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ここまでかもしれない

 それでも彩花は22歳の誕生日、修一に祝ってもらって幸せの絶頂に在ったが、その翌日、思いもよらないうわさ話に心が乱れた。


「ねえねえ、知っている? 営業の野木さん、矢田コーーポレーションへ出向の話があるのよ」秘書室の松岡好子が給湯室で出くわした総務の有信裕子に話しかけた。

「聞いた、聞いた、でもすごいね、一人娘との縁談が前提なんでしょ、一緒になれば次期社長でしょ」有信が応えると

「あそこの社長に気に入られているらしいわよ」松岡が眉をひそめた。

「そうなの?」

「でもね、野木さん、渋っているらしいよ」松岡が不気味な笑みを浮かべる。

「ええっ、どうして……? あっ、あの派遣の()かっ!」

「そう…… 高卒よ、しかも派遣のくせに、同期会にも来るらしいわよ」松岡が憎々しく語り掛ける。

「厚かましいねー、信じらんない」

「野木さんも人がいいから、別れられないらしいよ」

「ふーん、だけど、どうしてあの野木さんが、あんなしょんべん臭いのと一緒に居るのかわかんないよね、会社の7不思議よ」

「まっ、子猫みたいに、『ごろにゃーん』って寄って来られると、男は弱いのよ。でも気が付いた時には身動きとれなくされてしまってさー」松岡が楽しそうに話す。

「あの高卒の派遣、なーんか、抜け目なさそうだもんね…… 」

「……」

「私も、『ごろにゃーん』って、やってみようかしら……」有信が微笑むと

「止めときなさいよ、男だっていつまでもばかじゃないんだから……」松岡が顔をしかめた。

「だけどさ、あの派遣の娘、自分が野木さんの足を引っ張っているのに、気が付かないのかしら……」

「わかってるわよ、そんなことどうでもいいんでしょ、必死よ、野木さんと結婚すれば勝ちだって思っているのよ、だから絶対に手を離さないわよ、以前にもいたでしょ、『子供ができた』って嘘まで言って大騒ぎした女がいたじゃない、あれはあれで、最後は惨めだったよね」こんな話をする松岡は活き活きしていた。

「あった、あった、大騒ぎしたことがあったね、あの男も、結局、辞めてしまったけど、なんか、人が良くて野木さんみたいだったよね」

「なんとなく似ているね」松岡が鼻で笑う。

「でもさ、あの娘に教えてあげた方がいいんじゃないの?」

「何を教えるのよ」

「だって野木さんが本気なわけないでしょ、やはり出世していくためには、役員の娘といい関係になるとか、今回みたいに関連会社の娘とくっつくとか、なーんかないと駄目でしょ、『高卒の派遣じゃ、足を引っ張るだけよ』って…… 」

「嫌よ、そのうちに気づくよ、この前、経理の真央、野木さんに誘われたって言ってたから、野木さんもそろそろ、別れるつもりじゃないの? 」真央の言うことはあてにならないと思っていたが、松岡は他人事だけに面白く話した。

「でもさ、あの娘だったら、涙ボロボロこぼして、『捨てないで』って縋りつきそうじゃない、そうなったら優しい野木さんは捨てることができず、ずるずると行ってしまって、結局、最後は修羅場だね」有信もなぜか楽しそうだった。

「まっ、そうなる前に、派遣を切るように言っておくよ」

「そうだね…… あっ、だけど好子、あなた、最初の頃、野木さんがいいって言ってたでしょ」

ふと昔を思い出した有信が意地悪く尋ねると

「うん…… 」

 彼女は入社二年目の同期会で、彼を誘ったがあっさりと断られてしまったことを思い出していた。


「確か、2年目の同期会で誘われたのよ、だけど、なんか軽くてね、断ったら、飛び出していったわよ」松岡は話をすり替えてしまった。

「へえー、そうなの…… でもね、あの派遣と付き合い始めたのは、その頃よ」

「そうなのよ、だから余計に嫌なのよ」

「なるほどね、こっちが駄目ならあっちでってことか…… まあ、派遣だし、すぐに口説けるって思ったんでしょうね」


 しばらく立ち止まって、給湯室から聞こえてくるこんな会話に、耳を傾けていた彩花は動揺した。

 進学する大学まで決まっていた彼女は、父親が仕事に失敗してしまったため進学を諦め、学生生活をおう歌することなく社会人となってしまった。そのため、野木修一が初めての男性であった。

優しい大人の男性に導かれ、ただ愛され、彼女は幸せの絶頂にあった。

 自分が男性のために何かをしなければならないことがあるなど、考えたこともなかった。妻になれば夫の出世のために役に立たなければならない、そんな世界があるなど考えたこともなかった彼女は、一瞬のうちに全てが崩れ落ちてしまうような感覚に陥ってしまった。


 その夜、修一のマンションで夕食の準備をしながら

「ねえ、出向の話があるの?」彩花が初めて探りを入れた。

「えっ、よく知っているね」修一は話すべきかどうか、一瞬躊躇した。


「受けないこともできるの?」

「うん、できると思うけど、ただ将来は厳しくなるかな」彼の微笑には、出世できないかもしれないけど、それでもいいかな? そんな思いが込められていた。


「どうして受けないの?」

「うん…… いろいろあってね、」

「だけど、別の会社に行ったら新しい恋が待っているかもしれないよ」

「えっ、何だよ、それ」修一は気にも留めていなかったが、打ち消してくれなかったことで彩花の不安がますます大きくなってしまった。


「今週末、静岡に帰って来るね、お祖母ちゃんがちょっと体調が悪くて……」

「そうなの…… お祖母ちゃんいくつだっけ?」

「74歳かな…… 」

「そうか…… 気を付けてね」修一はついて行ってやりたいと思ったが、土曜日の夜、矢田の社長に食事に誘われていて、話すと不安にさせてしまいそうでそのことは口にはしなかった。

「うん」彩花は、もしかしたら一緒に行ってくれるかもしれないと思っていただけに、視線を避けた修一に心が動揺した。


 そして金曜日の夜、静岡に帰った彩花は、そのまま東京には帰って来なかった。


 一方、連絡が取れなくなって慌てた修一は、人事課に実家の住所を訪ねたが、派遣であるため詳細情報はなく、同じ課の者にも訪ねたが、実家の住所まで知っている者はなく、彼は悶悶とした日々を過ごした。

 そして、1週間が過ぎると、派遣会社から彩花が辞職したとの連絡が会社にあったことを聞いた修一は慌てて派遣会社に問い合わせをしたが、彩花の住所は東京の現住所になっていて出身地に静岡とあるだけで実家の住所はやはりわからなかった。

 慌てて彩花のアパートを訪ねてみたが、そこも引き払われていて、修一は何の手がかりもないまま呆然とした。

 実家は祖母が、静岡市の郊外で農業をやっていることしか聞かされていなかった修一は、なんの手がかりもつかめず不安が募るばかりだった。


 そんな修一に、営業に席を置く同じ年の中村が

「野木、わかってやったら…… 」と話しかけた。

「何をわかるんだよ」

「こんなことは言いたくないけど、お前は大学院まで出ているけど、彼女は高卒だよ。6歳と言う年の差もあるし、学歴が大きく違うと話も合わなかったんじゃないのか…… いくらお前が大事にしていても、どうにもならないものがあると思うよ。」

「そんな感じはなかったはずだ…… 」

「以前にさ、俺と奈々が食事していて、お前たちが店に入って来て、一緒に食事したことがあっただろ」

「ああ、覚えているよ、」

「あの時、確か、大学の話になってさ、その時の彩花ちゃん、なんかさみしそうだったよ。笑って話を聞いていたけど、一人だけ別の空間にいるみたいな感じでさ、俺がすぐに話を変えたけど、お前はそんなことに気づいていたの? 」

「……」

「はっきり言って、あれは歳の差じゃなくて…… 」

「そりゃ、そんなことがあったのかもしれないけど…… いつもの笑顔は本物だったはずなんだ」

 修一は懸命に自分に言い聞かせようとしていたが、この押し付けられた現実はどうすることもできなかった。


 そして1ヶ月後、矢田コーポレーションへの出向を受け入れた彼は、半年後、矢田由紀子と結ばれ、矢田の家に入った。


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