44 王手への道筋
44 王手への道筋
春。
雪解けによってぬかるんだ地面が、バシャリと跳ねる。
跳ねた泥でズボンが汚れるのも気にせず――というか気にしてもいられず、ケンジは森の中を走る。
そんな彼を追走するように、木々の合間から巨大な影が窺えたのだ。
瘴気の影響で大きく歪んだ幹や枝を物ともしないような、いっそ何かの影響で物理的接触が全くなくなってしまったのではないかと疑ってしまうほどの疾走。
巨大な体躯に似つかわしくない、その俊敏な動きに、ケンジはついに追いつかれそうになる。
獲物を射程圏内に収めた巨影は、その尻尾を振るった。
『シャアアア!』
「うおっ!?」
その尻尾が鳴く。
普通、尻尾と言うのは鳴くことはないはずだが、この尻尾は鳴くのだ。
何故ならば、この尻尾には巨大な頭がついている。
爬虫類のような鱗、細い瞳孔を有した丸い瞳、それは既に蛇尾といって良いだろう。
蛇の頭はとても大きく、その高さはケンジの胸ほどまである。口を開けばケンジの身長を軽々越えるほどあるだろう。
そんな蛇尾は思い切り大顎を開き、牙を剥いてケンジを丸呑みにしようと襲い掛かってきたのである。
「クソがッ!」
そのまま飲み込まれるわけにもいかないケンジは、剣を横薙ぎに振るう。
剣閃は蛇尾を捉えることはなかったが、その突進を防ぐことは出来た。
強襲を失敗した蛇尾は、そのまま巨影の元へと帰っていく。
「ヒットアンドアウェイが上手いね、全く」
巨影の様子をうかがいつつ、ケンジはさらに森を先へ進む。
ここは既に瘴気の森。
山の中腹部分を越え、斜面もそろそろ急すぎる物が増えるような場所である。
この辺り一帯は山の中でもかなり深い位置にある。当然、瘴気に浸かっている時間も長い。
その影響で森に生えている植物も、動物も、土なんかも瘴気の影響を強く受けて変質してしまっていた。
最早まともな物質などほとんどない異境。なんならこここそが魔物の故郷である魔界であるといっても良いぐらいであった。
そんな中に潜んでいる巨大な魔物。
蛇尾を有するあの魔物は、ケンジがこれまで見た魔物よりもかなり強大であった。
というのも、魔物も瘴気の影響を強く受けているのだ。
コリヌルガルというネームドが生まれたのも、瘴気が影響してのことである。
問題となるのは瘴気の濃度。
元々瘴気はレデニアの中にまで浸透してしまうぐらいに拡散されていた。
だがそれを神字によって追いやれば追いやるほど、瘴気の発生源であるアグリム・ドゥガルの棲み処に近い場所では、瘴気の濃度が濃くなってしまう。
ケンジが頑張って神字を刻めば刻むほど、行き場を失った瘴気が高い濃度で滞留してしまうのだ。
瘴気の濃度は周りの動植物以外にも、生み出される魔物の強度に影響する。濃度が濃ければ濃いほど、強い魔物が生み出されてしまう仕組みだ。
さらには既に産み落とされた魔物をも強化し、この魔境をさらに難易度の高い場所にしてしまっているのだ。
とは言え、神字を刻まねばまともな人間は瘴気の中を進めない。ストライダーだって瘴気の中に長く滞在したなら昏睡してしまうほどなのだ。
いたし方のないことであった。リスクと活動範囲はトレードオフだったのである。
だからこそ、目の前に迫る脅威を前にして意気消沈してもいられない。
それに紫の霞の向こうには、山肌に大穴も見えてきているのだ。
あの穴こそアグリム・ドゥガルの棲む洞窟の入り口。
ここまで来て、奮い立たない方が嘘である。
そんなまだ見ぬ因縁の敵を前にして、ケンジは今も死の淵であった。
木々の合間を縫って襲い掛かってくる蛇尾は、隙あらばケンジを飲み込んでやろうと言う気概に溢れている。
それに加えて、
『アム・ネィラゥ・エムゥトゥ――』
森の奥から聞こえてくる奇妙な声。
それは人の言葉ではなく、何か別の生き物のうめき声にも聞こえた。
だがしかし、それは単なるうめき声ではない。
意味はわからないが、ケンジに対して確かな敵意が向けられているのだ。
そして、その声が聞こえ終わると、森の奥で一瞬、閃光が走る。
そしてケンジの目の前を何かが通り過ぎる。
「うわッ!」
間一髪、ケンジは何かを避けることが出来たが、次の瞬間、付近の地面が一気に盛り上がる。
瞬く間に赤熱した泥は、たまらず弾け飛び、轟音を上げて火柱が吹き上がった。
ケンジの目の前を通ったのは、あのうめき声によって呼び出された熱線であったのだ。
高温のレーザーであったそれはケンジの目の前を通り過ぎ、地面や木々を焼ききって爆発させたのである。
ケンジは爆風に煽られて地面を転がる。
「ぐっ……マジかよ、あんな魔術、見たことないぞ!」
急に自然現象としてあんなことが起こる筈もない。
恐らく、あのうめき声が呪文となり、魔術が発動して熱線が発されたのだ。
「魔術を使う魔物か……厄介だな、くそっ!」
すぐに地面から起き上がり、ケンジは周りを窺う。
爆発によって木々がある程度なぎ倒され、見通しが良くなった一帯。
しかし木々の間に目を凝らして見ても、あの巨影が見当たらない。
「どこへ消えた……」
姿は見えないが、気配は感じる。
今もケンジを狙って、息を潜めているのがわかる。
気を抜けばすぐに殺されてしまう。そんな緊張感が辺りに張り詰めていた。
ケンジが周りに注意を配っている時、
『ナラム・レィ・ショウルィ――』
「またか……ッ!?」
ケンジの背後から聞こえたうめき声。
先ほど、魔術の直前に聞こえた声と同じような音が聞こえ、ケンジはそちらに振り返る。
だが、そこにあったのは、
『シャアア!』
「蛇!?」
蛇尾が大口を開け、またもケンジに襲い掛かってくる。
半分不意打ちを受けたケンジは、その突撃に対して対処が遅れてしまう。
既に牙が目の前に迫っていたのに、ケンジはギリギリで防御するしかなかった。
剣を上顎に突き立て、下顎はどうにか足蹴にして押さえる。
『カアアアアァァァ……』
「ぐっ……」
蛇尾の顎の力はとてつもなく強い。
ケンジを丸呑みにしてもまだ余裕のある巨大な蛇の頭である。相応に高い筋力を持っていてもおかしくはないだろう。
たとえストライダーであったとしても、バケモノの力と拮抗するのがようやっとといったところだった。
しかし、拮抗したままではケンジのほうがジリ貧である。
『ドゥラム・フィロゥ・ナズスム――』
また聞こえてきたうめき声。
それは蛇頭から聞こえてきたものではなかったのである。
声が聞こえてきたのはまた背後。
ケンジが肩越しにそちらを見ると、メキメキと樹が倒れる音も聞こえてきた。
木々を蹴倒して現れたのは、巨大な獅子であった。
その背には巨大な羊の首を背負い、獅子の尻尾は明らかに蛇頭と繋がっている。
呪文を唱えていたのは、背の羊。
『アナラヴムラド・ヴェッソ・オンディ!』
そして、その詠唱が今、終わる。
羊の頭の上に魔法陣が浮き、そこから火柱が吹き上がる。
まるで噴火した火山のように、幾つもの岩を噴出していた。
そして、それらは意思を持っているかのように、ケンジへと降りかかってきたのだ。
「マジかよ……ッ!」
ケンジは今、蛇頭に対処するので手一杯だ。回避などはまず不可能である。同様に、打ち落とすのも無理だろう。
このままでは岩の下敷きになってしまうか、もしくは蛇に飲み込まれてしまう。
だがその時、スッと紫の霧――瘴気が晴れた。
同時に蛇頭がひるんだように力を抜いた。
その隙を見逃さず、ケンジは蛇の顎から逃れ、降り注いでくる岩からも何とか身を躱したのだった。
「間一髪、間に合ったか!」
「大丈夫か、粕谷!」
そこへやって来たのはカミケン。
ケンジとは別行動中に神字を刻んでいたのだ。
先ほど瘴気が晴れたのは、カミケンが神字を刻み終わった証拠である。
『グルルゥアアアア!』
敵が増えたことを察知した獅子は、一つ大きく吼える。
まるで増援など意に介していない様子で、二人を威嚇しているのだ。
「コイツ……瘴気がなくなっても活動できるのか!?」
「コリヌルガルと一緒ってことだな。気は抜けないぞ、粕谷」
「わかってるさ」
それは嫌と言うほど理解している。
ついさっきまで死に掛けていたのだ。カミケンの助勢がなければ、間違いなくあそこで死んでいただろう。
そんな状況で気なんか抜けるはずもない。
『ハスタ・ルム・エドゥイン――』
二人が気を引き締めているところに、またうめき声が聞こえてきた。
羊頭の唱える呪文である。
気分の悪くなるような音に、ケンジは奥歯をかんだ。
「羊頭がまた……カミケン、あの羊は危険だ!」
「なら、先にしとめる! 粕谷、援護を頼む!」
カミケンはファニアを構え、強く地面を蹴った。
狙う先は、獅子の背中で呪文を唱えている羊の首。
しかし、そう易々と自分の一部に近付けさせるわけもなく、獅子はその大木のような前足でカミケンを叩き落そうと振り下ろしてくる。
「地の底におわす炎の主よッ!」
一瞬の合間に、ケンジの声が聞こえる。
それは魔術を行使する際の決まり文句。
「火花を散らせッ!」
ケンジが唯一使える魔術。ちょっとした火花を起こす程度のものであるが、使い方によってはとても有効な手段ともなる。
たとえば、獅子の眼前でその火花をはじけさせれば、一瞬の目くらましになるだろう。
『グォウ!』
案の定、極至近距離で弾けた閃光に、獅子は一瞬ひるむ。
そしてカミケンを狙っていた前足は、大きく狙いを逸らしていた。
だが、それだけでは終わらない。
いつの間にか戻ってきていた蛇尾が、大きく身体をうねらせてカミケンの迎撃に向かっていたのである。
「粕谷!」
「わかってるよ、人使いの荒い……ッ!」
ケンジが次に取り出したのは短めの弓。
狩猟用に改良され、森の中でも取り回しのしやすいような形になっている短弓である。
そこに矢を番え、すぐに狙いを定めて、射る。
言葉を介する魔術よりも早く行動に移せるだけあり、弓はストライダーにとっては有効な遠距離攻撃であった。
放たれた矢は蛇の下顎を貫き、蛇尾は予定よりも大きくうねる。
『シャアアア!!』
痛みにもがいた結果、カミケンの行く手を塞ぐものはなくなったのである。
「食らえぇぇぇ!!」
そして、一閃。
大きく振り抜かれた霊剣の剣筋は、その淡く輝く刀身によって美しく弧を描く。
さらに、コリヌルガルを軽々と両断する切れ味は、全く衰えることもなく、此度も発揮されたのであった。
羊の首の根元を狙った一撃は、見事にそれを切り取ったのである。
『ゲェェェエエエエエ!!』
詠唱の途中であった羊の頭は、断末魔のような声を上げながら、血液を撒き散らして空中を舞う。
『グルルァアアアアア!』
だが、羊の頭を片付けただけでは終わらない。
本体である獅子は健在、蛇尾も未だ元気良くうねっている。
「頭は二つ、俺たちも二人。これで戦力は均等ってくらいかな」
「冗談だろ、ボクなんかあの蛇頭の相手もまともに出来なかったんだぞ?」
獅子の前方と背後に分かれながら、二人はなんとなく軽口を交わす。
それだけケンジのほうにも余裕が出てきたのだ。
とは言っても、単体の戦力で見れば、ケンジは蛇頭と対比しても少し追いつかない程度である。自分の力不足をひしひしと感じてしまう。
「さて、どうするカミケン?」
「なるようになるしかないさ。当然、最後には俺たちが勝つんだが」
「はは、心強いね、その言葉」
カミケンの言葉に背中を押され、ケンジも覚悟を決める。
剣を構えなおし、目の前の巨大な獅子に相対したのだ。
「カミケン、正直ボクじゃコイツに止めをさせる気はしないぞ」
「わかってる。この蛇をどうにかしたら、俺がなんとかする」
「なら安心だ」
ケンジは獅子の注意を誘うように、剣を揺らしてみる。
獅子は低く喉を鳴らしながらケンジを見据え、どうやら隙を窺っているようだ。
蛇尾の方も舌をチロチロと出してカミケンを睨みつけている。
羊頭を切り飛ばしたことにより、獅子も注意を深めてしまったということか。
こうなるとこちらとしても相手の隙を突くのは難しい。
下手に前に出てカウンターを食らってしまえば、どうなってしまうかわかったものではない。
何せ、獅子の顔だけでもケンジの身長を軽々越えているのだ。さらに足の高さ、胴の高さを含めれば、三階建てぐらいの建物の上から見下ろされているも同然だ。
そんな巨大な獅子の前足は、本当に巨木の幹のように太い。ケンジが軽く撫でられただけでも全身粉砕骨折してしまいそうである。
となればここは、全力で時間稼ぎだ。
「地の底におわす炎の主よッ!」
大体の方針が決まったところで、ケンジが口走ったのは魔術の決まり文句。
彼が唯一使える魔法で、また目くらましでもしてやろうかと思ったのだが、
『グアゥ!』
先手を打って獅子が踏み込んでくる。
たった一歩、こちらに歩み寄っただけで突風が吹いたかのような圧力がケンジを襲う。
さらに、既に振り上げられた前足からは、とんでもないプレッシャーが放たれていた。
アレを受ければ、死ぬ。
本能がそう叫び、ケンジは弾かれたように地面を蹴った。
直後、ケンジがついさっきまで立っていた場所に獅子の前足がスタンプされる。
それはぬかるんだ地面を大きくえぐり、その破壊力を何よりも雄弁に語っていた。
あのままケンジが直立していたなら、ぺしゃんこにされていただろう。
「恐ろしい猫パンチだな、おい!」
背筋が凍りそうになるのを耐えながら、ケンジは周りのマナを操る。
「火花を散らせッ!」
魔術が発動し、獅子の目の前でまた火花が弾ける……はずだったのだが。
それよりも早く獅子は首を振ってそれを回避していた。
目くらましは全く効果をなさず、その上で獅子はさらに踏み込んできている。
「ちっ、反応が早すぎるだろ……ッ!」
振り上げられた左前足は、ケンジに狙いをつけて振りかぶられている。
爪を剥いたその前足。かすっただけで身体がずたずたに引き裂かれそうである。
それを食らうわけにはいかないケンジは、またも後ろへ飛びずさる。
だが、次は同じようにはいかない。
「畜生だって学習するんだ、人間様だって対応するさ!」
次に取り出したのは弓。
すばやく番えた矢を、獅子の顔面に向けて放つ。
空中で狙いのつけづらい中ではあったが、それは真っ直ぐに獅子の眉間に飛んだ。
これは多少なりとダメージを与えたと思ったのだが、獅子が少し首を振るだけで、矢は毛皮を通らずに弾き返されてしまった。
さらに、獅子はその大口を開けて、空中で身動きの取れないケンジに襲い掛かってきた。
「ま、まずい……!」
空中では身動きの取れないケンジ。このままでは獅子の顎に噛み砕かれてしまう。
……と思ったのだが、あらぬ方向からぶつかってきた何かに、勢い良く吹き飛ばされた。
「ぐぇ……!?」
ケンジは『それ』に吹き飛ばされ、獅子は唐突に現れた『それ』を顎にくわえる。
地面を転がったケンジは、立ち上がる前に『それ』の正体を見た。
「あ、あれは……蛇の頭!?」
獅子が加えていたのは、巨大な蛇の頭。つまり、カミケンが立ち合っていた蛇尾である。
それが首から切断され、大きく吹き飛ばされてケンジと入れ替わったのであった。
つまり、
「これで、おしまいだ!」
獅子が振り返るのも待たずに、カミケンの剣が閃く。
それは正確に獅子の首筋を捉え、大きく切り込みを入れた。
『グブゥ……!?』
獅子は蛇の頭と共に大量の血を吐き出し、少しの間、もがき苦しんだ後に動かなくなった。
敵が活動をとめたのを確認した後、カミケンもケンジも安心したように息を抜いて武器を収めた。
「な、なんとかなったな」
「俺の言ったとおりだ。最終的には俺たちが勝った」
「ボク的にはギリギリだったけどね」
脱力して倒れていたケンジは、差し出されたカミケンの手を取ってようやく起き上がる。
「服がドロドロだ」
「それもまた、勝利の証さ」
「……そうかもね」
これだけ頑張って、ようやくもぎ取った勝利。
そして、獅子に勝利したこと以上に、大きな一歩を踏み出したことも事実。
「これでようやく、アグリム・ドゥガルの棲み処を射程圏内に収めた」
この場からでも山の斜面に空いた大穴が見えた。
あそこから噴出している紫色の煙こそが瘴気、そしてあの奥にいるのが邪竜アグリム・ドゥガルである。
ケンジがこの世界に来て一年。
ようやく宿敵を間近に感じられる場所まで来た。
TIPS
翻訳されない言葉
今回登場した魔物のうち、羊首が喋っていた言葉はケンジの耳に翻訳されずに届いていた。
これは羊首の使っていた言葉が『魔界の言葉』であったからである。
現在、ケンジは異世界における現代共通語(レデニアを含む国やその周辺で多く使われている言語)と古代語(これもまたレデニア付近で古代に使われていた言語)を理解することが出来るが、それ以外の言葉は変な言葉にしか聞こえない。
羊首が使っていた魔術は異世界におけるポピュラーなものではなく、魔界で使われている魔界の魔術である。それに使われる言語は当然のように魔界の言語である。
これはエストから渡されたブレイヴによって翻訳されず、ケンジの耳にも意味不明な言葉として届いていたのである。
エストも魔界で使われている言語についての知識はなく、羊首が呪文でなんと言っていたのか、筆者も特に考えていない。




