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婚約破棄された令嬢は、修道院ではなく王立苦情処理局で真実を拾う  作者: 早野 茂


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第16話「遅れていたもの」

王立苦情処理局の奥にある冷え切った会議室には、古い埃の匂いとともに重苦しい沈黙が張り付いていた。


長机の片側には上等な法衣に身を包んだ第一区の教会支部の司祭が、ひどく不機嫌な顔でふんぞり返っている。

その隣では定期馬車の運行を管理する輸送業者の代表が、借りてきた猫のように小さく身を縮めて下を向いていた。


対する席には黒いインクの染みがいくつもついた純白の絹の手袋をはめたエリシアが、真っ直ぐに背筋を伸ばして静かに座っている。

彼女の手元には地方から持ち帰った積荷の優先順位変更と滞留状況の記録、山のように高く積まれた荷の目録が理路整然と並べられていた。


「教会を相手に、たかが下級役人がいったい何のご用ですかな。我々は来週に迫った十年に一度の大祭の準備で、一分一秒を争うほど忙しいのですよ」


司祭が苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てると、会議室の空気がさらに一段と冷え込んだ。


エリシアは相手の不機嫌な態度に全く動じることなく、黒いインクで汚れた純白の手袋を静かに組んだ。


「お忙しいところ申し訳ありません。ですが東部の巡礼路において、教会の祭具や巡礼関係の荷物が不自然に優先され、村の診療所へ向かう医療物資が三日も滞留している事案について、明確な是正をしていただく必要があります」


「王国の輸送規定第三条には、人命に関わる医療物資の輸送はいかなる特例事案よりも最優先されると明記されています。大祭を理由とした現在の積荷の優先順位は明確な規定違反に当たります」


彼女が感情を交えずに事実だけを突きつけると、司祭は鼻で嘲笑い見下すような目でエリシアをねめつけた。


「規定だの法律だの、薄っぺらな紙の上の理屈を神聖な教会の使命に持ち込むおつもりですか。今は十年に一度の大祭の時期ですぞ。神への祈りこそが、この国を病や災いから守る最上の盾となるのです。少々薬が遅れようとも、神の加護があれば村の子供たちも必ず救われる。むしろ祭具の到着が遅れて大祭に穴が開くことのほうが、王国全体にとって取り返しのつかない損失となるのですよ!」


私腹を肥やす言い訳ではなく、「大祭の威信こそが王国を支える」という強固な信念がそこにはあった。

「神事」という抗いがたい空気が現場から思考を奪い、名もなき村人の切実な痛みを無自覚に切り捨てさせているのだ。


輸送業者の代表も教会の絶対的な権威を前に完全に怯えきり、「司祭様の仰る通りです……」と力なく同意する。


「信仰が人々の心の支えになることは決して否定しません。大祭が王国にとって重要であるというお考えも理解いたします。ですが熱に苦しむ子供の血を止め、今日を生きる命を繋ぐのは、見えない祈りではなく物理的な薬草です」


エリシアは司祭の威圧的な態度に一歩も引かずに反論した。


「それに目録を確認しますと、優先されている荷の中には大祭の儀式そのものには直接関係のない、巡礼客たちの過剰な手回り品や宿舎用の備品が多く含まれています。これらを整理して別便に分けるだけで、医療物資を運ぶ荷馬車一台分の余白は十分に生み出せるはずです」


巡礼の価値そのものを否定するのではなく、明確な数字と記録をもとに現実的な妥協点を突きつける。


その一切の隙のない論理的な指摘に、司祭は顔面を赤黒く染めて激昂し、重い机を力任せに叩きつけた。

机の上にあったインク壺が跳ね、黒い飛沫が飛んだ。しかしエリシアは瞬き一つしなかった。


「無礼な小娘が!王宮で婚約破棄された腹いせに、今度は我々教会にまで牙を剥くつもりか!私の一声があればお前のような生意気な役人など、この局ごと簡単に潰せるのだぞ!」


その怒声に輸送業者の代表がたまらず口を挟んだ。


「わ、私どもはただ司祭様から神事を何より最優先にするよう厳しく命じられただけでして……!現場としては教会の意向に絶対に従うしかなかったのです」


責任を上位者へと素早く丸投げするその言葉を聞き、エリシアは微かに汚れた手袋の指先をきつく握りしめた。


「私が今後どこへ追放されようとも、あなた方が大義を盾にして子供の命を危険に晒したという事実は決して消えることはありません」


エリシアは東区の泥の中で自ら書き留めた口述記録の手法を応用し、地方からの切実な被害状況をまとめた分厚い書類を、静かに机の中央へと押し出した。


「ここには医療物資が届かないことで具体的にどのような苦しみが生まれているか、現場の声と被害状況が詳細に記録されています。もしこの場で医療便を別枠で確保する是正案に応じないのであれば、私はこの記録を添えて不当な圧力による人命軽視の事案として、正規の監査委員会と報道機関へ即座に提出いたします。よろしいですか」


神事の正当性と、公になり己の地位が失われる現実。その狭間で司祭は顔面を土気色に変え、ギリッと強く歯を噛み締めた。


しかし結局、彼は自らの保身に抗いきれず、忌々しそうに視線を逸らした。


「……輸送の順序については業者に一任している。私から細かい強要をした覚えはない」


苦し紛れに責任を切り離す言葉を引き出し、エリシアはすかさず是正の結論を冷徹に打ち込んだ。


「承知いたしました。ではこれより王国の輸送規定に基づき、巡礼便の運行は維持しつつも命に関わる医療物資と生活必需品を別枠として最優先で確保するスケジュールに再設定いたします」


エリシアは輸送業者の代表に是正勧告の書類を差し出し、直筆の署名を求めた。

業者の男は震える手で何度も頭を下げながら書類にサインを書き込んだ。


司祭もゆっくりと立ち上がり、深い屈辱と憎悪をないまぜにした暗い目でエリシアを上から睨み下ろした。


「これだから血の通っていない役人は困るのだ。君たちは台帳に書かれた数字と規定の文字でしか物を見ない」


その捨て台詞を残し、司祭は足早に会議室から立ち去った。

「言葉ではなく記録が証拠だ」——エリシアはその確信を改めて胸に刻んだ。感情に動かされた言い訳など、数字の前では何の力も持たない。


残された輸送業者の代表も、逃げるようにそそくさと退室していく。


会議室の隅で腕を組んで黙って様子を見ていたユリウスが、ゆっくりと歩み寄ってきた。


「見事な整理だったな。だが、ああいう連中は負けたことより、大義を傷つけられたことを忘れん」


「実務官として規定に基づき処理を行っただけです。恨まれようと私のやるべきことは変わりません」


エリシアは淡々とそう返すと、机の上の書類を丁寧にまとめ自分の記録鞄へと静かに収めた。


澱んだ空気の執務室に戻り、古びたデスクに再び腰を下ろす。


局員たちは相変わらず遠巻きに見つめ、関わり合いになるのを避けている。


今日中に薬草は届く。

エリシアはその一点だけを確認するように、報告書の端をまっすぐ揃えた。


エリシアは古びたインク壺にペン先を浸し、新しく届いた苦情の書類を引き寄せて文字を書き連ねていく。


カリカリという硬いペンの音だけが、静まり返った執務室に孤独な決意のリズムを刻み続けた。


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