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誰が彼を信じるだろう?
丘の向こうで木刀を振るう青年を見つけた時、なんの変哲もない普通の人間だ、とイルファは思った。母親に似たのか、顔立ちは整っているように見える。遠目から見ても彼の動きは卓越していて、風を斬る音がルフト達のところまで鋭く届いていた。
何も無い空間を、アイテルの木刀が力強く、しなやかに切り伏せていく。
剣を振るう人を見たのはイルファにとって二人目で、初めて見たのはもちろんマリウスだ。彼はごつく、大ぶりの剣を軽々と操っていたのだが、その姿は見るものを震わせるような力と迫力を存分に放っていた。
しかし、アイテルからは力を上手く流す巧みな技術を感じる。最も込めるべきところに命を込め、受け流すところはさっと引いて流す。引き締まった肉体が繰り出す敵のない剣技は、周囲を圧倒する芸術だった。
ぴたり、と彼の動きが止まる。僅かに顔を伏せたまま、アイテルの目が丘の上に立つルフト達に向けられた。
「医者ですか」
彼が木刀を下ろす。
「だとしたら無駄ですよ。俺はもう病気じゃない」
見下ろすルフトが、ゆっくりと一歩を踏み出す。
「いいや、僕は医者じゃないんだ」
「じゃあなんだって言うんですか。数え切れないくらいの医者が俺を診た。揃って異常はないと言われた」
イルファはそっと右手に力を込めた。もしアイテルが攻撃してくるようなことがあれば、すぐに動きを止められるように。
「いい加減放っておいてくれ。病人扱いはもう」
「僕は医者じゃない」
「じゃあなんだって言うんですか」
アイテルが身体をこちらに向ける。手にした木刀がゆらゆらと揺れていた。
「俺は……病気じゃない」
ルフトが微笑む。
「僕は魔法使いだ。君の話を聞きに来たんだよ……ユキヒト」
彼の木刀が、落ちた。
地面を覆う柔らかな緑が、それを音もなく受け止める。呆然と立ち尽くす青年は目を大きく開き、ルフトを食い入るように見つめていた。
驚愕し、そして、目からひとすじの涙が零れる。つ、と頬を走ったそれは木刀を追うように地に落ちた。それでも彼は顔を下げずにいる。
「ま、魔法使い……?」
「僕は嘘なんてつかないよ」
「そんな、本当に」
ルフトは微笑みながら首を傾げる。
「医者じゃなくても、君に興味を持っていることは確かなんだ。話を聞きたい……ユキヒトに何があったのか」
そうだ、そうだと彼は繰り返していた。自分はアイテルではなくユキヒトなのだと、全てに確かめるようにして。
「僕はね、君を気が狂った病人と思っていない。ちょっと不思議なことが君に降り掛かったと聞いて気になっただけなんだよ。だから話を聞かせておくれ」
「もし話したら……見せてくれますか」
「何をだい」
「あなたが、普通の人間じゃないことの証」
何も言わず、ルフトは軽く肩をすくめた。それを肯定と受け取った青年は震える口を開くのだ。
「目が覚めた時からずっと、魔法使いが来るのを待っていた。やっぱり、ここは……」
「ここは?」
夢、なんだろう?
泣きながら笑うのだ、くらい目を涙で濡らして。
「そうだ……俺はユキヒトだ。アイテルなんかじゃない。誰が信じなくたって事実なんだ」
「僕もそう思っているよ」
丘を降りたルフト達は、涙を流し続けるユキヒトの前に立った。彼は惑うように目を泳がせ、ルフトの右腕があるべき所に目を止めたあと、ややあって口を開いた。
俺の人生は夢に支配されていたんです、と彼は言った。
人間は眠るし、夢をみる。どんな人だって、覚えていなくたって夢はみているのだ。誰も彼もが知らぬうちに親しんでいる。
自分は特に夢と共に生きてきたのだとユキヒトは言う。その顔は暗く、酷く絶望しているようにも見えた。彼が世に生を受けてからずっと、ベッドに身体を縛り付けられたまま生きてきたからだ。
「俺はいつ死んでも良い人間でした。生まれながらにして病弱だったからです。生きているのは誰かが望んだからだし、いつ死んだって、周囲の人間にその用意は出来ていた」
1日でも長く生きるのよと母親が言う。
その裏で既に喪服を用意している。
早く元気になるのよと毎日のように祈られて息をする。
それでも透けて見えるのだ。心の中で自分が死んだ時のことを何度も想像して、遠からずくる未来に慣れてしまっている。
自分が生きるべきか死ぬべきかも分からぬまま、ただベッドに寝ていることしか出来なかった。結局彼が自由に出来るものなど、この世に一つとして無かったのだ。
信じてくれ、なんて。
「言えたもんじゃなかった。口が裂けても言えなかった。信じてもらえるような自分になるべく動くことすら、俺には許されていなかったんだから。全てに関与することの出来ない俺はずっと夢をみていました。眠る度に、遠い世界の夢を」
そこはユキヒトが住んでいたところとは全く違っていた。息の詰まる景色はそこに無い。どこまでも広がる緑の野と、波打つような丘。
小さくてのどかな村に住むひとりの青年。
「アイテルだ。俺はずっとアイテルを見ていた」
代わり映えのない毎日を淡々と過ごすアイテルの日常を、眠る度にみていた。鏡の向こうに広がる景色のように、手を伸ばしても触れることは出来ない。またしてもユキヒトは何も出来ず、アイテルは自分のことなど感知しない。
寝ても覚めても関与できない、一方的な世界が広がっていることに、何度絶望しただろう。
「俺はアイテルになりたかった。ずっとずっと願っていた。ある日いつものようにベッドの上で死にかけてね、医者が俺の母親に、いつものように今度こそ諦めろと言った。諦めの悪い母親を諭すような言い方だった。馬鹿な話だよ……母さんはもう、言われなくたって心の中で俺の命を終えていたのに」
「それで、君は死んだのかい」
ルフトが問うと、やっとのことですなんて涙の跡が残る笑顔で返す。
「目が覚めたら、夢の中の世界だった。覚えています……俺は鏡の向こうに行ったんだ」
それだけ。
そう締めくくった。イルファは混乱しながら話を聞いていて、およそ真実とは思えないじゃないかと心で呟く。
御伽噺でよくある内容じゃないか、誰も証明することが出来ない奇妙な事象なんて。感知しているのは当事者しかいない。
嘘に限りなく近い物語。
師匠を見上げると、彼はまだ真剣な眼差しをユキヒトに向けている。
ルフトもやっぱり、疑っている?
「ユキヒト……君の言うことを信じているよ。その上で聞かせてくれ、現状をどう思ってる?」
「俺に与えられた本当の人生だと思っているよ。これが始まりなんだ、すべて」
「そう」
それは幸運だ、なんて言う。
それならアイテルはどこに行ってしまったのだろうとイルファは不安に思った。入れ替わってしまったとかいう、単純な話なのか?
いや、違う。
彼は言っていたじゃないか。アイテルとユキヒトの関係は——。
「君はずっとアイテルの夢をみていたんだね? どのくらい覚えていたんだ」
「……夢、と言った通りです。ぼんやりとしていて、目覚めたらもう忘れかけてるくらいで」
「そう。なるほどね」
納得したように深く頷いたルフトを、ユキヒトの暗い目が見つめている。
「俺の話なんてもういいでしょう? あなたが医者じゃなくて魔法使いなら……こんな話、どうでもいい。それよりも見せてください。俺はずっと、あなたを待っていたんだ」
話を聞いている間、ずっと気になっていた。ルフトを待っていたとはどういうことなのだろう?
「どこまでも広がる大地に、見たことのない生き物。それに魔法みたいなものがこの世界にはあるって言うじゃないか。魔王でも英雄でも、魔法使いでも何だっていいんだ、俺の前に現れてくれるのなら」
見せてよ。
「ここが……俺が生きていた世界じゃないことを表す、何よりの証明」
「イルファ」
「うん」
突然名前を呼ばれて、彼女がすっと背筋を伸ばす。意識していないはずなのに右手に力が入ってしまうのは、緊張からか。
金の瞳は輝いていた。澄んだ光が真っ直ぐユキヒトに注がれているのに、彼の形の良い口元は僅かに綻んでいる。
ルフトはこの話をどう理解したのだろうか。何も証明のない荒唐無稽を、魔法だ、なんて言って迎合する姿が目に浮かぶよう。
それでもイルファは任せてねと微笑んで、小指のない右手を持ち上げた。