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境界の向こう側

出立の日は、驚くほどあっさりと訪れた。


「遅れるなよ」


 叔父はそれだけ言った。


 見送りというほどのものでもない。

 ただ、用事のついでのように声をかけられただけだった。


「いつでも帰って来ていいのよ、お姉様」


 妹は笑っていた。


 心配しているようで、その実、何も気にしていない顔。


 ——ここには、もう何もない。


 そう思うと、不思議と足は軽かった。


 振り返ることもなく、リリアは馬車に乗り込む。


 扉が閉まる音が、小さく響いた。


 それだけで、世界が切り離されたような気がした。


 馬車は静かに動き出す。


 窓の外には、見慣れた街並みが流れていく。


 けれど、その一つひとつに、もう意味はなかった。


 懐かしさも、寂しさも——


 ほとんど感じない。


 ただ、胸の奥に残っているのは、かすかな緊張だけ。


 これから向かう場所。


 そこで待っている人。


 冷酷だと噂される、公爵。


 思い出すのは、庭で出会ったあの男の姿。


 感情の読めない目。

 無機質な言葉。


 それなのに——


 なぜか、完全に怖いとは思えなかった。


 理由は分からない。


 分からないまま、考えるのをやめる。


 どうせ、すぐに答えは出る。


 馬車が止まった。


 軽い衝撃とともに、思考が現実に引き戻される。


「到着いたしました」


 外から声がかかる。


 扉が開かれ、差し込む光に目を細めた。


 ゆっくりと、地面に足を下ろす。


 目の前に広がっていたのは——


 あまりにも整いすぎた光景だった。


 広い敷地。

 無駄のない配置。

 人の気配は少なく、音もほとんどない。


 静かすぎる。


 それが、最初の感想だった。


 歓迎されているわけでもない。


 かといって、拒まれているわけでもない。


 ただ、そこに“用意されている”だけ。


 そんな印象。


 ここが、これからの居場所になる。


 そう思っても、まだ実感は湧かなかった。


 案内の者に従い、ゆっくりと歩き出す。


一歩、また一歩と進むたびに——


 戻る道が遠ざかっていく。


 けれど。


 それを惜しいとは、思わなかった。

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