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嘘と約束だけは永遠に消えない。
「小僧よ、本当にあのユキヒトとかいうやつが心を病んでいると思っているのなら、どうして本人に、信じているなんて嘘をついたのだ。意味の無いことを口にしたのではないか?」
シエヴィアの肩の上で不服そうに足踏みをしながら、マニが小声で文句を言う。あまり堂々と話してしまっては、時折近くを走り抜けていく子供たちにバレてしまうからだろう。
「ま、病気だろうね。なんでなったのかは分からないし興味もないけど……でも、信じてないと表明しながらユキヒトに向き合っては、思ってることなんて話さないだろう? それに……」
「それに?」
突然言葉を切ったルフトは、道の先に目を向けた。一旦、泊めてもらう予定の家に戻って、初めに声をかけてきた村の女性に事の次第を説明するつもりだった。
舗装もされていない道の両側には、十分な間隔を空けて家が立っている。村の周囲が遮る物のない大地だからだろう、桜の森の村と違って余裕があった。
そのひとつから、少女が顔を出す。
彼女の視線の先には細い木があって、その木陰に蹲るようにしてユキヒトが座っていた。
木陰からは、遠目に彼の自宅を捉えることが出来た。ルフトたちが出てくるところもきっと見ていたのだろう。
しかしユキヒトは、近付いてくる少女を食い入るように見つめている。少女はふらふらと彼に向かっていく。
桜の森で出会ったへレイに似て、この少女も驚くほど痩せ細っていた。剥き出しの手足は骨が浮き出ていて、脂肪も筋肉も極限まで削ぎ落とされている。
足を引きずるような歩き方で、腹を守るように身体を傾けながら移動する姿は、彼女が何らかの病を患っていることを窺わせた。
「……病人と病人の邂逅、って感じかな」
笑いながら呟くルフトに、まだアイテルが病気だと確定した訳では無いぞと嘴を挟む。
一方イルファは、落ち着かない右手で外套を握りしめた。
この距離なら、倒れた時に操術で支えてあげることは難しいだろうか。今にもバランスを崩しそうな少女を固唾を呑んで見守っている。
少女が木に手をついて、ユキヒトを見下ろした。
奇妙な空気が二人の間に流れている。
イルファの立っている場所からは少女の表情を窺うことが出来ない。
「……アイテル、まだあんた演技してるの」
でも、苦しそうなその声は辛うじて聞き取ることが出来る。
「もうやめなよ。あたしの事避けるために、訳わかんないこと言ってんでしょ……最低。ねぇ、あんた最低よ」
「な、何のこと」
「ユキヒト、だっけ?ヘンな名前でっち上げて何もかも忘れた振りをして、あたしを避けてるんでしょ」
いい加減にしてよアイテル。
そう、少女が泣きそうな声で言うのだ。
「俺はアイテルじゃないって言ってるだろ……どうして分かってくれないんだ」
「分かってくれないのはあんたの方よ。酷いわ……無かったことになんかさせない。約束は絶対、守ってもらうんだから、わたしは」
呻いた少女はバランスを崩して、木に身体を預けるようにして倒れ込んだ。思わずユキヒトが手を伸ばして支える。
「はなして……離してよ! ふ、ふざけんな、ふざけんな! 誰か! 誰か助けてよ……誰か!」
「クレメ、暴れちゃダメだ。落ち着いて。頼むよ……また病気が悪くなってしまう」
ばたばたと大きく腕を振り回して少女が暴れ始める。なんとか押さえようとするが、細い手足に遠慮をしてしまっているのだろうか、ユキヒトはうまく力を加えることが出来ないらしい。
離せ、とまた叫んだ少女の手が木に当たった。
「ああっ、ダメだよ! 君は怪我をしたら血が……! 誰か助けてくれ、クレメが」
ユキヒトが叫ぶ。軽くぶつけただけのように見えたが、少女の手が真っ黒に鬱血しているのを見てルフトが表情を変えた。
「イルファ、あの子を宙に浮かせて。僕は彼女の家の人を呼んでくるから」
「分かった」
返事をするなりルフトが走ってゆく。イルファも駆け寄りながら、右手を素早く少女に伸ばした。激しく暴れ続ける少女の身体がふわりと浮いて、ユキヒトの手から離れてゆく。
近づいてみると、少女の身体のあちこちが赤黒く染まっていた。先程ぶつけた左手は肌色の部分が見えなくらい真っ黒になっているではないか。
「あ、ありがとう……俺じゃ押さえられなくて」
「いえ、大丈夫だけど」
これは一体、なに?
肌の色も何だか変だったし、手や足、首は筋が浮くほど痩せているくせに腹は大きく出ていた。腹部を庇うような歩き方は、この妊婦のような腹のせいだったらしい。
空中でも暴れ続けていた彼女は、自分の身体にぶつけるだけであざを増やしていく。力加減に気をつけながら、イルファはそっと右手に力を込めた。彼女の動きをゆっくりと制限していく。
骨を折らない程度に力を込め続けていると、すぐにルフトが少女の親を連れて走ってきた。
「イルファ、ありがとう。彼女を下ろして」
「いいの?」
「構わないよ。あとは家族に任せよう」
ゆっくりと地面に下ろすと、少女の両親は少女をひょいと抱え、大急ぎで家に入っていった。慣れているのだろう、激しく震え続ける少女をうまく押さえている。
残されたユキヒトはその場に座り込んで、荒くため息をついた。
「……助かりました。魔法じゃなくて操術、だっけ。本当にすごい」
少女が去ったあと、あの異様な騒ぎが脳の中にだけ残留している。何事も無かったかのようにのどかな静寂は訪れていたのに。
ユキヒトは助けてくれた旅人たちを見上げて、やがて諦めたように笑った。不甲斐ない話だろ、と呟く。何がだろう? 少女をひとりで押さえきれなかったことだろうか、それとも。
「……彼女は?」
息を整えたルフトが問う。
「クレメル。見たとおり、あの子は病を抱えている……それも酷い。アイテルと友人だったんだ」
俺は二人を夢で見ていたから知っているよ、と付け足す。
素っ気なく頷いたルフトは、緑の地面に座って項垂れる青年を見下ろし続けていた。
「気になるんだ。そのクレメルって子と、何か約束をしたのかい」
どこか澱んだ目を上げて、アイテルは、ユキヒトは微笑んだ。疲弊した笑みだった。そこにいるのは一人の人間に過ぎないけれど、正しく認識することが出来ない。
感情も含めて、心は色んな側面を持っているのだ。イルファには目の前の青年が誰なのかが分からない。
クレメルと約束を交わしたアイテルという村の青年?
それとも長く病に伏せていて、死にかけた拍子にアイテルとして目覚めた、ユキヒトという青年なのだろうか。
どの立場で笑っている?
「そこまでは俺にも分からない。アイテルの人生のすべてを夢にみていたわけじゃないんだ、どんな約束を交わしたのか……こっちが知りたいくらいだよ」
そう、とルフトは言った。
彼はしばらくの間、少女が消えていった家を見つめていた。惑うように、その視線を不安定にさ迷わせて。
約束を守りたくないから他人のふりをしているのだろうか。他人のふりなら、それは病気のせいなのか、はたまた演技なのか。
まさか本当に別の世界から来たなんて、有りうるのだろうか。
でもルフトが言うのなら病気なのかも知れない。何を信じたらいいのかなんて分からないけれど、イルファが真実を見つけなくても、師匠はいずれ辿り着く。
その結論を、ただ信じている。