38 名前を与えられると言うこと
38 名前を与えられると言うこと
町の外壁を出た北側にはほとんど誰も住んでいない。
狩人が仮住まいの小屋を建てているほかには、建物らしい建物もないし、人の手はほとんど入っていないのだ。
ゆえに、こちら側は雪深く、降り積もった雪がそのまま残っている。
少し足を踏み入れれば、雪の中に足が沈み、向こう脛くらいまでは埋もれてしまう。
日中の暖かさで幾分解けたとしてもこの積雪量。
町人が殺害された事件が起きてから数日が経過し、その間に雪も降った。
「静かだな……」
雪深い森の中で一人、ケンジが呟く。
全ての音が雪に吸収されているかのような静けさ。
今日は風もなく、太陽の光も柔らかく降りてきている。
そんな中で白い息を煙らし、ケンジは毛皮のマントに包まれながら森の中を睨む。
「そろそろか」
交代制で北の森を見張っているレデニアの自警団に混じり、ケンジも警戒に当たっていた。
今回、ケンジの担当となったのは坑道付近の広場。
森の中と比べれば木の数が著しく少なく、以前使用していた頃の名残で建物らしきものの残骸が幾つか残っている。
以前はこの周辺に集落が作られ、坑夫などが生活していたのだ。
その場所には今、神字が刻まれ、瘴気を退ける結界の礎となっている。
そんな広場の真ん中で、ケンジはようやく立ち上がった。
南側からは数人、交代の自警団が近づいてきている。
ケンジの仕事は一旦、ここで終わる。
――はずであった。
****
交代の自警団員を待っている間に、広場の北側から遠吠えが聞こえてくる。
狼のような四足獣は、森の中にも生息している。それは狩人から確認済みだ。
だが、広場よりも北側は瘴気の充満する場所が程近い。
もしかしたら件の魔物が現れた可能性もある。
「下がって!」
近づいてきていた自警団員に対して、ケンジが注意を呼びかける。
その上、剣を抜き放ち、周囲に視線を配った。
遠吠えは北側から聞こえた。だが、正確な位置まではわからない。
しかも件の魔物は瘴気の外でも活動できる可能性がある。それを考えれば、どこから飛び出てきてもおかしくはない。
(遠吠えっぽく聞こえた、って事は犬や狼的なヤツか……!?)
さらに、今の遠吠えが仲間への合図だったとしたら、複数で襲い掛かってくる可能性もある。
ケンジ一人では対応しきれないかもしれない。そんな中で自警団の連中が傍にいては、被害が大きくなる可能性もある。
ここは自警団員を遠ざけるべきだ。
「他の自警団員に連絡を! ここはボクが――」
『余所見はいかんなぁ』
ケンジのすぐ背後から声。
背筋が凍りつくほどの殺気が向けられているのに、今、気付いた。
それとほぼ同時に、その場から飛びのく。
風を切る音が、頭のすぐ傍を通り過ぎていた。
あのままじっとしていたなら、今頃頭部を抉られていただろう。
「くっ……!?」
『よぉく躱した。すぐに終わっちまったら、楽しくないものなぁ』
ケンジは回避に成功し、地面を転がった後、すぐに声の方向に向かって立ち上がる。
剣を構えた先にいたのは、ケンジの身の丈を軽々超えるような体躯を持ち合わせる、毛むくじゃらの大男であった。
しかも、その頭部は狼のような形をしており、さながら狼男と言ったところであろうか。
「お前……魔物だな!」
『その通り。俺様は魔物だ。だが、お察しの通り、マナの中でも活動できる特別な存在よぉ。この意味がわかるか、ストライダー』
「……ボクのことを知っているのか!?」
『お前こそ、俺を覚えてないのかよ?』
狼男に問いかけられて、ケンジは頭をひねる。
こんなヤツに見覚えはない。
『そうか、そうだろうなぁ。俺様は強く、恰好良く変貌を遂げてしまった。お前が気付かないのも無理はない』
「……何を言っているんだ」
『気付けよぉ。俺は、あの時、テメェに見逃された、あの魔物だって事によぉ!』
あの時、見逃された。
狼男は確かにそう言った。
ケンジが見逃した魔物について思い当たるのは、ケンジが初めて魔物と対峙した時のことだ。
レデニアの中にまで瘴気が侵入してきた時、攫われたマリナを助けるために森の中へと入った。
初陣でいっぱいいっぱいだったケンジは、あの時出会った魔物を見逃した。
あの魔物は、コボルドであった。
「あの時のコボルド!? いや、でも……」
気付いた様子のケンジに対して、狼男はにやりと口を曲げる。
『戸惑うのも無理はねぇ。あの頃の俺と今の俺では似ても似つかないほど強くなりすぎてしまった。今の俺は、あの頃の俺ではない』
「どういう意味だ……」
確かに、目の前の狼男はあの頃のコボルドと一緒くたにするには無理がある。
完全な別物であると言われれば、そちらの方が納得できるだろう。
だが、ケンジがコボルドを見逃したと言う事実を知っているのは、コボルド当人かその傍にいたゴブリン、もしくはケンジ本人と辛うじてマリナがありえるぐらいであろう。
この狼男がそれを知っているということは、恐らくあのコボルド本人。
しかし、姿形が変わっただけで、アレだけの大言壮語は吐けまい。
『俺様の名は、コリヌルガル。アグリム・ドゥガル様より名前を賜ったのだ。畏敬を込めて呼ぶが良い、ストライダー』
「……名前? 以前は名前がなかったのか」
『魔物には個体を識別する名前はない。だが、それをあえて名づけると言うのには、相応の意味があるんだよ』
「たかが名前を貰っただけで偉くなれるなら、ずいぶんと簡単なんだな」
『クハッ! テメェ、ストライダーのクセにネームドの恐ろしさを知らねぇんだな』
ケンジの態度に、コリヌルガルと名乗った狼男は大声を上げて笑い始める。
『ハッハッハ! ストライダーともあろうものが浅学とは、お前を頼っている町の人間も恥ずかしかろうな!』
「名前を貰っただけで浮かれてるお前の方が、よっぽど滑稽だよ」
『カカッ、良いぜぇ。だったら、テメェの身で味わいな。ネームドの恐ろしさをッ!』
コリヌルガルが吼えると同時、地面で小爆発が起きたように錯覚した。
積もっていた雪が大きく巻き上げられ、白い煙と化して眼前を覆う。
その雪塵を割り、瞬く間に肉薄してきたのが毛むくじゃらの大男、コリヌルガルであった。
「……ッ!?」
その速さたるや、ケンジがこれまでに見たどんな獣よりも、どんな魔物よりも速い。
最早比べ物にならないぐらいの動きを見せたコリヌルガルは、その巨大な右腕を振り回し、ケンジに襲い掛かってきた。
ガツン、と重たい音がする。
ケンジがようやく、といった体で防御に使った剣と、コリヌルガルの爪が打ち合わさり、小さな火花が散る。
その頼りない燐光が冷めるのも待たずに、次の一撃がケンジへと襲い掛かってきた。
コリヌルガルの足がケンジの腹を捉える。
「がっ……!?」
『遅ぇな、オイ!』
ケンジの身体は軽々と浮き上がり、意識が途切れかかる。
ストライダーとして、見かけ以上の耐久力を持っているはずだったのだが、それでもこの重たい一撃を受けて、ケンジもまともではいられなかった。
さらに、間髪をいれずにもう一撃。
背中を叩き折るかのように、まるでハンマーが振り下ろされたかのような衝撃が襲い掛かる。
しかし、それはハンマーなどではなく、コリヌルガルの両手だ。
諸手を合わせ、それを勢い良く振り下ろす。たったそれだけで鉄を思わせるほどの硬度であった。そんなものを全力で叩きつけられて、まだ身体がバラバラになっていないのは、ケンジがストライダーであるからだ。
まともな人間が食らって良いものではない。
「ぐぉ……ッ」
地面に叩きつけられ、身体全体に雪がまとわりつく。
呼吸がしづらくなったのは、顔を雪にうずめたからか、それともコリヌルガルの攻撃が強烈過ぎた所為か。
それを判断している暇もなく、ケンジは地面を転がる。
次の瞬間、地面を叩き割るかのような足踏みが、ケンジのいた場所に降りかかってきていた。
『ケッ、逃したかよ』
コリヌルガルから距離を取り、すぐさま起き上がるケンジ。
口の中に溜まった血を吐き出し、剣を構えなおす。
「冗談だろ……マジで強くなってるじゃないか」
『まだ余裕そうじゃねぇかよ、ストライダー様。そりゃ情けない姿は見せられないよなぁ、後ろに町の人間を背負ってればよぉ』
今の攻防を見て、呆気に取られていたのは、交代をするはずだった自警団の面々。
彼らにとってはコリヌルガルの踏み込みによって巻き上げられた雪が、また地面に降り積もる間に起きた、刹那の出来事であっただろう。
ゆえに、急に血を吐き出したストライダーを見て、動揺する。
「ど、どうなってるんだ」
「ストライダーが……やられている!?」
「た、助けを呼ばなくては!」
そう言って自警団の連中はすぐに踵を返してしまう。
それは本来、ケンジとしても望んだ展開であった。
だが、コリヌルガルの強さを体感した今、むしろ悪手に思えてしまう。
『カカッ、雑魚は逃げたが、どうする、ストライダー?』
「……どうするもこうするも、お前を倒すことに変わりはない」
『そうでなければなぁ……ッ!』
コリヌルガルが舌なめずりをするのを見て、ケンジは気合を入れなおす。
気を抜いていてはすぐに殺されてしまうだろう。
普通の人間ではまず相手にならない。どれだけ束になっても、物の数ではあるまい。
だからこそ、先ほど自警団が援軍を呼びに帰ったのは悪手なのだ。
もし援軍が来ても、それは死体を積み重ねるだけになる。
ここはケンジ一人の方が、まだマシな状況なのだ。
『早くしなくちゃ、あいつらが仲間を連れて戻ってくるぞ? 俺はそれでも構わんがなぁ?』
ケンジの状況を知りつつ、コリヌルガルは楽しそうに笑う。
いつまでも時間をかけてはいられなくなった。
次に仕掛けたのはケンジ。
悠々と待っているコリヌルガルに向けて、鋭い踏み込みを見せる。
さらに、間合いに収めると同時に、剣を横薙ぎに振るう。
それはコリヌルガルの胴体を真っ二つにするほど、気合の乗った一撃。
ケンジの中でも会心である、と思えるほどの一振りであった。
だが、
『さっきも言わなかったか、遅ぇってな」
剣は空を斬った。
既にその場にいなかったコリヌルガルは、あくびでもするかのように、悠々と頭の後ろで手を組んでいた。
『お前、まさかとは思うが、この期に及んで手を抜いてるわけじゃねぇよな?』
「ボクの最終目標は、お前の親玉であるアグリム・ドゥガルの討伐だぞ? こんなところで全力を出すわけがないじゃないか」
嘘だ。
今の一撃はケンジの人生で、最大最高の一撃であった。
アレが簡単に避けられるのならば、最早ケンジに勝機は――
「……まだ、手はある」
確かに、まだ手はある。
ケンジの体内に蓄積されたマナを消費し、一時的に身体能力を劇的に向上させる手法。
マナによるブーストで、コリヌルガルの身のこなしについていくことは、恐らく可能であろう。
いや、そうまでしてなお、勝てるかどうかはわからない。
それほどまでに、コリヌルガルは強い。
ネームドなんて、単に名前をつけられただけだろう、と侮っていたが、目の前の魔物が調子に乗る理由も頷ける気がしてきた。
それを考えると、ふっと気が抜けた。
今までの緊張が解け、心がゆっくりと楽になる。
「確かに驚いたよ。ネームドってのは半端じゃない」
『今さら怖気づいたって遅いぜ。テメェは今、この場で殺すって決めてるんだ』
「そりゃ恐ろしい。……後学のために教えてくれよ。お前みたいなネームドってのは、他にもいるのか?」
『バカいうんじゃねーよ! ネームドはそんな安い冠じゃねぇのさ! 俺様のように類稀なる才能を持ち合わせる魔物しか、名を冠することは出来ない!』
ネームドは数少ない希少種だ。コリヌルガルの言うように、類稀なる才能を持って初めて名づけられるのだろう。恐らくはマナの中でも活動できると言う特異体質も、ネームドによって受けた恩恵なのだ。
何せ、コリヌルガルは名前を持つ前、ケンジと初めて出会った時にはマナの中で苦しんでいた。つまり、あの時はそんな特殊能力は持っていなかったのだ。
とすれば、マナの中で動ける魔物はそう多くはない。
「はは、それを聞いて安心したよ。これで心置きなく――」
欲しい情報は引き出せた。
ならばこの場にとどまる必要はない。
「――全力で逃げられるッ!」
ケンジはコリヌルガルに背を向け、全力ダッシュを始めた。これは体内のマナを消費しての、文字通り『全力』である。
コリヌルガルのようなマナの中で活動できる魔物が少ないとなれば、恐らくはコリヌルガルのほかに数体いれば良いほうだろう。
しかも、察するにコリヌルガルでもレデニアに到達するほど、長い時間マナの中で活動は出来ないのだ。
何故ならば、ヤツは存在がバレてからこの数日、レデニアに襲撃を仕掛けていない。
それは故意に行っていなかったのではなく、不可能だったからだろう。
出来るのならばとっくにレデニアに襲撃を仕掛けていただろうし、狩人を殺して自分の存在を明かすような真似はしなかったはずだ。
不意打ちで襲撃したなら、恐らくケンジはどうすることも出来ずに負けていただろう。
狩人を殺したのは、レデニアに警戒を促し、ケンジを誘い出すためだ。
まんまとコリヌルガルの策に乗せられたレデニアの面々は、瘴気の満ちる森のギリギリラインに警戒網を敷き、ケンジもそれに駆りだされた。
コリヌルガルはそのケンジに復讐しようと、この機会を待っていたのである。
ならば、この場は退く。
今現在のケンジではコリヌルガルに対して、良くて勝率五割の状態である。
そんな状態で賭けをするよりも、一旦退いてコリヌルガルを倒せるぐらいに訓練し、強化し、ブレイヴを手に入れてからリベンジする方が賢い。
命は一つしかないのだ。こんなところで死んでしまってはレデニアを救うなんて不可能なのである。
ここは命を繋ぐために、勇気の撤退を選択すべきなのだ。
幸い、さっきの自警団員が逃げてからそれほど時間も経っていない。
今のケンジならば彼らに追いつくのも簡単だ。そこで援軍ではなく、撤退を呼びかければ、ある程度時間が稼げるはず。
『言ってなかったか。お前は、この場で、殺す』
コリヌルガルの声が、とても恐ろしく、身体の芯から凍てつかせるように響いた。
そしてそれは、ケンジの足を蝕んだかのように影響する。
ガクリ、と膝から力が抜け、ケンジはその場に手を突いてしまった。
雪の中に突っ込んだ手が、だんだんと冷えていくのがわかった。
「な、なんだと……!?」
毒か何かかと思った。
いつの間にか毒を盛られ、身体の自由が利かなくなったのだと。
いや、それは違う。
毒ならそこら中に蔓延していたのだ。
ケンジの目がおかしくなったのでなければ、目の前が紫色に煙っている。
これは、瘴気である。
「そんな、バカな……ッ! ここは、神字の影響下のはずだ……ッ!」
『テメェはバカのようだから教えておいてやるよ。ネームドの力が、単にマナの中で活動できるだけだと思ったか? 甘いんだよ』
瘴気と気付かずに吸い込んでいたケンジの身体は、最早言うことを聞かない。
立ち上がろうとしても、視界が揺らぎ、頭痛が激しくなるばかりだ。
間違いなく、この場に瘴気が充満している。
これまで認識できなかったのは、その密度が薄かったから。そして戦闘に集中しすぎていたからだ。
さらに、その集中力ゆえ、呼吸はいつもどおり行っていた。なんなら戦闘の緊張のためか、呼吸の回数は平時よりも多かったと言えよう。
その結果、身体の中に大量の瘴気が入り込み、現在の症状を引き起こしているのである。
だが、何故。
神字の結界が張られているこちら側に、瘴気が入り込むはずはない。
『察せよ、小僧。テメェの刻んだ神字とやらは、この俺様が消してやったんだ』
「なっ……!?」
ありえない、とは言えない。
今までありえないと思っていた『マナの中で活動する魔物』が目の前に存在しているのだ。
だとしたなら、神字を消す魔物が存在しない、などと、どうして言えるだろうか。
『さっき、テメェは面白いことを言っていたな。後学がどうとか……』
ボフっとコリヌルガルが踏み出す音が聞こえた。
こちらに、近づいてきている。
『勘違いするなよ、小僧。テメェに『後』なんてモンはねぇんだ』
すぐ傍まで迫っている。
声を聞いて、ケンジはコリヌルガルのほうを振り返った。
大男が、こちらを見下ろしている。
『あの時とは、立場が逆転したな、ストライダー』
コリヌルガルと初めて対峙した時、確かにあの時はケンジがコリヌルガルを見下ろしていた。
絶対的な優位に立ち、勝利を確信し、そしてあの時はコリヌルガルを見逃した。
その時の後悔が、今になって押し寄せてきている。
「あ……あ、あぁ……」
『これで終わりだ。消えな、俺の人生の汚点』
コリヌルガルの振り上げた腕、そしてその先にむき出しになっている爪が鈍く光る。
身体の自由が利かないケンジでは、あの一撃を避けるのはまず無理だろう。
ここで死ぬ。
そう思った。
振り上げられた腕は、ケンジの身体の中心を目掛けて振り下ろされる。
そのシーンがやたらスローに見えてしまう。
ケンジの脳裏にはこれまで生きてきた全ての出来事が、フラッシュバックとなって殺到してくる。
いわゆる走馬灯だ。
死の間際に見られる光景のほとんどは、現世で起こった嫌な出来事ばかり。
その中に、あの男の姿を見て、
「諦めるな、粕谷ッ!」
声まで聞こえてくる。
大嫌いだった、あの男の声が。




