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初めての激怒

 そして17年の歳月が静かに流れた。

 義父の死後、妻である由紀子を社長の座に据えて、専務として妻を支えている修一が昼食から帰って来ると、

「専務、私じゃないです。私は何もしていません。信じてください」

 秘書の中山洋子が涙を浮かべながら入ってきた。

「ど、どうしたの…… 」修一は慌てた。

「私は何もしていません」

「ちょっと、何があったの、冷静に話してくれないか」


 実は、昨日、専務である修一のパスワードでログインした誰かが、メールで顧客情報をある個人あてに送ったらしく、専務以外に、専務のパスワードを知っている者は秘書しかいないということで、疑われた彼女は自宅謹慎を命じられたのであった。

 

 話を聞いた修一は、人事課長から社長の命令であることを聞かされ、社長室に急いだ。

「どういうことなのっ、彼女が疑われているのっ! 何か証拠でもあるの」彼の突然の剣幕に

「だって、あなたじゃないのなら、彼女が疑われても仕方ないでしょ」つい由紀子も言葉を返してしまった。

「私のパスワードは、君だって、君の秘書だって知っているだろ」いつもならすぐに折れる修一が突っ込んで来る。

「彼女は絶対に違うわ」

「君の秘書は疑われないのに、私の秘書は疑われるのかっ……!」

「どうしたのよ、いったい…… はっきりするまで休ませただけじゃないの」彼女が顔をしかめると

「何を言っているんだ、犯人扱いじゃないか、それに私には一言の相談もなく、自宅謹慎ってどういうことだよ」

 かつて見たことが無い修一に、社長であり、妻である由紀子は驚いた。

 これまで夫である修一が、こんなに激怒したことはなかった。


 社内の重要な案件も、いつの間にか、先代の片腕であった常務と、企画担当の息子を加え、社長である自分の3人で意思統一を図ったうえで進めるようになっていた。

 修一もそのことに不満を持っていたわけではない。先代の社長が亡くなった後、妻を社長の座に祭り上げたのは彼である。義息子が成長するまでの形だけの社長なんだから、自分はそばで支えてやればいい、常務もいるし、何ら問題はない、彼はそんな風に考えていたから、屋台骨である常務が了承した方針であれば、自分がその場にいる必要はないと思っていた。

 事実、先代の社長が亡くなった後も、会社は何の問題もなくここまでやって来ていた。

 ただ、企業としての会社が何の問題もなく運営されてきたことと、修一の私人としての生活は全く異なっていた。


 かつて17年前、結婚を考えていた彩花に去られ、少し先が見えなくなった中で、亡くなった義父と無二の親友であった御門商事の社長から懸命に説かれ、修一は由紀子との婚姻を承諾し、矢田の家に入った。義父は人として尊敬に値する人であったし、義息子も自分になついてくれ、妻となった由紀子の心遣いは痛いほど伝わって来た。

 そんな家庭の中で、修一はいい夫を演じ、いい父親を演じてきたが、二人の間に子供は授からず、義父の死以後も、会社が順調で、義息子も既に24歳になり、何ら課題がないことを確信すると、彼は自分の人生に疑問を持ち始めていた。

企業のために子持ちの女性と結ばれ、それなりの立場を与えられ、自分が意を唱えなければ社長の座に就くこともできた。

 結婚以来、自分の所得はすべて自分の思うように使わせてもらい、家計には1円たりとも入れたことはない。実の両親と暮らす兄夫婦の家には、常に由紀子が気を遣い、兄夫婦からお礼の電話が再々入っていた。

 しかし、そんな誰もが羨むような環境にありながらも、修一の心が満たされることは決してなかった。彼は矢田の家で、皆から気を遣われ生活していても、そこはどこか堅苦しく、彼が羽を伸ばせる場所ではなかった。ギャンブルはしない、女遊びもしないし酒も飲まない、そんな彼の生活は何かが狂っていた。考えてみれば、結婚して以来、腹を抱えて笑うようなことは一度もなかった。家族でともにテレビを見て、泣いたり笑ったりするようなことも決してなかった。

( このまま、ここにいて何するんだ、俺が望んでいたものは何だったんだ、40歳を過ぎたら脱サラして、お好み焼きの店をやろうと思っていたんだった…… )

 ふと、そんなことを思い出してしまうと、彼は、もっと生きている実感が欲しいと切望するようになっていった。

 

 この事件は、そんな中で起きたことであっただけに、修一の思いは爆発寸前のところまで来てしまった。

「自宅謹慎にさせたのではなくて、はっきりするまで休んで欲しかっただけなのよ」懸命に言い訳する妻をしり目に、修一は振り向きもしないで部屋を後にしたが、それでも、秘書の中山洋子の立場だけは何とかしてやらなければならない、彼はそう思っていた。

 専務室に戻った修一が

「私は、君がそんなことをする人じゃないことは良く分かっている。私のパスワードが使われたのが故意か偶然なのか、故意だとすれば、狙われたのは私なのか、君なのか、私が責任をもって調査してみるから…… 君はどうしたい? 出社してここにこもっていてもいいし、しばらく休んでもいいし…… ただ、謹慎処分と言う言葉が独り歩きしているから、どちらにしても嫌な思いをするかもしれない」中山に向き合うと

「休みます。専務が信じて下さるのなら休みます」彼女が俯いた。

「そうか、その方がいいかもしれないね、でも、絶対に犯人は見つけるから、その時には君に頭を下げさせるから……」


 修一は総務課にあるIT戦略室の担当者を呼ぼうかと思ったが、そこの室長が、妻由紀子のいとこの息子であることを思い出した彼は、総務課長を呼びつけ、

「今回のことについては、外部の専門家に調査させるので全面的に協力するように」と伝えたのだが、

「はい、でも既に社長の指示で動いていますので」と総務課長が答えると

「そうか、わかった。私の話は忘れてください」

 彼は安心してそう答えた。


 しかし、5日待っても妻からは何の連絡もないため再び総務課長を呼びつけ

「あの件は?」と彼が尋ねると

「申し訳ないです。あの二日後に社長に報告させていただいたのですが……」総務課長が目を伏せた。

「いま、ちょっと気まずくてね、あまり話はしていないんだ」修一が苦笑いすると

「そ、そうでしたか…… ただ社長からは口外しないようにと言われているので…… 本当に申しわけないです」

 総務課長が頭を下げたが

「ちょっと待ってくれませんか、私は秘書を疑われているんですよ。このままだと妻とけんかになってしまいますよ」修一の語気が珍しく強い。

「……」

「総務課長、あなたから聞いたとは言いませんよ。私の立場も理解していただけませんか。私は外から来た人間です。だから社長の座にも座らなかった。会社が順調であればそれでいいと思っています。でも、私の秘書は、何の証拠もないのに自宅謹慎を命じられたんですよ。絶対にこんな理不尽があってはいけない」

 総務課長にとっては初めて見る修一であった。

「わ、わかりました。申し訳ないです。うちの戦略室の日高が犯人でした。本当に申しわけないです。課長である私の責任です。本当に申しわけないです」たまらず総務課長が口を割ると

「そ、そうか、わかりました。決して情報源は漏らしませんので……」

 

 修一は唖然とした。

(犯人が遠縁にあたる日高だから、黙っているのか…… 少なくても3日前にはわかっていたんだろう…… 日高の処分をどうするのかは別にしても、とりあえず自宅謹慎させた中山さんに対しては謝罪してもらわないと…… )

 社長室に入った修一が、

「私のパスワードを使った犯人はわかったの?」と尋ねると

「それがどうも調べようがないのよ」由紀子は初めて嘘をついた。

 それが初めての嘘だったのか、今までの嘘に気が付いていないだけなのか、修一にはわからなかったが、それでもこの明白な嘘は、彼を愕然とさせてしまった。

「そうなのか…… じゃあ、永遠に闇の中ってこと?」

「そうなってしまうかもしれない…… 」妻が眉をひそめる。

「そうなの…… じゃあ、中山洋子さんはどうなるの? 」

「うん、どこか、いいところを紹介して、身が立つようにするから…… 」妻はありきたりの回答をしてしまった。


( もう、ここまでか…… )

 修一の中で何かがプツンと音を立てて切れてしまった。


 退室すると、すぐに帰宅した彼は、荷物をまとめ、由紀子の部屋に1枚の書置きと、離婚届の用紙、そして携帯をおいて家を出た。


『 長い間、お世話になりました。

犯人が分からないという君の言葉に愕然としました。

総務課長に問いただしても『 口外できない』という返事しか帰って来なかったので、犯人は日高だろうと推測し、彼に電話を入れると、涙ながらに詫びを入れられました。身内の恥を表に出したくないのはわかります。でも、罪を犯してもいない中山さんの名誉はどうなるのですか?

 決して、こんな理不尽が許されるはずがない。日高の処分に口を出すつもりはありませんが、中山さんには謝罪するとともに、その名誉を回復してあげてください。それがかなわない場合、私は中山さんサイドに立ち、御社と徹底的に戦うこととなります。

 

 ただ家を出るのは、このことがきっかけにはなりましたが、決して原因ではありません。

 会社も順調で、裕也君も立派に成長している中で、もう私の存在意義はないのだろうと思い始めていました。

 そんな時、自分の人生を本気で考えてみたくなりました。残り少ない人生を、矢田の家のためではなくて自分のために生きてみたいと思ったのです。

 わがままをお許しください。

                                     修一』




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