え室の机の上では、古い証文だけが静かに口を開こうとしていた。


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