第1話 一回三千円で、恋人になって
「一回三千円で、私の彼氏になって」
金曜の午後九時すぎ。幼馴染の水瀬紬は、俺の部屋のローテーブルへ千円札を並べた。
一枚、二枚ではない。十八枚。端が雨に濡れ、妙に生々しい。
「待て。いろいろ待て」
「安い?」
「金額の話じゃない」
紬は俺の向かいに正座した。白いブラウスの肩が濡れている。目元も赤かったが、雨のせいとは思えなかった。
「本物じゃなくていいの。全六回。延長料金はなし」
「何の料金だよ」
「恋人役」
「聞き直してるのに、まったく意味がわからない」
俺が千円札を押し戻すと、紬は両手で壁を作った。仕事で何かを断るときも、たぶんこんな顔をする。
「今日ね、……藤代さんに告白した」
押し戻す手が止まった。
藤代圭吾。紬と同じ会社の先輩で、三年前から相談を聞かされてきた相手だ。穏やかで、仕事ができて、後輩の失敗を人前で責めない。俺が難癖をつけたくても、そんな材料もくれない男だった。
「……返事は?」
「駄目だった」
紬は笑った。口元だけで作った、目をそらしたくなるような薄い笑いだった。
「大切な後輩だけど、そういうふうに見たことがなかったって」
「……そっか」
ほかに言葉が出ない。よかった、とは思えなかった。いや、胸の奥では確かに安堵した。その安堵を自覚した途端、自分がひどく卑しい人間に思えた。
「三年も好きだったのに、私、何もしなかったんだよね。……二人で食事にも行かなかったし、仕事以外の連絡もしなかった。好きだって言った日に、初めて恋愛の話をしたの」
「……告白は、どこでしたんだ」
「会社の裏の喫煙所。藤代さん、煙草は吸わないけど、たまに一人になりたいって時にいるから」
「場所の選び方が色気なさすぎる」
「うるさいなぁ。会議室よりはましでしょ」
紬は笑おうとしたが、途中で唇を噛んだ。
「言うつもりじゃなかったの。藤代さん、来月から別の部署に移るって聞いて。気づいたら追いかけてた」
「うん」
「困った顔をさせた。すごく優しく断ってくれたから、余計に恥ずかしくて」
紬はテーブルの木目を指でなぞった。爪の端に、薄い桃色のマニキュアが残っている。告白のために塗ったのかもしれない。
「帰りに駅のトイレで落としたんだけど、全部は取れなかったみたい」
俺の視線に気づき、指を握り込む。
「別に、笑わないよ」
「笑ってくれたほうが楽だったな」
「……無理だよ」
俺は台所へ立ち、冷蔵庫から麦茶を出した。コップを二つ並べる。紬の分を用意するのは、考えるまでもないことになっていた。
小学校のころは、互いの家を勝手に行き来していた。中学では試験前に俺の部屋で勉強し、高校では進路が決まった夜に炭酸飲料で乾杯した。
今の部屋へ越してからも、紬は月に一度くらい来る。
いつでも気軽に来られる場所だったはずなのに、今夜だけは違った。
紬は麦茶を一口飲み、コップを両手で包んだ。
「藤代さんに言われたの。今まで一度も、私を恋愛の相手として考えたことがなかったって」
「さっきの話だろ」
「うん。……でも、考えたら当たり前なんだよね。会社の外で二人きりになったこともないし、仕事と関係ない連絡もほとんどしてない。どこかへ誘ったこともない」
指折り数えるたびに、薄く残ったマニキュアが目に入った。
「好きな食べ物も、休みの日に何をしてるかも知ってたよ。でも全部、会社でほかの人と一緒に聞いたことだった。藤代さんからしたら、私はよく話す後輩でしかなかったんだと思う」
「だからって、彼氏役が必要になるか?」
「次に誰かを好きになったときは、ちゃんと二人で出かけたい。自分から誘って、行きたいところを言って……その、手をつなぐとかも」
最後だけ声が小さくなる。紬はコップの中へ視線を落とし、氷を揺らした。
「そういうことを何も知らないまま、また告白するのが怖いの。だから一度、練習しておきたい」
「それを、俺と?」
「律なら、私が変なことをしたら遠慮なく言うでしょ。それに失敗しても、次の日から口を利いてくれないとか、……たぶんないし」
紬はコップを置き、薄く残ったマニキュアを親指でこすった。
「高校受験の前、私が無理かもって泣いたときも、笑わなかったし」
「あれは笑える状況じゃなかっただろ」
「そういうところ。私がダメになってるときでも、律は普通にしてくれる」
「それなのに、たぶんなのか?」
「絶対、とは言い切れないから」
少しだけ、いつもの紬らしい笑い方をした。けれど、コップを持つ指には力が入ったままだった。
俺たちは互いの格好悪いところをいくつも知っている。
小学生のころに泣いた理由も、中学でついたくだらない嘘も、高校受験の前日に弱音を吐いたことも。今さら一つ失敗が増えたところで、関係までなくなるとは思えない。
紬が練習相手に俺を選んだ理由は、恋愛感情ではなく、その気安さからなのだろう。
わかっている。それでも、選ばれたことをうれしく思っている俺がいた。
「それで六回か。六回でどうにかなるのか?」
「やってみたいことを数えたら、五つあったの。最後の一回は、五回やったあとの私が決める」
「ずいぶん具体的だな」
「何もしないまま三年使ったから。次は、がんばってから振られたい」
言い方は乱暴だったが、紬の声は震えていた。
立ち直ったから次へ進もうとしているわけではない。立ち止まれば、さっきの告白を何度も思い出してしまう。
だから紬は妙な計画を作り、そのまま俺の部屋まで来たのだろう。
このまま誰かの好みに合わせる練習をさせたら、紬はまた、自分の気持ちを後回しにする。
「条件がある」
「値上げ?」
「次に好きになる誰かの好みに染まる練習なら付き合わない。お前が行きたい場所を選んで、嫌なことは嫌だと言う。その練習なら付き合う」
紬が目を見開いた。やがて、泣きそうだった口元が少しだけ緩む。
「それ、律に何の得があるの」
「三千円」
親指と人差し指の先で円を描いてにやりと笑ってみせた。
「ふふっ、現金だ」
「そうだ。ただし、途中でどちらかがつらくなったらやめる。それで残りは返す。俺からも、嫌なことは嫌だと言う」
「律が?」
「何だよ」
「そこは私より練習が必要そう」
失恋した夜だけど、紬は初めてちゃんと笑った。
「じゃあ、お願いします。六回だけ、私の彼氏になってください」
「引き受けます」
紬の眉が少し下がった。笑いそうになったのを隠すように、鞄へ手を入れる。
出てきたのは六枚の封筒だった。表に一から六まで数字が書かれている。
「一回につき一枚。中に練習したいことが入ってる」
「用意がよすぎないか」
「帰りの電車で考えたから」
「失恋して二時間で?」
「忙しかった」
たぶん、泣かずに帰るために忙しくしたのだ。
一枚目を開く。便箋には、丸い字で〈恋人らしい呼び方をする〉とある。
「却下」
「始まって三秒だけど」
「俺たち、今さら呼び方を変えるのか?」
「だから練習になるんじゃない」
紬は膝の上で拳を握った。息を一つ吸う。
「り、律……くん」
耳を疑った。
「もう一回」
「もうっ、逆に私が料金をもらうよ」
「今のは聞き取れなかった」
「絶対聞こえてた」
紬が睨む。頬がみるみる赤くなり、両手で顔を挟んだ。
「今、こっち見ないで。顔から練習させて」
「そんな練習は封筒に書いてない」
「細かい男は嫌われるよ、律くん」
背を向けたまま言われた。二度目ははっきり聞こえた。
胸がうるさい。恋人役だからだ。頼まれただけだ。そう言い聞かせても、口元が緩むのを止められなかった。
「悪かったな……むーちゃん」
「もうっ、それは小学校の低学年の時のじゃん!」
「紬」
「……それは、ズルだよ」
紬はサイドに垂らしている髪を指先でくるくると弄る。頬をこえて耳まで色づいていた。
そのあと、紬は電車の時間を考えて帰り支度をはじめた。玄関で靴を履き、振り返る。
「律」
「何?」
「今日、ここに来たの、迷惑だった?」
今度は「律くん」ではなかった。いつもの呼び方だからこそ、弱った声がよくわかった。
「迷惑なら、部屋に上げてない」
「……そっか」
「ただ、次の恋を探すのは急がなくていいと思う」
「別に、すぐに探そうっていうんじゃないよ」
紬は靴のつま先をそろえた。
「次に誰かを好きになったとき、今の私のままじゃ、また終わっちゃいそうなのが怖いの」
その言葉は理解できた。紬は藤代を忘れたわけではないし、忘れるための相手を探しているわけでもない。
それでも、前向きにがんばろうとする所は昔から変わらず、まぶしく感じた。
「今日は一回に数えないからね」
「呼んだだろ。律くんって」
「契約説明。初回は日曜日」
扉が閉まる。部屋が急に静かになった。
俺は十八枚の千円札をまとめて封筒へ入れ、本棚の奥へしまった。財布には入れられなかった。
残った封筒を重ねる。六枚目だけ薄い。灯りに透かすと、中には何も入っていなかった。
表の数字の下に、鉛筆で小さく書いてある。
〈最後に必要になったこと〉
これまでと変わる何かを感じて、少しだけ期待する俺がいた。




