37 何かの潜む冬の森へ
37 何かの潜む冬の森へ
そもそも、どうして魔物は瘴気の中でしか存在できないのか。
それは魔物にとって瘴気が、人間にとっての酸素にも似たものであるからである。
魔物は呼吸をする際に瘴気を取り込むことによって生命活動を維持しているようである。
ケンジが魔物の近くで瘴気を浄化した際、魔物が苦しそうにもがいたり、咳き込んだりしていたのはそういうことだ。
では逆に、どうして人間は瘴気の中でもある程度の活動ができるのか。
瘴気は人間にとっては毒であるが、少し程度の摂取ならば即死に至らない。薄い瘴気をちょっと吸った程度ならば少し気分が悪くなる程度で済む。
これは乱暴な言い方をすれば『我慢できるから』である。
人間でも瘴気の中に長時間滞在していれば、最悪死に至る。短時間であれば活動できるとは言っても運が悪ければ体調を崩し、病に伏せることもある。
そのリスクを背負う覚悟があるのなら、瘴気の中でも活動が出来るわけだ。火傷をするリスクを負って火の上を歩くのと大して変わらない。それはある意味で我慢といっても良いだろう。
魔物の場合も、瘴気のない場所で即死に至るわけではない。これは我慢の程度の問題であると言えるだろう。
つまり、魔物も我慢が出来れば瘴気のない場所でも活動できる。
とりわけ、力の強い魔物になればその我慢出来る時間も長くなるだろう。
もしかしたら、瘴気の存在している山の中から坑道へ向かう道の途中までやってくる事もあるかもしれない。
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「一番最初のことを考えれば、その可能性には早めに行き当たりました」
「最初のこと?」
「アグリム・ドゥガルですよ」
狩人を弔い、一行は庁舎に戻ってきていた。
市長室にやってきたグラナルは、ケンジにお茶を出しながらそんなことを呟く。
「あの邪竜は、元々魔界から瘴気のないこちらの世界へやってきたのです。あれほど強大な存在ともなれば、瘴気の少ない場所でもしばらくは活動できるのでしょう」
いくらアグリム・ドゥガルが瘴気を無限に生み出す竜だとは言え、竜が現れた時点ではほとんど瘴気のない状態であったはずだ。
そんな中でもしばらく生存できていたのは、アグリム・ドゥガルが強力な魔物である証拠でもあった。
「グラナルさんは、瘴気のない場所でも活動できる魔物を見たことがあるんですか?」
「この目には見たことはありません。ですが、いつかそういう存在が現れるのでは、とは思っていました。実際にそんな事態に出くわすとは……」
それはグラナルの中でも実現して欲しくない予想だったのだろう。
もし、瘴気の外でも活動できる魔物が現れたりしたなら、神字で守っているこの町も完璧に安全とは言いがたいのだから。
「とにかく、ボクらも対策を採りましょう」
「と、言いますと?」
「相手の行動範囲がどの程度広がっているかわからない以上、瘴気に覆われていない部分も全域が危険域になります。レデニアの人たちには、しばらく町の北側へ近づかないように指示してください」
「それはそうでしょうな。すぐにも指示しましょう」
「それと、自警団に臨時の哨戒部隊を編成して、警戒網を張りましょう。その際、敵を発見しても交戦は避けるように徹底します」
「その後は、どうするんですかな?」
「可能な限り、ボクだけで対処します」
ケンジの言葉に、グラナルは目を丸くした。
「い、いや、ケンジさん、それは流石に……」
「相手は瘴気のない場所でも活動できる、強力な魔物である可能性が高いでしょう。そんなよくわからない魔物に、自警団の人たちをぶつけて被害が出たりしたらストライダーの名折れですから。ここは最大戦力であるボクが単騎で対処した方が良いと思います」
その意見の意味もわからなくはない。
確かに超強い魔物に対して、流石に小兵と言わざるを得ない自警団の連中をぶつけても焼け石に水、戦車に豆鉄砲で挑むようなものだ。
相手には何の傷も与えられず、こちらの損害ばかりが増える可能性のほうが高いだろう。
だが、それにしたってレデニアの最大戦力であるストライダーたるケンジを、単騎で事に当たらせると言うのも相当リスクが高い。
ケンジはレデニア再生の要である。そんな人物を失ったならば、またレデニアは窮地に立たされるだろう。
出来ればケンジを前面に押し出しつつ、自警団をサポートにつけた万全の状態であるのが望ましいところだ。
「ボクもサポートがあれば心強いですけどね。……でもレデニアの戦力も限られています。敵がどこから現れるのかわからないので、手広く警戒するには広く分散するのが得策です」
「それはわかっておりますが……」
「大丈夫ですよ、グラナルさん。ボクだって引き際は弁えているつもりです。……それに」
「それに?」
「いえ、なんでもありません」
ケンジの脳裏に、レデニアの地下で見た男の姿がちらつく。
アレがケンジの想像通りの人物だとしたら、きっと何の問題もない。
****
急遽訪れた町の危機に、市民も少しざわめく。
それもそのはず、今、レデニアに住んでいる人間のほとんどは、瘴気を退けた後にやってきた人間ばかりである。
魔物の恐ろしさと言うのは実感していないものの、だからこそ不安定な恐怖がある。
「大丈夫なのかしら? 魔物ってどんなものなの?」
「獣とはまた違うって話だけど……」
「自警団やストライダーが守ってくれるんじゃないのか?」
「今までどおりの生活はできるんだろうな!?」
町の中では市民が口々に不安を漏らしている。
この不安が不満に変わり、為政者に向かないうちに何とか事態を鎮めなければなるまい。
「アンタ、大丈夫なの?」
「うん?」
家で準備を整えていたケンジに、マリナがそんなことを聞く。
「意外だな。心配してくれてるの?」
「……アンタはこないだから、危なっかしいのよ」
「どういう意味さ?」
「地下に潜った時、あのマントの男と会ってから、ずっとおかしい」
マリナに痛いところを指摘され、ケンジは自嘲気味に笑う。
確かに、あの男に会ってから、ケンジの気分は下がりっぱなしである。
「あの男、知り合いなの?」
「どうかな。確証は持てない」
「アンタのこと、『カスヤ』って呼んでた。アレはなに?」
「……そうか。やっぱりマリナは知らないよな。……って言うか、多分ほとんどの人が知らないんだ」
「私にわかるように話して」
「粕谷ってのは、ボクの苗字さ」
考えてみれば、こちらの世界に来てからケンジは苗字を名乗ったことがなかった。
レデニアでは苗字を持っている人間はおらず、市長のグラナルですら家名を持たない。
その所為で誰も気にしていなかったのだろうし、ケンジもそれがありがたかった。
何せ、その苗字はケンジのコンプレックスの一端だったのだから。
「アンタ、苗字を持ってたのね。でも、それをどうしてあの男が……?」
「さて、どうしてだと思う?」
「アンタは察してるの?」
「……まぁ、大体はね」
こちらの世界に来て名乗ったことのない苗字を知っている人物など、思い当たる節としてはそう多くはない。
加えて言うなら、あの男の身体能力は超人そのものであった。
ならば――
「心配ないよ、マリナ。きっとボクがどうにかなっても、レデニアは安泰だ」
諦めたような口ぶり。
その冷め切った声には、乾いた笑いが乗っかっていた。
言外に『自分なんかもうどうでも良い』とでも言いたそうな雰囲気すら感じられる。
それにカチンと来たマリナは、乱暴にケンジの胸倉を掴んだ。
「ケンジッ!!」
「うわッ!」
今まで無意識的にケンジが合わせようとしなかった視線が、バッチリかち合う。
しかもかなりの至近距離だ。
改めて見る綺麗な顔立ちに、ケンジは一瞬息を呑む。
しかし、その眉間のしわの深さ、睨みを利かせる瞳の鋭さに、すぐ我に戻った。
マリナは怒った表情をしながら、努めて冷静に声を出す。
「……アンタ、なんか勘違いしてない?」
「勘違い?」
「私がいつ、レデニアの心配をしたのよ」
そう言われてケンジは首をかしげる。
町の風潮が自分たちの生活の心配をしているものだから、マリナも当然そうだろう、と思ってしまっていたのだろうか。
言われてみれば、マリナはレデニアがどうの、と言う話はしていない。
「私は、アンタの心配をしてやってんのよ」
「……ッ!」
それはどれだけありがたい言葉だっただろうか。
言葉面はぶっきらぼうであったが、マリナの優しさがその裏に透けているようでもあった。
その思いやりが、ケンジの中へと染み渡り、荒んだ心に潤いが戻ってくる。
「……ありがとう、マリナ」
「ふん、礼を言われるような事じゃないわ」
ケンジの言葉を聞いて、マリナはようやく彼の胸倉から、突き飛ばすようにして手を離す。
照れ隠しなのだろうか、そっぽを向いてしまった。
「ボクは、きっと帰ってくるよ」
「当然よ。アンタにはストライダーとして、まだまだやることが残ってるんだから」
乱暴な言葉は、いつものマリナのようであったが、その耳が少し赤らんでいるのを見て、ケンジはどうにも笑いがこらえきれなかった。




