25.かすがい
荒々しい交歓の後……
「くそっ……」
到底普段の孔明が口にすることのない言葉が、今日だけでもう何度目か口を吐いていた。まだ、兄の怒りは収まってはいない筈だ……恐る恐る鸞が肩越しに孔明を振り向くと、苦悶の表情のままに手を差し伸べ、抱き起こしてくれた。
そして、汗ばむその胸に、孔明は鸞をしっかりと抱きしめた。
「お仕置きは終わり」
「んん……ごめんなさい」
子供のようにしゃくり上げる鸞の体を、孔明は優しく包み込んだ。
「すまん、どうしても抑えられなかった……私だって、おまえを欲しているんだ。おまえがあんな奴に見られていると思うだけで猛烈に腹も立つ。キスなんて……あのクソ野郎!! 」
「ごめん……」
「次は絶対殺すからな、私はあいつが大っ嫌いだ」
「うん」
「お前が思っている以上に、お前は美しく、婀娜に過ぎるんだぞ。あのクソ野郎や、関わらなくていい危険を惹きつけて止まないのだ。見守る私の寿命が縮まりっ放しなのをおまえ、わかっているのか」
鸞は肺いっぱいに、孔明の汗が発する男の匂いを吸い込んだ。あの倉庫で兄が運転席に乗った時も、この匂いを嗅いだだけで堪らない気持ちになったものだ。
「シャワーを浴びろ。怪我の消毒をしないとならないだろう」
そう言われて初めて、鸞は自分の体のあちこちに傷が出来ていることに気付いた。
「全然気付かなかった」
「亮子を守るのに必死だったんだよ」
漸く孔明が優しい声で囁いた。背中の素肌をさすり、まだ震えの止まらない腰を撫でた。それだけで、鸞の分身は変化してしまった。ああ、これだ、この手だけなのだと、鸞は濡れる瞳で孔明を見上げた。
「兄上……大好き、大好き」
震える声でそう告げられ、孔明は堪らずに両腕できつく鸞を抱きしめた。
「私も、おまえが大好きだ、鸞」
自分の傷にも気付かぬ程に必死に戦った鸞を、孔明は優しいキスで労った。ウィッグを取り外し、鸞の髪の中に手を差し込んで小さな頭を支え、鸞の熱を確かめるまで何度も、その唇を吸った。
あれ程昇華できずに燻っていた怒りは、もう孔明の理性の沼の底に沈んでいた。
「さぁ、シャワーを使ってこい」
両頬を優しく手で包み、孔明は言い聞かせるようにして鸞の鼻先で囁いた。
「忘れていると思うが、明日、いや今日は体育祭だ。私も手伝いに行かねばならんし、亮子だが……あれは絶対行くと言って訊かないぞ」
孔明の両手の中で、鸞の顔がムンクの叫びのように焦りに歪んでいった。
「お、お弁当ぉ!! 」
鸞が一家の主婦の顔に戻り、裸体のままキッチンへ駆け込んでいった。
「だから、まずシャワーを浴びなさいって」
結局、時間短縮の為にシャワーは二人一緒に入り、ちょっとだけスキンシップをして、怪我の手当てをして、鸞は戦闘態勢に入った。ジーンズにTシャツ姿で冷蔵庫の在庫を確認するも、無残な程に空っぽであった。
「最早これまでか……」
冷蔵庫の前で項垂れる鸞の横で、孔明は亮子に付き添っている玄徳と電話で話をしていた。
「……開会式は休ませるとしても、ええ……本当ですか、それは……承知しました」
「亮ちゃん、どうかしたの? 」
「それがなぁ……血液中から出たのは強い睡眠剤の成分で、それも象を寝かせる程の量を撃たれていたらしい」
「はぁ? 」
「しかし、もうすっかり目は覚めていて、体育祭に出るのだと暴れているのだそうだ」
「どんな体してんの、あの子」
「小さい頃から、薬が効きにくい子だったよ、確かに。一種の特異体質かもしれん。とにかく、何とかしないとな、弁当」
「僕、炊飯器セットしたらすぐに買いに行ってくる。飯倉の丸昇スーパーなら24時間やってるから」
立ち上がって出ようとする鸞を慌てて孔明が引き留めた。
「お前も怪我人だろう。私が行く。メモを書け」
そう言うと、孔明は上着と車のキーを取りに、二階の私室へと駆けて行った。
「兄上」
ぺたりと座り込み、鸞は慣れた床の上に座っている幸せを噛み締めた。この温もりを、自分の軽率さで危うく永遠に失うところだったのだ。そう思うと悪寒が走り、後悔に押し潰されそうになる……。
キッチンに戻ってきた孔明は、鸞が冷蔵庫の前でガタガタ震えるのを見て、慌ててその華奢な背中を抱きしめてやった。
「大丈夫か」
「うん、うん……兄上、僕……本当にバカだった……皆と会えなくなるところだった」
「だったら、もうお転婆は程々にして、お利口にするんだぞ」
南昌で、私はそういう思いを抱いて身を震わせたのだ……漸く見守る人間の恐怖がわかったかと言いたいところだったが、孔明は笑ってその頭をぐしゃぐしゃと撫でてやった。
「一緒に行くか」
「……うん」
やがて炊飯器をセットし、結局は二人してスーパーに買い出しに行ったのであった。
主婦鸞ちゃん、発進!




