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強烈な薬品の味が、まだ、鼻腔の奥にこびり付いている。…
どうにも自由にならない身体と精神を、無理矢理ねじ伏せる様にして、私は漸く重い瞼を開けた。…
其処に見えたのは、錆び付いた木造倉庫か、学校の体育館の様な広い天井だった。
割れた窓から、太陽の光が差し込んで来る。
気が付くと、私は、砂埃まみれの床に敷かれた、緑のビニールシートの上に、一人きりで、…ひっくり返っていた。
私、生きている?…
どうやら、辺りには誰も居ないらしい、窮屈な拘束台も、締め付ける革のベルトの跡形も無い。 フラフラ気持ちの悪い頭を抱えながら、私はビニールシートの上に、何とか起き上がる。
身形は、学校に居た時の侭だった。
制服も来ているし、きちんとパンツも穿いている。 体中、何処を見回しても刺青等は見当たらない。 掌を見ると、あの「目玉の様な痣」迄もが、いつの間にか消えて無くなっていた。
悪い夢でも、見ていたのだろうか?
何処までが夢で、何処までが現実に起きた事なのか、…はっきりしない。
でも、誰かが此処まで私を連れてきた事だけは、確かだ。
それで何故だか、理由は分からないが、私は解放されたらしい。
半ば放心状態で、開きっぱなしの玄関を抜け出した其処は、蚊柱のブンブン唸る、真夏の夕暮れの、見知らぬ山村だった。 何処か、廃校になった学校の体育館みたいだ。
私は、草生した荒野の様な校庭を抜けて、錆付いた真っ赤な校門を潜り、
微かに残る人の歩いたらしい跡を辿ると、やがて、夕餉の支度の湯気が立ち昇る、山間の小さな集落が見えてきた。…
田んぼと、ヒトの気配と、どんどん日の落ちて陰って行く真っ暗な砂利道を小走りに走って、…私は、とうとう一軒の大きな農家の土間に、辿り着く。
家の住人が駆けつけて来て、玄関先に倒れ込んだ私を、…介抱してくれた。
どうやら私は、生きている、…らしい。
何度か、同じ様な質問をされて、何度か、パトカーと救急車を乗り継いで、
夜半過ぎに、私は現場から100km近く離れた、見慣れた街の病院のベッドの上に、寝転んでいた。
医師:「特に目立った外傷や、悪戯された痕は見当たりませんでした。 でも、精神的にはとても疲れています。 ご家族のケアが必要です。」
神妙な面持ちで医師の説明を聞く両親の、小さくなった背中を、私はじっと見つめていた。
私は、どうしたんだろう? どうされたんだろう? 一体何があったのだろう?
それとも、今この瞬間がまだ、夢の途中なのだろうか? 私は、憐れにもあの変態中年男の手にかかって殺されて、死に際の妄想の中を彷徨っているのだろうか?
パパが、悔しそうに震えながら、私を抱きしめてくれる。 …ママは、もう随分、泣き腫らしてしわくちゃになったスッピン顔で、一人でブツブツと呪文の様に何かを繰り返し唱えている。
パパ:「楓は覚えていないかも知れないけれど、お前は今から10年位前にも、一度行方不明になった事があるんだ。」
不器用な程にきつく抱きしめるパパの腕の中で、私は、遠い日の欠片を甦らせる。
私は小学生に上がる前に、飼い犬のリクを散歩に行った侭、行方が分からなくなった事があったらしい。 次の日の午後、私が発見されたのは、はるか沖に流された小さなボートの中だった。 どうしてボートになんか乗ったのか、どうして海に流されたのか、今となっては全く覚えていない。
パパ:「もう二度と、お前から目を離さないって、二度とお前を怖い目に遭わせないって、誓ったのに、…ごめんよ、」
私は、暖かなパパの腕の中で、身を縮ませる。
自分が判らなくて、身を縮ませる。 身の回りに起きている事全てに、臨場感が、…足りない。 まるで、出来の悪い小説を、眺めているみたいで、感情移入できない。
なんで、私は、こんな所で、こんな風に、パパに抱きしめられてるのだろう?




