16.兄、そしてまた、兄
孔明の過去を探るのは、霧生久紀の兄、夏輝。
兄の想いを、兄だからこそ理解する夏輝。
果たして孔明は何者なのか、公安か、潜入捜査官か⁉︎
警視庁の警備部警護課の課長室に呼ばれ、鸞はスーツ姿でドアをノックした。
「どうぞ」
柔らかな声音に促され、鸞は折り目正しい所作で部屋の中に立ち入った。
そこには、久紀の兄である霧生夏輝警視正が立っていた。自身の机に寄りかかるようにしたまま、鸞にソファを勧めた。
「失礼致します」
頭を下げて腰を下ろす。
久紀とほぼ同じくらいの身長だが、夏輝の方が幾らか細身ゆえか、久紀ほどの圧力も、体育会系の押しの強さも感じられない。ひたすらに柔和で紳士的で、インテリジェンスが滲み出ている。
鸞が座った頃に、共に上海へ飛んだ護送チームの1人だった人物が、茶を運んできた。
「藤間さん、でしたね。上腕の怪我は如何ですか」
すると藤間と呼ばれた男は盆を持って直立不動となり、角ばった所作で頭を下げた。
「桔梗原警部の素晴らしい体術、警察官としての覚悟を拝見し、痛みなど吹っ飛びました。しかも、迅速に止血をしていただいたおかげで軽症で済み、またこうして警護班として復帰することができました。心より、御礼申し上げます」
そして鸞が何かを言う前に、満足気な顔をして出て行ってしまった。
「改めて私からも礼を言わせてくれ。部下を助けてくれたこと、この通り、心から感謝する」
夏輝も、机から体を離して直立の姿勢となり、恭しく頭を下げたのであった。
「や、やめてください。結局、レイモンドを中国当局に渡すことができなかったんです。逃したのは私、責められて然るべきです」
苦々しい顔でそう答える鸞に、夏輝は何枚かの写真を応接セットのテーブルに広げた。
これをどうしようというのか、夏輝の意図がわからない。焦りさえ微塵も見せぬよう、鸞は平静を保ったまま目だけを写真に落とした。
朝、亮子が見せてくれたSNS上のカンテックホテルでの写真を拡大コピーしたものである。こうして拡大してみると、1コマごとに鸞が視点を変えているのがわかる。
「レイモンドという男、余程君にご執心なのだな」
「警視正まで……笑えない冗談です」
「いや、奴が君をこの姿にして連れ歩いたおかげで、君は警官としてマフィアとの癒着を疑われることも追及を受けることもなく済んでいるのだ。おそらく、計算済みであろう。それにこの写真、見るものが見れば、ホテルのロビーに潜む敵の位置を確かめているのは明白。獲物を狙う鷹のような目に見えなくもない」
どう返したら良いか迷う鸞の、とても鷹には見えない愛らしい大きな双眸に、夏輝はフッと笑った。
「成る程な。四谷署でティッシュの消費が早いというのも頷ける」
「あのう、警視正、一体……」
ご用は何ですか、とは言えず、鸞は言葉を濁した。
「うむ……ちょっと聞きたくてな。君と、君の兄のことだ」
体の奥に撃たれたような痛みが走った。何か暴かれるのか、責められるのか……。そんな不安の影を、夏輝は周到に鸞の表情から拾っていた。手応えあり、と。
「君の身上書には、武術の類は何とかできる程度にしか書いていない。兄上の事もちょっと調べさせてもらったが、とても久紀と共に拳銃を手にマフィアとの銃撃戦に挑めるような経歴は見当たらない。しかし現に、君たち兄弟は見事な体術、見事な戦闘スキルの持ち主だ。聞いても良いかな」
「はぁ……」
「特に兄上だが……チヨダ、ではないか」
「チヨダ? 」
「君の世代だと、ゼロ、と言ったほうが分かりやすいかな」
チヨダ……或いはゼロとも呼ばれる。警察庁警備局警備企画課に所属する、警察庁協力者獲得工作・特命作業指揮本部を指す。本来は国家公務員であるが、能力を見極めた上で公安として配属された場合、警視庁や各都道府県の公安の頂点に立ち、現場で指揮をする場合もある。夏輝は、孔明がこの公安の捜査官なのではないかと、問うたのであった。
「違います」
即座に、鸞は否定した。何だそんなことか、と弛緩するような表情さえ見せて、鸞は続けた。
「私達桔梗原の男は……代々この家に生まれた者は、あらゆる武術に精通し国事に備えるという家訓があります。最早廃れても可笑しくないのですが……その昔、禁裏におあす天子様をお守りし、お側近くお仕えしていた家柄だそうで、私も兄も、幼い頃から様々な武術・剣技を父に叩き込まれました。ご存知とは思いますが、私は母が亡くなるまでは、家訓に反してピアノの道を進むつもりでおりましたが、母が亡くなり、ピアノは捨てました。たった1人で続ける勇気がなかったのです」
「そうか……では、込み入ったことを聞く。君が国家公務員として入庁した年に、兄上は教師として就職をしているが、大学卒業後5年分ほどの彼の記録がないのだが」
鸞は膝の上で両手の指を組み、何度か開いたり閉じたりを繰り返した。
「……フランス外人部隊に」
「ほう」
「家族に何も告げず、突然行ってしまって……唐突に私が警察官を目指すことを決めてしまったので、兄は自分が桔梗原の実子ではないことを理由に、身を引くつもりだったのだと思います」
「君は、ソルボンヌ大学の博士課程に留学しているが、兄上とはそこで一緒に? 」
「探すつもりで行きましたが、会えませんでした。二年間、一度も」
「そうか……」
夏輝が、溜息と共に鸞の向かいの一人掛けのソファに体を沈めた。長い沈黙の後、夏輝は上体を起こすようにして鸞に頷いてみせた。
「私にも、血の繋がらない弟がいる。いや、光樹とは面識があるのだったな……そうか、外人部隊か。いや、チヨダだとしたら私の耳に入らない筈はないと、訝しく思ったので聞いたのだ」
「とにかく、私が無事に入庁すると、兄は帰ってきました……でも、まさか古典教師になろうとは」
当時を思い出すかのように顔を綻ばせる鸞を、夏輝が眩しそうに見つめていた。
「成る程。久紀が君のことをお色気爆弾などと言っていたが……その笑顔を守るために、敢えて兄上は帰国したのだろうな。いや、勝手な推測は野暮というものだ。だが、同じ兄としてなら、何となく解る気がする」
「警視正……」
この兄の羽の下で、久紀と光樹は安心して違いを想い合っているのだ……兄という存在の大きさ、深さ、尊さを、鸞は目の前の官僚然とした男が微かに漏らす柔和な情愛から感じ取っていた。
「君にはまだ隠れた能力がありそうだ。兄上がチヨダでなくても、君をチヨダに推薦したいほどなのだが」
能力の程は分からないが、性格的には絶対向いていない、と鸞は必死に首を横に振った。
「ウチはたった5日私が家を空けただけでゴミ屋敷と化すような、しょーもない家なんです。家事を放り出して、身分を隠して己を隠してなんて性格的に向いてませんし、そんな生活は私には絶対無理です。父もおヘソでお茶を沸かしちゃうと思いますよ」
妙な言い回しで父を引っ張り出し、夏輝が爆笑したところで鸞は席を立った。
孔明兄ちゃん、ちょっとヤキモチ焼き、です。




