第42話 Re:Voiceと呼ばれていた僕が、水無月零として本当の声で歌うと決めるまで
フェスから、二週間が経った。
SNSの反響は、まだ続いている。
「Re:Voice」という名前は、僕の知らないところで、どこまでも広がっていた。
けれど――
僕の心の中は、静かなままだった。
嬉しさはある。
でも、それより深いところに、何かが引っかかっている。
うまく言葉にできないまま、日々だけが過ぎていった。
⸻
ある午後。
心音さんが買い物に出かけ、僕は一人で部屋にいた。
ギターを抱えたまま、何も弾かない。
ふと、引き出しを開ける。
そこには、折り畳まれた手紙が入っていた。
何度読んだかわからない。
それでも、また開いた。
『私も昔、声が変だって言われ続けました。
歌うことが好きだったのに、声を出すのが怖くなりました。
でも、あなたの歌を聴いて、初めて思ったんです。
不器用な声でも、誰かの心に届くんだって。
あなたの声が、私の声を、少しだけ好きにさせてくれました』
胸の奥が、じわりと痛んだ。
もし、かつての自分に。
誰かがこんな言葉をくれていたら――
どれだけ救われただろう。
「変だ」と言われた声。
歌えなかった日々。
声を出すたび、嘲笑が耳の奥によみがえった。
それでも歌い続けられたのは――
心音さんの「綺麗だ」という一言があったから。
たった一言で、世界は変わった。
じゃあ――
僕が、その一言になれるとしたら。
⸻
声だけじゃ、届かないものがある。
フェスのステージで、そう感じた。
スピーチをした瞬間、空気が変わった。
言葉が。
声が。
痛みが。
剥き出しのまま、届いた。
でも僕は、まだ顔も名前も隠したまま。
同じ痛みを持つ誰かに、本当に届けたいなら――
「変な声だと言われた、水無月零という人間が、それでも歌っている」
その事実ごと、届けなければいけないんじゃないか。
手紙を胸に押しつける。
目の奥が、熱くなる。
「……顔を、出したい」
誰もいない部屋で、声に出した。
静かだけど、確かな言葉だった。
⸻
夕方。
心音さんが帰ってきた。
「ただいま……零くん、どうしたの?」
僕の顔を見て、すぐに気づいたらしい。
「……話があって」
袋を置いて、隣に座る。
「あの手紙、また読んでた」
「うん」
「声だけじゃ、届かないものがある気がする」
心音さんは、何も言わずに聞いてくれる。
「同じ痛みを持ってる人に、本当に届けるなら……
名前も、顔も、全部出して歌わなきゃいけない気がする」
「……うん」
「Re:Voiceじゃなくて、水無月零として」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが決まった。
怖さは消えていない。
でも――それより大きな何かが、静かにそこにあった。
「決めたの?」
「……まだ、怖い」
正直に言う。
「でも、やりたい」
心音さんが、僕の手を握った。
「零くんが決めたなら、私はどこまでもついていく」
その言葉が、胸の奥まで沁みた。
⸻
でも――
翌朝、目が覚めると覚悟は揺らいでいた。
顔を出す。
本名を名乗る。
過去をすべてさらけ出す。
「変だ」と言われた声を持つ、水無月零として。
――怖い。
やっぱり怖い。
何かが壊れる気がした。
声だけで守られていた世界が。
批判されるかもしれない。
笑われるかもしれない。
また「変だ」と言われるかもしれない。
ギターを手に取る。
でも指は動かなかった。
「零くん」
心音さんが、静かに呼ぶ。
「顔を出すのが怖いのは、当たり前だよ」
「……うん」
「でも、昨日の零くんは本物だった」
「……」
「怖くても、やりたいって思う気持ちが、本物なんだよ」
しばらく黙る。
「……心音さんは、怖くなかった?」
「何が?」
「僕に『綺麗だ』って言った時」
彼女は少し驚いて、そして柔らかく笑った。
「怖かったよ。届かなかったらどうしようって」
「……届いたよ」
「うん。だから、零くんの言葉も届く」
揺らいでいた何かが、静かに支えられた。
「……もう一回、決める」
「うん」
「水無月零として、歌う」
彼女が、ぎゅっと手を握った。
⸻
数日後。
僕は佐藤さんに電話をかけた。
「相談があります」
『はい、何でしょう』
「顔出しで弾き語りライブをしたいんです。本名も出して」
息を呑む気配。
『……本気ですか』
「はい」
『Re:Voiceとしてではなく?』
「水無月零として、歌います」
沈黙。
そして――
『わかりました。一緒に準備しましょう』
電話を切る。
手が震えていた。
でも、もう怖さだけじゃない。
⸻
窓の外。
夏の光が、街をやわらかく照らしていた。
「決めたね」
心音さんが微笑む。
「うん」
「怖い?」
「怖い」
「でも、やる?」
「やる」
彼女が笑う。
その笑顔は――
太陽みたいに、優しくて温かかった。
弾き語りライブの日まで、三週間だった。
佐藤さんが、小さなライブハウスを押さえてくれた。
キャパシティは二百人。
Re:Voiceとして立ったフェスとは、比べものにならない規模。
でも――それでいいと思った。
最初は小さな場所でいい。
水無月零として立つ、最初の舞台だから。
⸻
準備は、二人でやった。
セットリストを考える夜。
アレンジを練り直す深夜。
歌詞を見直す朝。
「この曲、最初に持ってきたら?」
「……うん。でも、最後は『春風のメロディー』にしたい」
「また?」
心音さんが笑う。
「だって、全部始まった曲だから」
「わかった。最後はそれで」
⸻
一週間前。
佐藤さんからメッセージが届いた。
「チケット、完売しました」
「……え?」
「Re:Voiceの顔出しライブということで話題になっています。当日、取材も来ます」
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
二百人。
全員が、水無月零の顔を見に来る。
「零くん、大丈夫?」
「……大丈夫じゃないかもしれない」
正直に言う。
「でも、逃げない」
⸻
前日の夜。
眠れなかった。
顔を出す。
名前を言う。
過去を話す。
「変だ」と言われた声を持つ、水無月零として。
怖い。
でも――
引き出しを開けて、あの手紙を取り出す。
『あなたの声が、私の声を、少しだけ好きにさせてくれました』
この言葉のために、立つ。
「零くん、眠れてる?」
「……眠れない」
「そうだと思った」
心音さんが寄り添う。
「怖い?」
「うん」
「でも、やるって決めたね」
「うん」
「なら、大丈夫」
その一言で、胸が落ち着いた。
夏の夜風が、カーテンを揺らしていた。
⸻
当日の朝。
鏡の前に立つ。
いつもと同じ顔。
でも今日からは――
この顔が、水無月零になる。
「零くん」
心音さんが鏡越しに微笑む。
「素敵だよ」
目の奥が熱くなる。
「……ありがとう」
⸻
リハーサルや最終準備を終え、
会場に着いた頃には、空はすっかり暗かった。
ネオンが濡れたアスファルトに滲む。
並ぶ人たち。
みんな、今日を待っていてくれた人たちだ。
⸻
楽屋。
「Re:Voiceとしての活動は続けます。でも今日は、水無月零として立ちます」
「わかりました。Re:Voiceが水無月零だったと、今日初めて世界が知る日です」
胸が重くなる。
でも――温かさもあった。
「心音さん、客席に入って」
「うん。ちゃんと見てる」
振り返り、彼女は言った。
「零くん、全部見せてきて」
「……うん」
⸻
ステージ袖。
マイクとギターだけ。
何も隠すものはない。
歓声が聞こえる。
手が冷たい。
喉が震える。
でも――足は動いた。
⸻
ステージに出た瞬間、会場がざわめいた。
スポットライト。
白い光の円。
その中に、僕は立つ。
沈黙。
誰も笑わない。
誰も騒がない。
ただ、見つめている。
⸻
深呼吸。
「……こんばんは」
声が、静かな会場に溶けていく。
「今日、初めて皆さんの前に立てました」
静まり返る客席。
「僕の名前は、水無月零といいます」
どこかで、誰かが泣いた。
「Re:Voiceとして活動してきました。でも今日は、水無月零として歌います」
拍手が広がる。
⸻
歌い始める。
ただの光の中で。
ただギターを弾いて。
ただ歌う。
声が満ちていく。
近い。
剥き出し。
逃げ場のない距離。
客席の顔が見える。
泣いている人。
目を閉じる人。
動けない人。
届いている。
声が。
名前が。
顔が。
全部。
⸻
数曲後、ギターを膝に置く。
「少し、話させてください」
静寂。
「僕は、自分の声が嫌いでした」
息を呑む音。
「変だと言われた。その声と一緒に、自分を閉ざしました」
震える声。
「でも――ある人が言ってくれたんです。
『あなたの声は、本当に綺麗だね』って」
客席。
心音さん。
泣いていた。
「その一言で、世界が変わりました」
手紙を取り出す。
「ファンレターの中に、こんな言葉がありました」
読み上げる。
「この言葉をくれた人に伝えたくて。顔も名前も出して、ここに立ちました」
「声を否定されたことがある人に届いてほしい」
「水無月零の声は――
誰かに『綺麗だ』と言われた、この声です」
会場が揺れた。
泣き声。
嗚咽。
でも温かい。
⸻
最後の曲。
「春風のメロディー」。
全部を歌った。
出会い。
回復。
恐怖。
希望。
全部。
⸻
歌い終わる。
静止。
そして――
大きな拍手。
涙が落ちた。
⸻
楽屋。
心音さんが飛び込んできた。
言葉はいらなかった。
抱き合う。
「届いたね」
「……うん」
「水無月零として、届いたね」
「うん」
涙。
でも温かい。
⸻
その夜、SNSは溢れた。
救われた。
泣いた。
声を好きになれた。
全部、届いた。
⸻
スマホを差し出される。
あの手紙の主の投稿。
読んだ瞬間、胸が満ちた。
「……来てくれてたんだ」
「うん」
「よかった」
⸻
夜空に星。
ここまで来た。
長くて、短くて。
でも確かに。
⸻
「ありがとう。あの時、綺麗だって言ってくれて」
心音さんが笑う。
「ありがとうは、私の方だよ」
「え?」
「零くんの声に、私も救われてるから」
⸻
夏の終わりの風。
静かな夜。
水無月零の声は、今日、確かに届いた。
それだけで――
十分だった。




