メメント・モリ
いい人生だった:
忘れ物をしたような気がする。
そう思いながら、列車の中で眼を覚ます。
行き先は決めていない。
とりあえず、この路線の終着駅で降りようと思う。
私の隣には、小さな友達がいる。
黒い毛並みに瑠璃色の瞳を持つ彼女は、
尻尾を揺らしながら心配そうに私を見上げていた。
辺りを見渡すと、私たち以外に客はいないようだった。
列車は、リズムを崩す事なく小刻みに揺れている。
長いトンネルを抜けると、
やがて、緑あふれる広大な田園風景が姿を現した。
それはまるで、十九世紀を代表する印象派絵画のような世界観だった。
私は、そのノスタルジックな景色に見とれつつ、
鞄の中から大好きなメロンパンを取り出す。
黒い毛並みの彼女には、先程駅前で購入した少しお高めなネコ缶をあげた。
ムシャムシャと貪る姿が可愛くて、思わず頭を撫でたい衝動に駆られるが、
驚かせたら悪いので、今はまだ辞めておこう。
私は、再び車窓に視線を移し、
手に持っていたメロンパンに齧り付く。
口に入れた瞬間、サクサクとした皮とふわふわな生地が絶妙なハーモニーを奏で、
後からメロンの仄かな香りが口の中でこだまする。
「みゃー」
メロンパンを食べ終え、再び車窓の景色に心を奪われていると、
缶詰を完食した小さな毛玉が、あざと可愛く鳴きながら私の膝の上に乗ってきた。
眠たいのだろうか?
膝の上で丸くなりながら、彼女は大きくあくびをする。
彼女の背中を優しく撫でてやると、心地良さそうに眠ってしまった。
起こしたら悪いので、このままそっとしておこう。
届かなくても:
列車が、速度を落としながらゆっくりと止まった。
車内の電光掲示板には、終点と表示されていた。
乗車してから片道三時間。
ようやく終着駅に着いたみたいだ。
私は、膝の上の彼女を起こし、お気に入りの旅行カバンと、
ヴァイオリンが入った楽器ケースを持ってホームに降りた。
ホームに降りると、辺りが薄っすらと霧で覆われていた。
駅名板には、夢番地三丁目と書かれている。
改札口を出てすぐのところに、開けた通りがあった。
辺り一体が温泉街となっているようで、和風な建物が多く、街の至る所から湯煙が立っている。
人数は少ないものの、お店はどこも営業中のようだ。
大きく構えた大衆居酒屋も、地元の人たちで賑わっている。
歩いていると、温泉の香りに混じって屋台の匂いも漂ってくる。
焼き鳥、たこ焼き、みたらし団子。
私は、誘惑に負けて屋台を周って食べ続けた。
「みゃお…」
隣を歩く彼女は、焼き鳥を頬張る私を呆れた顔で見る。
大通りから横道に逸れると、木造家屋か立ち並ぶ、
人気のない簡素な住宅街があった。
初めて来た場所なのに、どこか懐かしさを覚えた。
突然、彼女が私の前を歩き出した。
私も慌てて彼女の後を追う。
そのまま左折して、進行方向右側にある三軒目の建物の前で彼女が立ち止まる。
そこは、おもいで商店という駄菓子屋だった。
私は、その駄菓子屋を知っていた。
確か、小柄なお婆さんが一人で経営していたはず。
ところが、いざ入ってみると、
そこにいたのは桃色のワンピースを着た幼い少女だった。
少女は、レジカウンターの横で行儀良くお茶を啜っていた。
「こんばんは、旅人さん。
見ての通り、品数もあまり多くないけど、
ゆっくりご覧になってね」
まだ夜じゃないのに、どうして”こんばんは”なのだろう?
些細な疑問を残しつつ、私は棚に陳列されている駄菓子を一つずつ見て回った。
王道なラムネやシガレット、サイコロキャラメル、色んな味があるチョコレートなど、
どれも、私が子供の頃に好きだったものばかりだ。
私は、その中からフルーツ味のドロップ缶を手に取り、
少女がいるレジまで持っていく。
「はい、どうぞ。
気をつけて行ってらっしゃい」
それから、私たちは大通りへは戻らず、
駄菓子屋を出て更に奥へと進んだ先にある古びた旅館へ入った。
狐のお面をつけた女将らしき女性が、
初めて訪れた私たちを暖かく出迎えてくれた。
当旅館自慢の温泉は、美肌効果のある炭酸水素塩泉となっていて、
また、広大な海が一望できる湯船からの眺めも大変良かった。
あまりの気持ちよさに、空が暗くなるまで長居してしまったが、
おかげで十分に体の疲れを癒すことができた。
寝室へ戻ると、先ほど温泉に入れなかった黒い毛並みの彼女が、
広縁の椅子の上で感傷的に窓の外を眺めていた。
私は、彼女に声をかけずに近くの座椅子に腰掛けた。
カバンから若葉色の日記帳を取り出し、今日あったことを記録する。
列車で食べたメロンパンのことや、駄菓子屋で不思議な少女に会ったことなど、
楽しかったことだけを短く端的に綴った。
記録を書き終えた私は、駄菓子屋で買ったドロップ缶を思い出してカバンから取り出す。
パッケージには、カラフルな飴のイラストと共に、
昭和レトロな”フルーツドロップス”の文字がプリントされていた。
私は、缶の蓋を外して手のひらに飴を一粒だけ出してみる。
出てきたのは、真っ白なハッカ味の飴。
手のひらで転がるそれは、まるで真珠貝の貝殻のように美しかった。
子供の頃は少し辛くて苦手だったが、見た目もその味も、
大人になるにつれて好きになっていった。
私は、貝殻のように真っ白なそれを口の中に放り込む。
ミントの仄かな香りが口いっぱいに広がり、
私はまた、幸せな気持ちで満たされた。
唯一無二の宝物:
私と彼女は、木漏れ日が差し込む森の中を歩いていた。
歩き続けていると、一軒の洋風な木造家屋を見つけた。
扉のすぐそばに立てかけられていた黒板には、
おしゃれなデザインで店名らしき文字がチョークで書かれている。
店の名前は、純喫茶アルテミスというらしい。
私は、彼女と目配せをした後、
三日月型のガラス窓の付いた扉をゆっくりと開けた。
「いらっしゃいませ」
レディーファーストなので、私は扉を開けて彼女の後に続く。
中へ入ると、店主と思しき女性が、
私たちに気づいてカウンター越しから声をかけてきた。
見た目からして、二十代後半くらいだろう。
清楚で大人な雰囲気のある女性だった。
私は、彼女と共にカウンター席に移動する。
テーブルにあるステンレス製のスタンドに、
可愛いイラスト付きのメニュー表が挟んであったので手に取る。
メニューには、天の川のクリームソーダ、三日月ドーナツ、
特性七夕ゼリー、星雲バーガー、十二星座クッキー、
月明かりのミルクティー、小惑星パフェなど、
私が好きな星をイメージしたスイーツが載っていて、
メニューを眺めているだけでも楽しかった。
私は悩んだ末、店主に声をかけて、
三日月ドーナツと天の川のクリームソーダを注文する。
旅仲間の彼女には、彼女でも飲める月明かりのミルクティーにした。
「少々お待ちください」
店主は、カウンター奥の厨房で料理を始めた。
尻尾の長い彼女は、丸くなりながら店主の料理を待っている。
厨房から、揚げたてのドーナツの香りが漂ってくる。
そして、二十分ほどで料理が完成し、
店主の笑顔と共に私たちの前に運ばれてきた。
「お待たせしました」
カラフルで夢のようなスイーツが卓上に並べられ、
私は、子供の頃を思い出しながら歓喜した。
彼女も、喜んでミルクティーを味わっている。
私は、スプーンを手に取り、
クリームソーダの一番上のアイスを掬って口へ運ぶ。
アイスは、葡萄やオレンジなど様々な味が均一に重なっていて、
口の中に入れた瞬間、色んな味が一気に押し寄せてきたかと思えば、
スッと溶けながらお互いが主張する事なく、
うまい具合に調和を奏でていて楽しかった。
まるで、ユニコーンやペガサスの群れの中で、
ゆるふわな雲に優しく包まれながら寝ている気分だった。
三日月のドーナツは、ぷっくりと可愛い見た目をしていて、
一口食べれば、バナナのとろける甘味が舌を刺激して、
幸せすぎて思わず笑みが溢れた。
「ご満足いただけましたか?」
私は、店主にお礼を言って席を立った。
彼女もお腹いっぱいになったのだろう。
満足そうに欠伸をし、また丸くなっている。
「お疲れ様でした。
それでは、いってらっしゃいませ」
私は、寝息を立てている彼女を抱えて店を出た。
気のせいか、以前にも増して彼女が重くなったように思う。
耳を済ませば、心地のよい小鳥の囀りが聞こえてくる。
次は何処へ行こうか?
私は、寝ている彼女にそう囁き、
また森の中へと歩き出した。
もう許して:
森の中をまた進んでいくと、
今度は、大きくて透明なドーム型の建物に出会った。
建物の近くに白髭を蓄えた優しそうなお爺さんがいたので声をかけると、
お爺さんが建物の持ち主だとわかった。
お爺さんの左目が白く濁っていたので、
心配して聞いてみると、以前から白内障を患っているそうで、
本人は気にしていない様子だった。
私たちが建物の中を見たいとお願いすると、
お爺さんは快く案内してくれた。
その中は、室内庭園のようになっていて、
草花が、大小様々な鉢に植えられているだけでなく、地面にも沢山生い茂っていた。
「ここが、ワタシの工房だ」
私たちは、緑に囲まれた部屋に通された。
お爺さんの工房であるこの部屋には、
木製の作業テーブルや棚が置かれていた。
本棚には分厚い学術書があり、
サイズ毎にきちんと整理された状態で並べられていた。
お爺さんは、いつもここで趣味のオルゴール作りをしているそうだ。
「にゃっ」
彼女が、作業用のウッドテーブルに飛び乗り、
作りかけのオルゴールで遊び始めた。
お爺さんは、イタズラしている彼女のことは気にも止めず、
終始穏やかな表情でコーヒーを淹れている。
お爺さんは、コーヒーを作りながら楽しそうに鼻歌を歌っている。
今日は天気もいいし、
きっと、心躍る嬉しいことがあったのだろう。
もしかしたら、家族や愛する人から素敵な知らせがあったのかもしれない。
そんなことを思いながら、お爺さんから出来立てのコーヒーを受け取ると、
私は、荷物を下ろして近くにあったソファーに腰掛けた。
「オルゴール、作ってみるかい?」
そう言ってお爺さんは、棚の中から四角い木箱を取り出した。
箱には、金属やプラスチックでできた小さな部品がたくさん入っていって、
わかりやすいように、パーツごとに細かく分けられていた。
私は、お爺さんから必要なパーツを受け取り、
お爺さんと一緒にオルゴールの制作に取り掛かる。
「そうだ、上手いじゃないか」
それから、お爺さんに丁寧な指導をもらいながら、
自分だけのオルゴールが完成した。
使用した曲は、私の好きな『アメイジンググレイス』。
この曲は、一八世紀の欧米諸国で広まったとされている。
ネジを回すと、心地のいい音色が部屋中に響き渡る。
目を閉じれば、彼女と旅をした時の情景が自然と頭の中に浮かんでくる。
音が鳴っている間、彼女も手を止めて静かに聞き入っていた。
「お疲れ様。
君は、覚えも早いし手先が器用だ。
これが初めてとは思えないよ」
音楽が止まると、お爺さんは拍手をしながらそう言った。
私も、褒められたことが嬉しくて、
テストで満点を取った子供みたいに頬を緩ませる。
「頑張ったご褒美に、シチューをご馳走しよう。
今温めてくるから、少しの間待っていてくれ」
お爺さんは立ち上がると、一人でそそくさと工房から退室した。
私は、お爺さんがいない間、本棚に並んでいた学術書の中から、
生物学の本を引っ張り出して読み耽った。
太陽が丁度私たちの真上を通り過ぎた頃、
お爺さんが嬉しそうな表情で御盆を持って戻ってきた。
御盆に載っていたのは、具沢山のクリームシチューだった。
お爺さんの手作りだと言うシチューは、熱々でとても美味しそうだった。
私は、お爺さんと一緒に手を合わせ、シチューの味を楽しんだ。
彼女は、お爺さんからもらったミルクを夢中で舐めていた。
「美味しいかい?
おかわりもあるから遠慮なく言うんだよ」
「にゃーお」
彼女が先に食べ終わり、お爺さんにおかわりを要求する。
お爺さんも、人懐っこい彼女を気に入ったようで、
ミルクをあげながら、愛おしそうに彼女の背中を撫でた。
私はその様子を、少し離れたところから微笑ましい気持ちで眺めた。
「君たちと話していると、なんだか懐かしい気持ちになる。
できれば、ずっと一緒に居てほしいところだが、
そうもいかないのだろう?」
お爺さんと生物学の話題で盛り上がっているうちに、
気づけば、空一面が橙色のグラデーションを描いていた。
窓から見える沈みゆく夕日がとても綺麗だった。
「いや、気にしなくていい。
久しぶりに人と話せて良かった」
シチューを食べ終わると、私は彼女と荷物を抱えて工房を出た。
お爺さんは、名残惜しそうに私たちを見つめていたが、
それでも、いつもの笑顔で手を振りながら送り出してくれた。
「気をつけて行っておいで」
私は振り返らなかった。
お爺さんの正体を知っていたから。
振り返ってしまったら、きっと泣いてしまうだろうから。
振り向かないで:
私たちの世界にも夜が訪れた。
満天の星々が、頭上で大きなプラネタリウムを演出している。
左側には海水浴場があり、浜辺に打ち上げられたホタルイカの群れが、
神秘的な青い光を放ちながら夜の海を照らしていた。
夜行バスの中、私と彼女はある場所へ向かっていた。
バスには、私たち以外に乗客がいない。
隣の彼女は、夜行性のくせにスヤスヤと眠っている。
私は、窓に肘をつきながら美しい夜景を眺めた。
一時間ほどで最寄駅に到着し、私は彼女を起こしてバスを降りた。
バス停の前には、ドーム型の大きな建物があった。
入り口の看板に、『クジラの水族館』と大きく書かれている。
当然ながら、私たち以外に人はいない。
館内のロビーでは、脱走したと思われるペンギンの群れが、
ひんやりとした床で気持ちよさそうに寝転んでいた。
私と彼女は、無遠慮にゲートを通過して建物の中へ足を踏み入れる。
ゲートの先にある細長い廊下は、照明も少なくて少し肌寒かった。
廊下を抜けて最初に目に飛び込んできたのは、
一匹のクジラと巨大な水槽だった。
水槽の中は、イワシ等のたくさんの小魚が群れで泳いでいたが、
仲間のいない一匹のクジラは、ずっと寂しそうにしていた。
私は巨大な水槽から離れ、右横の狭い通路へ進む。
通路の両端には大小様々な水槽があり、クマノミのような水族館では定番の小魚や、
私も初めて目にする珍しい魚まで、数多くの魚たちが元気よく泳いでいた。
狭い通路を抜けると、少し開けた空間に出た。
そこでは、円柱の水槽で青白く光るミズクラゲや、
タツノオトシゴのような可愛らしい魚が沢山いた。
次のエリアへと続く渡り廊下を突き進むと、
廊下の天井がドーム状のアクリルガラスになっていて、
頭上を通り過ぎる海亀やエイの姿を見ることができた。
渡り廊下の先にある深海魚のコーナーは、
ブルーライトに照らされた水槽の中に、
リュウグウノツカイやシーラカンスのみならず、
可愛いメンダコが泳ぐ様子を見ることができた。
さらに奥へと進むと、天井を飛び回る三匹のクリオネの妖精と出会った。
彼らは、水槽の中にいるクリオネとは違い、
不透明な皮膚に身を包み、その体から白くて淡い光を放っていた。
突然、三匹のクリオネが私たちの前で止まった。
互いにしばらく見つめ合った後、
彼らは他のエリアへと続いている狭い通路へと入って行った。
私は、着いてこいと言われているような気がして、
すぐに彼らの後を追った。
彼らの後を追いかけていると、
再び、クジラのいる巨大な水槽の前に出た。
クジラは、先ほどと同様に悲しそうな目で水槽の外にいる私たちを見つめていた。
クリオネは、クジラに寄り添うと、
私に向き直り、何かを訴えるような視線を送ってきた。
私は、すぐにクリオネの想いを読み取った。
それから、ヴァイオリンケースを地面に下ろすと、
ケースの中から楽器本体を取り出した。
悲しそうにしているクジラを、少しでも元気にしてあげたい。
クリオネの妖精たちも、私と同じ考えなのだろう。
彼らは、私の周りを踊るように回り始めた。
私はヴァイオリンを構え、音程の調節もせずにいきなり弾き始めた。
私が選んだ曲は、『アメイジンググレイス』だった。
ヴァイオリンは、演奏中も正確な音程で音色を奏でている。
ヴァイオリン自体久しぶりに弾いたのだが、
それでも、一度もミスすることなく軽快に弾くことができた。
私の演奏を聴いたクジラは、穏やかな表情で一声鳴いた。
ありがとうと言われいるような気がして、
私は嬉しい気持ちになった。
それから、私はクジラやクリオネたちの前で自分が得意な曲を幾つか披露した。
その間、ここまで着いてきてくれた彼女も、
クジラのそばで私の演奏を見守るように聴いていた。
クリオネたちも、演奏が終わるまで楽しそうに私の周りを回り続けた。
私一人の音色じゃ物足りないかと思ったが、
クジラも他の魚たちも、私の期待以上に喜んでくれた。
それは、とても長い夜だった。
私の世界に孤独はなかった。
私は、こうして自分を必要としてくれるこの世界が好きだった。
それと同時に、あの世界も、そうだったら良かったと思った。
そうだ。
この世界は、私にとって都合が良すぎるんだ。
ここはまるで、夢の中みたいだ。
私があれほど願った景色が、こうして目の前にあるのだから。
忘れて:
これは、記憶の一部である。
暗闇の中で、ジリジリとノイズの音が鳴り続けている。
痛みも、恐怖も、幸福すらも、
感じることのない場所。
“苦しいですか?
忘れたいですか?
アナタは今、泣いていますか?”
私の視界に、悪筆な文字が表示される。
何者かが、私に対して問いかけている。
私は、答えることもできないまま、
再び意識を奪われた。
私たちは、小さな図書館の中にいた。
ここには、私がこれまで読んできた本が数多く並べられていた。
天井には暖色の照明は点けられているし、
館内では優しいピアノのBGMが掛けられていたものの、
図書館には、私たち以外誰もいなかった。
二階へと続く螺旋階段を登り、歩きながら気になる本を物色していると、
表紙にタイトルも書かれていない無地の赤い本を見つけた。
本の表紙は、本革でできていて触り心地が良かった。
私は、赤い本を手に取って中身を確認する。
そこには、これまで自分が書いてきた作品集が載っていた。
最初の作品は、自身の理想を描いたファンタジーだった。
誰も自分を傷つけない、誰も自分を否定しない、
そして、痛みのない世界に私は生きたかった。
それは、長きに渡り、涙ながらに願ってきた理想そのものだった。
書き初めの頃は、上手い言い回しができなかったり、
設定もあやふやで、知人に笑われてしまうこともあったが、
私は、自分の世界を心の底から愛していた。
けれど、書き続けていくうちに、自分が描いた理想の世界も、
結局は誰かの犠牲によって成り立っている見せかけの平和なのだろうと思い、
ある日を境に、その作品を書くのをやめてしまった。
それからというもの、
誰かを楽しませるために書いていたはずが、
いつの間にか、自分を救うための手段に変わっていった。
同じような内容、同じような世界観、同じような登場人物が増え、
私は次々と独りよがりの物語を生み出した。
当然、ほとんど誰の目にも触れる事なく埋もれてしまったが、
それでも私は、懲りずに物語を書き続けた。
なんでもいい。
私は、この手で自分自身を救いたかった。
頁の後半は、物語性のない独白のような内容が多かった。
読んでいるうちに最後の頁にさしかかり、私は頁を捲る手を止めて息を呑んだ。
タイトルには、『遺言書』と書かれている。
そこには、これまでの後悔や罪が赤裸々に綴られていて、
最後の方に、お世話になった人や優しさをくれた人たちへの感謝の言葉があった。
なんてことない、ごく普通の内容。
何も成し得ず、何も残せなかった、
なんの面白みもない味のない私の一生。
それなのに、得体の知れない感情が一気に押し寄せてきて、
私は、黒い毛並みの彼女がいる前で泣き出してしまった。
“もう誰も…を傷つけないで!!!!”
彼女は、何も言わずに私の頭を優しく撫でてくれた。
図書館の屋上には、名前のない墓石があった。
私は、その墓石に一輪の百合を添えた。
目を瞑ると、孤独だった日々が脳裏を過ぎる。
私の中の化け物が、私に対して牙を剥く。
そういえば、随分前にこんな夢を見たことがある。
何も見えなくて、何も聞こえなくて、
何も感じない、ただ意識だけが存在する世界だった。
ここは何処なのか?自分は何者なのか?
そういった疑問が暗闇の中でこだましていた。
そこは、どこまでも孤独だったが、
とても温かくて、優しい世界だった。
何故だか私は、そんな優しい世界に帰りたいと思った。
目を開けると、黒い毛並みの彼女が、
尻尾を揺らしながら心配そうに私を見つめていた。
“本当によかったのか?”
そう言っているような気がして、
私は、その問いに答えるかのように、
“これでよかった”と、
天を仰いでニヒルな笑みを浮かべた。
眩しいくらいに、今日も空は快晴だ。
良い旅を:
私と彼女は、灯籠が流れる水の上を歩いていた。
荷物は、ここへ来る前に全て置いてきた。
愛用の旅行カバンも、ヴァイオリンも、今の私には必要なかった。
夜空で流れる天の川を目印に、
私たちは、ゆらゆらと逆方向に流れる灯籠の間を進んでいく。
水上には、紅い鳥居が縦一列に幾つも並んでいて、
鳥居の中を通っていれば、迷わず何処かに辿り着くだろうと思った。
水面を踏む度に、涼しい音を立てながら水が跳ね返る。
彼女の素足と私の靴が水に浸かることもなく、
灯籠から漏れる暖かい光があるおかげで、
足の踏み場に困ることはなかった。
私はそれが楽しくて、時々軽快なステップを踏んでみたりした。
彼女は相変わらず、のんびりと私の後ろを歩いていた。
いつもなら、我先にと私の前を歩いていくのに、
今日に限って、ずっと一定の距離を保ちながら私の後ろをついてくる。
道なりに進んでいると、真っ白な扉を見つけた。
私は、息を呑んでそっと扉を開けた。
振り返ると、後ろにいたはずの彼女の姿がなかった。
私は、彼女の不在を確認すると、再び扉の中の風景に視線を戻した。
その先には、また同じ形の扉があった。
私は、二つ目の扉に向かって歩を進めた。
突然、ジリジリと激しい頭痛に襲われる。
それから、数秒のノイズが流れた後、
一番古い記憶から自動で再生される。
これは、私だった者が所持していた記憶だ。
母親の胸に抱かれながら子守唄を聞いた時、
ここに居てもいいと安心を覚えた。
父親に頭を撫でてもらった時、
私の中に心が生まれた。
貧しかったけれど、寂しくはなかった。
特別な日には家族みんなでパーティーをした。
私の誕生日に出されたチョコレートケーキは、
生涯にわたって忘れられない思い出になった。
クラスメイトから仲間はずれにされた時、
私は初めて孤独の意味を知った。
それでも、私は本当の孤独を知らなかった。
私には、三人の幼なじみがいた。
彼らは、決して私を否定しなかった。
彼らとの日々は驚きと喜びの連続で、
これっぽっちも退屈しなかった。
夢も希望も見失った時、気の合う親友と出会った。
彼は、こんな私でも分け隔てなく接してくれた。
いつの間にか、彼の存在が心の支えになっていた。
幾つかの闇を抜け、気づけば私も大人になった。
そんなある日、嘗ての幼なじみと再会した。
彼らも相変わらず元気そうで安心した。
それから、食事をしながらそれぞれの歩みを語り合った。
私は、充実した日々を送っている彼らに少し嫉妬した。
充実しながらも、きちんと自分の人生を歩んでいる彼らを見て、みんなが遠くに感じて少し怖くなった。
数秒のノイズの後、私は青い空間に引き戻される。
そうしている間も、私の歩みは止まらない。
歩を進める度に、頭痛はますます激しくなっていき、足取りも重くなる。
そうだ、ようやく思い出した。
答えは、ここへ来る前から知っていた。
気づけば、あの日の問いは消えていた。
全て、正しかったんだ。
再び、一瞬のノイズが私の記憶を呼び起こす。
突然、病死した父親。
その最後を見届けられなかった事への贖罪。
自暴自棄になって酔いつぶれた夜。
そして私は…。
突然、ノイズが消えた。
気づけば、扉の前まで来ていた。
視界はクリアになり、足取りも軽くなる。
私は、ゆっくりとドアノブに手をかける。
“もう歩かなくていい”
扉の向こうから、誰かの声が聞こえてきた。
それは、彼女の声にとてもよく似ていた。
同時に、聞き覚えのある懐かしくも優しい声だと思った。
もう救いは要らない。
助けてなんて言わない。
既に沢山の人に救われて、
沢山の優しさをもらったから。
私の役目はここまでだ。
本当に、いい人生だった。
たとえ、想いが誰にも届かなくても、
私にとっては唯一無二の宝物。
だからもう、リグレットを許して。
絶対に振り返らないで。
どうか、これまでの私は忘れて。
それでは、良い旅を。
HAPPY END




