第30話 第三の神奈備には、もう行かない
砂嵐の向こうから、幼い女の子の声が、聞こえてくる。何度も、何度も、繰り返される、たった一つの言葉。
『……こないで』『おねがい。だれも、ここに、こないで』『わたしみたいに、ならないで』。――あの赤い一行を、いちばん最初に言ったのは、団体でも、黒幕でもなかった。
その日は、あしかたの“誕生日”だった。本当の生まれた日なんて、もう誰も知らない。だからみんなで決めた。あの長い夜が明けた日。あの子が初めて朝日を浴びた日を、あしかたの新しい誕生日にしよう、と。
舞の狭いアパートに、七人が集まった。終と蓮。科学と舞。結衣。零。そして主役のあしかた。安物のケーキと、百円ショップの飾りつけ。それでもあしかたは目を輝かせていた。
「ろうそく、ふーって、するんだよね? 知ってる。テレビで見た」「よくできました」終が笑う。老けた顔で。「じゃ、いくぞ。せーの」。小さな火が、ふっと消えて、みんなが拍手をした。あしかたは照れくさそうに笑った。もう、笑い方は上手になっていた。
◇
ケーキを食べ終えた頃。あしかたが、ふと思い出したように言った。「ねえ。ずっと、聞こうと思ってたことがあるの。あの不動産屋さんのクエスト。“第三の神奈備には絶対行くな”って、書いてあったんでしょう? だから、みんな行ったって。……あれ、誰が書いたのかなって」
場の空気が、少しだけ止まった。
「……おれ、実は」科学がコーヒーカップを置いた。「ずっと気になってて。調べてたんだ」。科学があの夜、命がけで退避した、サーバーのデータ。そのいちばん奥に、ひとつ、開けずに残していたフォルダがあった。昨夜、ようやく、開けた。「音声ファイルだった」科学は言った。「団体が、あの装置から“採取”した記録だ。何百年ぶんのノイズの中から、たった一つだけ、人の声が残ってた」
科学は、スマホをテーブルの真ん中に置いた。「……これだ」。再生ボタンを押す。
ざあざあ、という砂嵐みたいなノイズ。その向こうから、かすかに、幼い女の子の声が聞こえてきた。何度も、何度も繰り返される、たった一つの言葉。
『……こないで』
『おねがい。……だれも、ここに、こないで』
『わたしみたいに、ならないで』
『だから、おねがい。……ぜったい、こないで』
あしかたの手から、フォークが落ちた。それは、まぎれもなく、彼女自身の声だった。
◇
「わかったんだ」科学は静かに続けた。「“第三の神奈備には絶対行くな”。あれ、団体が考えた脅し文句じゃなかった。あいつらは、この装置から拾ったこの声を、そのままクエストの看板に使っただけだ。……来るな、と書けば、天邪鬼な人間が来る。そう知っていて。あの子のいちばん必死な祈りを、餌に、変えた」
「じゃあ……」結衣の声が震えた。
「そうだ。あの一行を、いちばん最初に言ったのは。……あしかた、おまえだ」
沈黙が落ちた。誰も、すぐには言葉を継げなかった。
あしかたは、何百年、あの底で、たった一人、囁き続けていた。助けて、じゃなかった。来て、でもなかった。……“来ないで”、だった。自分と同じ地獄に、誰かが囚われることを、何より恐れて。会ったこともない未来の誰かのために。来ないで、と。傷つかないで、と。自分はこんなに苦しいのに。それでもいちばん願ったのは、他人の無事だった。
「……あんた、ほんとに」終が天井を仰いだ。声が掠れる。「ほんとに、そういうやつだよな。最後まで」
その“来ないで”という優しさこそが、何百年、あの子をあの牢に縛りつけていた、いちばん強い鎖だった。誰も来なければ、誰も彼女を助けられない。彼女の優しさが、彼女自身の救いを、遠ざけていた。
「……ごめんなさい」あしかたが、ぽつりと言った。涙をぼろぼろこぼしながら。「わたし、あんなに“来ないで”って言ったのに。……みんな、来てくれた。わたしの言うこと、聞いてくれなくて。ほんとに、ごめんなさい。そして……ありがとう」
「いいんだよ」蓮が眼鏡を押し上げた。ごまかすように。「おれたち、“行くな”って言われると、行きたくなる、めんどくさい連中なんだ。最初から」「そうそう」結衣が笑う。涙声で。「タイトルからして、“絶対行くなっ”だもん。行くに決まってるじゃん」
七人が笑った。泣きながら。
◇
夜。みんなが帰ったあと。あしかたは、窓の外の月を見ていた。水面に無数に映っていた、あの月とは違う。ひとつだけの、静かな、本物の月。
もう、時計は逆に回らない。記憶は削られない。悲しみは独りで抱えなくていい。「……ただいま」あしかたは、誰もいない部屋で、そっと呟いてみた。すぐに、台所から舞の声が返ってくる。「おかえり。お風呂、沸いてるよ」。たったそれだけのやり取り。何百年、彼女がいちばんほしかった、たったそれだけのもの。あしかたは、笑った。もう、誰にも「来ないで」とは言わない。その代わりに、今日は初めて、「ただいま」が言えた。
――第三の神奈備には、もう行かない。行く必要がないからだ。あの子は、もうここにいる。あたたかい灯りの、こちら側に。ちゃんと、みんなの隣に。
◇
同じ夜。遠くの街の、名前も覚えていない雑居ビルの一室で。
長机がひとつ。パイプ椅子が六脚。窓はない。切れかけの蛍光灯が、ちらちら瞬いている。――あの会議室と、寸分違わない部屋に、新しい三組が、ばらばらに座っていた。互いを見ないように。関わりたくない、という一心だけを、みっしり詰めて。全員が、同じ顔をしていた。誰かを失くした人間の顔を。
ドアが開く。「お待たせいたしましたぁ」。間延びした、やけに明るい声。スーツ姿の、歳の読めない女性。あの女は、自首したはずだった。なのに、そこにいた。あるいは、よく似た、別の誰かが。女は、ファイルを開いて、鍵を三つ、机に並べた。黒ずんだ鍵。赤みを帯びた鍵。氷のように白い鍵。そして微笑んで言った。
「……クエストの最後の、赤い字。あれ、気になさらないでくださいねぇ。あの子が、昔からずっと書いているだけですからぁ」
あの子。――器は、空くと、次を、欲しがる。あしかたが背負わなくなった何百年の悲しみは、消えたわけではなかった。ただ行き場を失って、世界をさまよい、新しい器を、探しはじめただけだった。そしてその器は、もう、決まりかけている。
◇
その頃。市原終は、一人、自分の部屋で、ノートを広げていた。失踪者の、聞き込みのメモ。……のはずだった。なのに、気づけば、ペンが、知らない言葉を書いていた。たどたどしい、子どもの字で。見たことのない村の名前。嗅いだことのない線香の匂い。そしてページのいちばん下に、一行。
『こないで』
終は、ペンを止めた。自分の手を、じっと見た。老いた、他人のような手を。胸の奥の、あしかたから偏って流れ込んだ器のあたりが、あたたかく、そして、ほんの少し、重く、疼いている。まるで、そこに、新しい悲しみが、ひとつ、またひとつと、集まりはじめているみたいに。
終は、ふ、と笑った。こわくは、なかった。ただ思った。――もし、いつか、誰かが、おれを探しに来てくれたなら。そのときは、ちゃんと、言ってやろう。来てくれて、ありがとう、と。そしてきっと、その前に、こう書いてしまうのだろう。あの子と、同じように。来ないで、と。おまえは、おれみたいに、ならないで、と。
窓の外で、月が、ひとつ、静かに光っていた。――水面でなければ、月は、ひとつきり。それが、本当の夜の、しるしだった。今夜は、まだ。
(了)
器は、空くと、次を、欲しがる。あしかたが背負わなくなった何百年の悲しみは、消えてなどいなかった。ただ行き場を失って、世界をさまよい、新しい器を、探しはじめただけ。
窓の外で、月が、ひとつ、静かに光る。水面でなければ、月は、ひとつきり。それが、本当の夜のしるし。――今夜は、まだ。
(最終話・了)
長らくのお付き合い、ありがとうございました。この物語は、「来ないで」と願うほどの優しさが、どうして人を縛るのか、という問いから生まれました。あなたの背後の冷たさが、読み終えたあとも、少しだけ残りますように。




