「契約結婚の提案」
私の家は、かつて“名家”と呼ばれていた——らしい。
正直、その実感はほとんどない。物心ついた頃には屋敷はすでに古びていたし、召使いもいなかった。冬は隙間風が冷たく、食卓に並ぶのは質素な料理ばかり。それでも父は、誇らしげに言うのだ。
「我が家は由緒ある家系だ。誇りを忘れてはいけない」
その言葉が、嫌いではなかった。むしろ好きだった。だって父は、どれだけ貧しくても、人に優しくあることをやめなかったから。
だから私も、自然とそうなっただけだ。
そんなある日のことだった。
珍しく来客があった。しかも——明らかに、この家には不釣り合いな人物。
「はじめまして。レオン・ヴァルディスと申します」
整った顔立ちに、無駄のない所作。着ている服も、ひと目で仕立ての良いものだと分かる。私とは住む世界が違う人間だと、一瞬で理解できた。
応接間に通したものの、壁紙は剥がれ、椅子も少し軋む。こんな場所にいること自体が場違いに思えて、少しだけ落ち着かなかった。
「本日は、単刀直入にお話しします」
そう言って彼は、一枚の書類を差し出した。
「あなたに、私の妻になっていただきたい」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……妻、ですか?」
「ええ。正確には“契約結婚”です」
契約結婚。
その言葉の響きだけが、やけに現実離れして聞こえる。
私はゆっくりと書類に目を落とした。
そこに書かれていた条件は、驚くほど現実的だった。
・婚姻は名目上のもの
・社交界では夫婦として振る舞うこと
・愛情は不要
・期間は三年間
・報酬として、あなたの家の負債を全て引き受ける
思わず息を呑む。
——借金を、すべて?
「……どうして、私なんですか?」
もっと相応しい人がいるはずだ。家柄も、美しさも、社交界での立場も——何もかも、私より上の人なんていくらでもいる。
そう問いかけると、彼はほんのわずかに視線を逸らした。
「……あなたは“都合がいい”」
その言葉に、胸が少しだけ引っかかる。
「あなたは社交界との関わりが薄い。しがらみも少ない。そして——評判がいい」
「評判……?」
思わず聞き返すと、彼は淡々と続けた。
「困っている人に手を差し伸べる。身分に関係なく接する。……そういう話を聞いています」
そんなの、特別なことじゃない。
ただ目の前の人が困っていたら、助けるだけ。
それだけなのに。
「私には、“理想の妻”が必要です。たとえそれが、見せかけでも」
その言葉は冷静で、合理的で——どこか寂しさを含んでいた。
私は、もう一度書類を見る。
これにサインすれば、父の借金は消える。
この家も守れる。
生活も、きっと変わる。
でも——。
「一つ、いいですか?」
「なんでしょう」
私は顔を上げて、彼をまっすぐに見た。
「私は“お飾り”でも構いません。でも、困っている人を見たら、助けてしまいます。それでもいいですか?」
一瞬だけ、彼は驚いたように目を見開いた。
それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……ええ。構いません」
その答えを聞いて、迷いは消えた。
私はペンを取り、自分の名前を書き記す。
——これで、すべてが変わる。
「契約成立ですね」
彼はそう言って、静かに書類を受け取った。
その横顔を見ながら、私は思う。
この結婚に、愛はない。
それでも——
きっと、何かが始まる。




