第15話 ジェーン・ウォーレン ②
月もない夜だった。昼間には澄み渡っていた空には雲がかかっているようで、灰色に濁ったその合間からは星がひとつふたつ、頼りなさそうな輝きを落としている。
詰め所を抜け出した私の顔の前に、吐く息が白く凝った。深い夜の底にあって、空気は凍るように冷たい。腰から提げた軍用水筒の中身を軽く揺すって確かめると、私は足音を立てないようにそっと歩き出した。この時間に外で警戒に当たっているのは14人。交代の時間はもう少し先だ。位置だけは食後にタイラーから聞いて頭に叩き込んである。巡回している数人以外は、きちんと所定の位置にいるようだった。
見張り台はひとつだけだ。恐らく資材が足りないのだろう。様々な端材を苦心して組み上げたとおぼしき見張り台の、ぎしぎしと軋む梯子を登っていく。
「お、もう交代か?」
梯子を登った私が顔を出すと、歩哨に立っていた男はそう言って腕時計を覗き込んだ。少し怪訝そうな表情になる。
「ん、あれ交代にはまだちと早いぜ」
「ジェーン」
男の後ろからタイラーが顔を出した。私は少し顔を緩ませて、タイラーに向かって小さく手を振る。それを見た男はなにかを察したように肩を竦めた。
「んじゃ、有難く代わってもらうかな。無理すんなよ、ジェーン」
そう言って軽く私の肩を叩いたそいつが梯子を降りていくと、見張り台には私とタイラーだけが残された。投光器の光に照らされて、二人分の息が狭い空間に白くわだかまる。
「……はは。寒いだろ」
「そうだね」
見張り台から見降ろす荒野と私の顔を交互に眺めて、タイラーはちいさく首を竦めた。私は軽く微笑んで、「いいものがあるよ」と言ってから水筒の蓋を開ける。湯気と共に立ち上る香りに、タイラーの鼻がうさぎのそれのようにひくひくと動いた。
「コーヒーか。こいつぁ有難いや」
顔にほのかな喜色を浮かべて、タイラーは水筒を受け取った。湯気の暖かさを確かめるようにそれを覗き込んでから、ゆっくりと口をつける。──むせた。
「ぐっは! クッソ誰だこれ淹れたの、もう残りも少ないのにバカみてぇに濃くしやがって」
「……ごめん、私」
……やらかした。詰め所に置かれていたポットが空だったのでインスタントと湯を適当に混ぜ合わせたのだが、どうやら粉が多すぎたらしい。少し申し訳なさそうに謝罪を口にすると、タイラーは慌てたように取り繕った。
「ああ、いや、うん。いいんだ。夜中だもんな。これくらい濃くないと眠くなっちゃうよな」
「そ、そうだね」
挙動不審なタイラーにつられてどもってしまったせいで、私たちの間には気まずい沈黙が降りた。私は少しだけいたたまれない気持ちになって、タイラーの見ている方向と逆方向に双眼鏡を向ける。奇妙に明るい緑色の視界の奥で、小さな生き物がちょろりと動くのが見えた。そのまましばらく黙って、お互いに反対側の地平を眺める。
「ジェーン」
ややあって、背中のほうからタイラーの声がした。私は振り向かず、黙って尾をぱたりと動かす。
一度息を吸って、吐き出す音。躊躇うようにもう一度深く息を吸い込んでから、タイラーは言葉を紡ぐ。
「帰ってきてくれて、よかった」
「……うん」
ジェーン・ウォーレンに向けられたその言葉を、私は受け入れた。双眼鏡から目を離して、ゆっくりと振り返る。
タイラーの目は逆側の地平線ではなく、私を見ていた。ブーツを履いた足が、一歩踏み出す。狭い見張り台の上では、一歩踏み出せば距離は触れられるほどに近くなった。
交わる視線が熱を孕む。タイラーの淡いブラウンの光彩は、宵闇の中では丹念に磨かれた古い木材のような色をしていた。その上に睫毛が濃い影を落として、情感を帯びた瞳と一緒に近づいてきた荒れた唇がついばむようなキスを落とす。濃いめのコーヒーの香りが鼻をかすめた。
一瞬触れるだけのそれが離れて、私とタイラーの視線だけが絡み合う。投光器の逆光で濃い陰影を描くタイラーの唇が、小さく動いた。
「……何も言わないのか」
「何か言って欲しいの」
「いや──言わなくていい」
グローブに包まれた両手が私の頬を包んで、再び口付けが落ちてくる。今度は触れるような軽いものではなく、深く、深く。腕を伸ばして、ぎゅっとタイラーの首を掻き抱いた。頭の奥が甘く痺れて、腰が砕けそうな感覚が襲う。艷やかに切なげな水音がしばらく響いて――それから口の中に鉄錆の味が雪崩れ込んだ。
私を突き動かしたのは、ほとんど恐怖に近い感情だった。やるなら今しかなかった。これ以上進んだら、もう引き返せない予感がしたのだ。
「ジェー……ン、どう、して」
よろめいたタイラーの身体が、私の身体から離れて膝をついた。見開いた目が私を見たまま、かつてのプロワリアと同じ言葉を吐く。背中から肺と心臓を私の尾でひとまとめに貫かれたタイラーの口からごぼりと大量の血が溢れ出して、顎を伝って継ぎ接ぎだらけの床にぼとぼとと滴った。
勢いよく尾を引き抜けば、ただの肉の塊と化したタイラーの身体はどさりと湿った音を立ててくずおれる。血でぬめる唇には、そのタイラーの体温がまだ残っている気がした。鉄錆とコーヒーの匂いが混ざり合って、ひどく気分が悪い。私は針無し注射器を取り出すと、首筋に当てがった。無機質なマテリアルはひやりと冷たい。
ぷしゅ、と高圧ガスが薬剤を押し出す音が連れてくる酩酊感は相変わらずひどく気持ちが良くて、深い口付けに砕けそうになっていた身体の感覚にどこか似ていた。




