2.略奪された女
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楽しい話ではありません。
「ごめん、真波。俺、香織が好きになったんだ。だから別れてほしい」
付き合って9年。同棲3年だった私達。2ヶ月前に結納を済ませ、婚約指輪も嵌めている。
そろそろ式場を見に行こうという会話が交わされた矢先の、庸一からの言葉だった。
「子供でもできたの?」
私の言葉に、身を震わせながらも首を横に振った。
そうよね。そんなわけないわよね。
香織さんは彼の会社の後輩。彼が可愛がってたことも知っている。
飲み会に一緒によく行ってたことも。良く贈り物をしていたことも。
私より5歳若く、明るくて可愛い子。
たぶん彼は結婚を前にして考えたのだ。
何かと彼に立てつく私よりも、若くて庇護欲をかきたてられ、地主の跡取りの子を産む嫁とするなら彼女の方が良いと。
勿論、すぐに納得できることじゃなかった。
結納まで済ませていたので、同級生や友達はみんな、私達が結婚すると思っている。同級生同士だから、互いの友人の輪も繋がりがある。
彼に対してあまりのことに混乱してあたしは泣き、親は突然の別れの告白に怒った。
でも、相手方の家族は違った。
「うちの格式には香織さんの方がいい。それに当人達が好きあっているのだし」
と、彼と彼女の後押しをしたのだ。
それまで以上に私の代わりに家族が怒り、
「あんなところに嫁にいかない方がいい」
そう断言し、友人たちも
「結婚したら絶対苦労するよ。あいつ、親の言うことには逆らわないだろうし」
そう言って私を慰めていた。
私はそんな家族と友達の慰めで決断した。
―――彼と、別れることにした。
目の前にある高級時計。
それは彼がずっと欲しがっていたもので、結納品として彼に贈ったもの。
それを慰謝料として返してもらい、私たちは別れた。
婚約指輪と時計を売って、そのお金で連日飲み会という憂さ晴らしをした。それに付き合ってくれた友人がたくさんいてくれたことが心から嬉しかった。
それでも婚約解消の傷は結構深かったらしく、恋愛に臆病になり『公樹』に出会う二年もの間は、異性と付き合うということがどういうものかも思い出したくないくらいだった。
庸一の話は友人たちからちらり、と聞く程度だった。それでも彼の生活は何となく知れた。
彼が結婚したこと。
一年は二人で暮らす楽しさを堪能するために新居を借りたこと。
一年が過ぎて彼の実家に二人が入ったこと。
結婚して二年がたつのに、彼女が妊娠しないこと。
義母と義姉から『子供はまだなの?』と何かと言われていたこと。
彼女が妊娠したこと。
彼女が男の子を出産したこと。
「同窓会?」
「うん。卒業してもうだいぶたったし。ただ、あいつが来るから、真波には直接聞こうと思って」
幹事をすることになったという坂本 丈 からの電話。彼は小学中学高校と同じ学校だった友達だ。丈はあたしを介して庸一と友人となった。丈は庸一よりも私の方が付き合いが長いのだ。
「ごめん。行けない。その同窓会の日は予定日近いの。その代わり、庸一に伝えてくれる?『跡継ぎの誕生、おめでとう』って」
「お前、許せるんだな、あいつを。俺はまだどうかと思うけどな。わかった、伝えるよ。アイツにとって念願の子供だもんな」
丈はそう言って電話を切った。
彼は大学時代から付き合った一つ下の彼女と二年前に結婚した一途な男だ。
その丈は知らない。
私が言った『跡継ぎの誕生、おめでとう』という言葉は庸一にとってプライドを傷つけるだけのものだということを。
庸一は私と付き合ってた間もずっと、女と遊び歩いていた。
でも然程騒動にはならなかった。庸一は必ず私のところに戻ってきていたし、『子供ができた』と押しかける女はいなかったからだ。
それは相手が水商売の女性ばかりだったから、というのもあるけれど、庸一は恐らく子供はできない体なのだ。
彼と同棲を始めたその年の冬、彼は高熱で倒れた。40度の熱を数日間出した。
「病院に行こう」
と何度も説得したけれど、
「高熱で倒れたことがバレて子種がないってからかわれるのは嫌だ」
と駄々をこね…結局市販薬と私の世話で何とか平熱に戻した。『年末年始は二人で旅行に行く』とごまかして、その冬は二人とも実家には帰らなかった。
その後知ったのだけれど、彼の高熱の原因は甥っ子から貰ったと思われるおたふく風邪。やけに病院に行きたくないと抵抗して言っていたのは、睾丸が腫れていたからだったらしい。
そう。彼は十中八九、子種なしの男だ。
同棲中に一度彼から
「もし子供ができなかったらどうする?」
と聞かれたことがある。なんでそんなことを、ということは聞かなかった。恐らくアノコトをふと思い出しての言葉だろう。
「親戚から養子をとればいいじゃない」
私は笑ってそう答えた。その時は本気でそう思っていた。
それなのに、そんな彼と彼女の間に子供ができた。
きっとその子供は彼の子供ではないのだろう。
でも、もしかすると本当に彼の子供かもしれない。ただ、彼がその真実を知ることはないはずだ。
高熱ごときで病院にも行かなかった彼だ。プライドの高い彼は精液検査もDNA鑑定もしないだろう。
だから彼はきっと日々、可愛い子供の顔を見ながら考えるのだ。
この子は本当に自分の子供なのだろうか。いや、自分の子供であるはずだ、いやでも、と。
彼を『許す、許さない』と言われても、私には何を許すのかが今ではわからない。
婚約を破棄されたこと?
そんなの、もうお互い結婚したのだから彼らは『許される』必要はないはずだ。
そして、私も許されないことをしている。
だって私は彼の秘密を知っているのだ。
私だけが知っているその秘密は決して口外しない。そして一人でほくそ笑む。彼ら夫婦を、その家族を嘲るのだ。
なんて私は意地の悪い女なのだろう。
「難しい顔してるけど。同窓会のこと? そんなに行きたかった?」
公樹が心配そうに声を掛けてくれた。
私は笑う。
「ううん。この子が元気で素直な子に育てばいいな、って」
私とは違う、素直な子に。純粋な子に。
だって私は酷い女だから。
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