第15話「巡礼馬車の遅延」
王立苦情処理局の薄暗い執務室には、今日も湿った古い紙の匂いとカビの臭気が漂っている。
エリシアは傷だらけのデスクに向かい、地方から届いた新たな苦情の束に静かに目を通していた。
東部の巡礼路を走る定期馬車が、ここ数週間にわたって頻繁に遅延しているという内容だ。
「また東部の巡礼路か。あの辺りは今、十年に一度の大祭の準備でごった返しているはずだ」
年配の局員がひどく面倒くさそうに顔をしかめた。
「教会が絡むと建前ばかりで話が通じない。適当に天候不良か馬の不調ということにでもして、処理済みの箱に放り込んでおけ」
他の局員たちも同意するように頷き、厄介事には関わりたくないという露骨な態度を示している。
だがエリシアは書類から目を離さず、インクの染みがついた純白の絹の手袋で投書の端をそっと撫でた。
「遅延の理由が大祭による混雑だとしても、定期馬車の運行規定を破ってよい理由にはなりません。それに私たちが調べるべきは『何が遅れているか』ではなく、『誰が待たされているか』です。この文字の乱れとインクの掠れは、ただの文句ではありません。何か切迫した事情が隠れているはずです」
彼女の正論に、局員たちは忌々しそうにため息をついて自分たちの仕事へと戻っていく。
ユリウスは埃っぽい書類の山からゆっくりと顔を上げ、感情の読めない目で彼女を見た。
「教会を相手に正論を振りかざせば泥沼になるぞ。行くなら勝手に行け。だが中途半端な憶測で動くことだけは許さん」
決して優しい庇護の言葉ではないが、実務として彼女の調査を認める彼なりの言葉だった。
エリシアは短く一礼し、調査用の分厚い記録鞄を手に取って王都の東門へと向かった。
馬車を乗り継いで到着した地方の待合小屋は、ひどく冷たい風が吹き抜け、床に敷かれた湿った藁の匂いが充満していた。
薄暗い小屋の中には大勢の人々がひしめき合い、到着しない定期馬車への不満を口々に漏らしている。
「いったいどれだけ待たせる気だ。私たちには大祭の開会式に参列するという、神聖で重要な使命があるのだぞ」
豪奢な巡礼服に身を包んだ貴族の使いが、苛立ちを隠そうともせずに大声で喚き散らしている。
しかしエリシアは彼らの大声に惑わされることなく、静かで鋭い視線で小屋の隅々までを観察した。
巡礼客たちは怒ってはいるものの、その手回り品はひどく上等で、ただ退屈と苛立ちを持て余しているだけだ。命や生活を脅かされるような切迫感は微塵も感じられない。
さらに奥へと視線を巡らせる。小屋の冷たい風が吹き込む一番端の暗がりに、大声で文句を言うこともなく、ただ震えながらじっと身を寄せ合っている数人の村人たちがいた。
彼らの足元には、空っぽの粗末な背負い籠が力なく転がっている。
エリシアは迷わず彼らのもとへ歩み寄り、膝を折って視線を合わせた。
「王立苦情処理局から参りました。皆さんはここで何を待っているのですか」
みすぼらしい服を着た中年の男が、藁にまみれた手を震わせながらゆっくりと口を開いた。
「隣町の診療所へ運ばれるはずの、薬草と医療器具の便を待っているんです。もう三日も届かなくて、村で熱を出して寝込んでいる子供たちが……」
その声はひどく掠れ、深い絶望と疲労に満ちていた。
エリシアはすぐさま立ち上がり、待合小屋の裏手にある運行管理所へと足を踏み入れた。
積載を待つ大小の荷物が山のように積まれており、管理人の男が分厚い帳簿と睨み合っていた。
エリシアは身分証を提示し、ここ数週間の馬車の運行記録と積荷の目録を一つずつ丁寧に照合する。
「馬車自体は規定の便数がきちんと運行されていますね。遅延しているわけではありません」
エリシアの容赦のない指摘に、管理人はぎくりと肩を揺らした。
「ですが積荷の目録と実際の搬入記録が大きく食い違っています。教会の祭具や巡礼客の手荷物ばかりが不自然に優先され、診療所向けの薬草や村の生活物資が意図的に次便以降へ回されている」
それは明確な規定違反であり、優先順位の恣意的な操作に他ならなかった。
管理人は額に汗を浮かべながらも、分厚い帳簿を叩いてもっともらしい反論を始めた。
「規定違反と言われても、これは当然の現場判断です。今は十年に一度の大祭の時期ですよ。信仰に関わる神聖な荷を最優先にするのは当たり前じゃないですか」
「医療物資を三日も滞留させる権限は、一介の管理人であるあなたにはありません」
「そりゃあ薬が大事なのは分かりますよ!でも教会の祭具を少しでも遅らせて大祭に穴でも開けたら、うちは教会支部から契約を即座に切られて完全に潰れちまうんだ。第一区の偉い司祭様も、神事を何より最優先にしろと厳しくおっしゃっていました」
管理人の焦りに満ちた声には、私腹を肥やそうとする悪党の響きはなかった。
ただ強大な教会という絶対的な権威と、「神事」という誰も逆らえない大義名分に完全に飲み込まれているのだ。
目先の保身から物事の優先順位を見失い、目の前の命を天秤にかけていることへの罪悪感すら麻痺してしまっている。
エリシアは微かに汚れた純白の手袋の指先を静かに揃え、冷たく澄んだ声で真っ直ぐに告げた。
「信仰が人の心を救うことはあるでしょう。ですがその大義を盾にして、熱に苦しむ子供の命を救うための薬草を後回しにしてよいという規定は、この王国のどこにも存在しません」
管理人はその絶対的な正論に口を尖らせたが、具体的な反論は見つけられずに視線を泳がせた。
「この積荷の操作は明確な規定違反です。運行責任者であるあなたと、指示を出した教会支部の双方について、正式な調査報告を局へ上げます」
エリシアは相手の感情に一歩も踏み込むことなく、事実だけを記録用紙に淡々と書き留めていく。
王都の執務室に戻ったエリシアは、持ち帰った証拠の書類をユリウスのデスクに静かに提出した。
「遅延の原因は天候や事故ではありませんでした。教会の神事を絶対の大義名分として、医療物資よりも巡礼の荷を優先するという、意図的な優先順位の歪みが原因です」
ユリウスは報告書を一瞥し、書類の端を指先で軽く叩いた。
「大義を盾にした厄介な案件を引き当てたな。相手が教会となれば、ただの報告や形式的な是正勧告では済まんぞ。輸送業者と教会支部を交えて、積荷の優先順位を根本から整理し直す必要がある」
「はい。そのための現場の証拠と証言はすでに固めてあります」
「だろうな。証拠の数字に一切の抜けがないよう、さらにきっちりと論理を詰めておけ。ここからが本当の本番だ」
エリシアは自分の傷だらけのデスクに戻り、静かに椅子に腰を下ろした。
今回の事案には、これまでのような分かりやすい悪意が見当たらなかった。
あるのは、誰も逆らえぬ顔をした優先順位だけだった。
彼女はインクの染みがついた手袋で古びたペンを握り直し、次なる教会との厳しい交渉へ向けた詳細な報告書の作成に取り掛かる。
静まり返った重苦しい空気の執務室の中で、カリカリという硬いペンの音だけがいつまでも響き続けていた。
ふと脳裏に浮かんだのは、待合小屋の暗がりで震えていた村人たちの顔だ。薬草の便が確保されたことを彼らに伝えたとき、彼らは安堵するよりもむしろ一層身を縮め、おそるおそるエリシアを見上げていた。
薬草の便が確保されたと告げても、村人たちは安堵するより先に身を縮めた。
エリシアはその視線だけを胸に持ち帰った。




