それぞれの思惑
「大丈夫ですかぁ?」
川上少尉の気遣いの言葉には、思わずこもってしまった笑みが滲んでいた。目の前の光景に、なんともいえぬおかしみを感じてのことだ。
「もう少し、だから…なんとか……」
元々の出身が陸軍の空挺部隊のため、嵯峨は乗り物には強いつもりでいた。遊園地の絶叫マシンなどは大好きな方だ。
しかし無差別砲撃地帯の、激しい嵐からは幾分か穏やかになったハズのゆったりとした大きな海面のうねりは別物だ。魔巣窟近くから瘴気を吸ってきたこともあって、嵯峨はその顔面を真っ青にして小さくうずくまるしかない。
脳みそはシャンとしている。裁判に臨む素晴らしい手掛かりも得た。気分は悪くないはずだった。
だけれども、小柄ではないが男たちと比べればいくぶんか華奢な嵯峨の肉体は、自然界の酷使に対してヘロヘロに弱らされてしまっていた。
「本当にあと少しですから、希望を失わずに。まぁ、横になって休んでてください」
頑張って強がりを言う嵯峨へ、川上はニッコリ笑いかけながら軽々と船を駆った。
「まるで別の人種のようだね」
嵯峨の隣りで、同じように憔悴しきっている柳沢少佐が、やや呆れ気味につぶやいた。
彼は嵯峨と違い、「寝ていると余計に脳を揺らされて酔ってしまう」と座った姿勢で耐えている。そのくせ、もう胃液しか出ない嘔吐物を、嵯峨よりも多く海へと捨てていた。
柳沢も海兵の出だが、ここまで小さなボートで無力な木の葉のように翻弄される船は、経験が少ない。
いや、中型船でもっと激しい嵐なら耐性がある。こういうゆったりと上下の落差が大きいのは、意外に厳しいのだ。沿岸特殊警備隊との力の差を見せつけられる気分だ。
「そんなに長く乗るわけではありませんから、頑張って」
軽く言ってくれる。川上少尉は洒脱な雰囲気があるだけに、グロッキー状態でうんうん唸るふたりがおかしくて仕方ないらしい。
もっともそのからかいには、ふたりに対する敬意と好意が含まれているため、誰かさんの見下したような皮肉と違って、言われる方もムカッ腹を立てるようなことはない。しかし胸から喉にこみ上げてくる気持ち悪さは、どうにもたまらなかった。
そうして「ウッぷっ」と5度目のえずきで嵯峨が顔を蒼白にした頃に、港の遠景が朧気に見えてきだした。
(助かった……)
蘇生する気分だ。陸にさえ上がれれば、船酔いは楽になる。
行きもそうだったが、本当に短時間で助かった。これ以上揺られていれば、脱水症状も引き起こしかねないだろう。
(やっぱ沿岸警備隊は凄いわ……)
専門なのだから当たり前なのだが、やはり感心してしまう。嵯峨は魔巣窟近くから無事に帰ってこられたことと、安息の陸地が見えたことで、ドッと緊張の糸を緩めてしまった。
(芦原少尉も、陸で死にたかったろうな……)
とりとめないことを思って、そのまま意識を暗転させた。
(坂本の“発見”の意味するところは、何だ?)
沿岸特殊警備隊のことだ。
オフィスに戻って地図を広げ、地名を指でなぞりながら、廣瀬は頭をひねった。
警備隊の巡視艇が大きく迂回したといっても、時期的に見て、天候が荒れて波が高くなりだしていたため、とも思える。軍はいろんな状況に合わせて展開する。が、避けられる危険は、極力回避しておくものだからだ。
普通、嵐の中はどの兵科も避けて通る。作戦は出来うる限り、不確定要素を排除して立てるものだ。
沿岸特殊警備隊が予定の場所で訓練していたことは、予備審問の報告にも明記されていた。軍の保証のある、検証不要の大前提だ。例え不可解なほど遠回りな別のルートを使ったとしても、その程度で揺らぐものではない。━━━というか、信じたい。
それに、警備隊の指揮官は五藤大佐だ。理由の無いことをするひとではなかった。
(どっちにしたって、嵯峨たちが帰ってくればわかることだ)
ずっと気になっている芦原少尉の死の真相も、仮定が進むのは調査する嵯峨が帰ってきてからのこと。憶測はいくらでもできるが、証拠に勝るものはない。
その嵯峨たちは、そろそろ帰路についている頃のはずだった。無事に戻ってこれるまではやはり心配だが、なんだかんだいって柳沢がついている。腹は立つが、何かあれば救援を呼ぶくらいはできるだろう。
後ろ髪が引かれる感じはあるものの、廣瀬にはそれよりもっと、優先してやるべきことがあった。
━━━━失踪した集団の尻尾を掴む。
確実な証拠を押さえて早く手を打たないと、取り返しのつかないことになるだろう。
今のところ、清掃班長の部屋に仕掛けた盗聴器からは特に何も得られることはなかった。
何やら清掃班内で鑑識機材業者との癒着があるらしいが、廣瀬の調査には関係ない。その他は二度ほど、現場処理の任務が入って出て行ったくらいで、清掃班長は黙々と、ほぼ公務時間の全てを自室で書類整理するだけに使っていた。
(空振りか……)
どうやらアテはハズレたようだ。
廣瀬の威力偵察に反応があるかと推測したが、無関係なら拘る必要はない。清掃班長が室内に篭ったっきり書類仕事ばかりというのは、少し違和感がないわけではないが……。
(となると、)
廣瀬は準備が出来次第、魔巣窟に向かうべきである。
しかし確信を持って魔巣窟を調べに行くとはいえ、確証を掴むまでには手間取るかもしれない。
上手くやる自信はあるが、往って帰ってすれば、自らの師の裁判には間に合わないだろう。さすがに師の危機に、傍聴すらしないのは心苦しい。
(一言あいさつくらいしていきたいんだが……)
立場上、そういうわけにもいかない。藤原からも、証人として指名されてしまっている。
師弟が袂を分かって以来、お互いに会いに行こうとすることも無かったが、廣瀬は柄にもなく殊勝な気持ちになっていた。訓練生時代の様々な思い出のある魔巣窟へ向かう、ということも作用したのだろう。
五藤の居る方向に向けて、心の中でペコリと頭を下げた。
(そういえば、藤原との約束も反故にしてしまうな)
惜しい。
と、思えるだけ、まだ廣瀬は余裕があるようだ。
(仕方ない。あっちは土居に頼むか)
藤原の濡れた唇と芳香を脳内で再生し、廣瀬は顔をくしゃっと歪めてオフィスのドアを閉じた。




