第40話 義母から届いた「すごいね」の一言と、ファンから届いた五十通の手紙が、僕の心を動かした
「春風のメロディー」は、気づけば再生数が二百万を超えていた。
Re:Voiceという名前は、もう僕の知らないところでも広がっているらしい。
ある日の午後。
窓から吹き込む風が、カーテンを静かに揺らしていた。
僕はソファに腰を下ろし、ギターを抱えていた。
指先でつま弾く音が、部屋の空気を震わせる。
言葉にならない何かを探していた、その時。
スマホが小さく震えた。
画面を見た瞬間、指が止まる。
――義理の母。
見慣れない名前のように感じた。
最後に連絡をもらったのが、いつだったかすら思い出せない。
震える指先で、メールを開く。
零
久しぶり。元気にしてる?
ところで、Re:Voiceって、もしかして零?
最近話題になってるから、気になって。
母より。
呼吸が浅くなる。
胸の奥が、静かに痛んだ。
どうして、今さら。
なぜ、今になって――。
「零くん、どうしたの?」
心音さんの声が、僕の現実を引き戻す。
「……義理の母から、メール」
「え……?」
スマホを見せると、心音さんは言葉を失ったように画面を見つめた。
「どうする? 返信、する?」
「……」
僕はしばらく考えた。
無視できたら、どんなに楽だろう。
でも、心のどこかで、そうすることを許せなかった。
指が震える。
打ち込んだ文字は、たった四つ。
そうです。
それだけ。
それでも、胸が重くなった。
送信ボタンを押す音が、ひどく冷たく響いた。
「零くん……」
心音さんの手が、そっと肩に触れた。
数分後、スマホが再び震えた。
そうなんだ。すごいね。
頑張ってるんだね。
――たったそれだけ。
「すごいね」
「頑張ってるんだね」
あまりにも、遠い言葉。
義務のように整えられた文章。
「……やっぱり」
喉の奥が詰まる。
「やっぱり、認めてもらえないんだ」
声が震え、視界が滲んだ。
「どうして……どうして今さら連絡してくるんだ」
僕はスマホをベッドに投げ出した。
「Re:Voiceだから? 有名になったから?」
声が裏返る。
「僕が苦しんでた時は、何も言ってくれなかったのに!」
心音さんが近づいてくる。
「零くん、落ち着いて……」
でも、僕はその手を振りほどいた。
「ごめん……一人にして」
ドアを閉め、暗い部屋に沈む。
ベッドに倒れ込み、枕に顔を押しつけた。
「すごいね」――
たった一言。
頑張ってるのは当たり前だ。
頑張らなきゃ、生きてこれなかった。
あなたたちが、僕を受け入れてくれなかったから。
静かな夜の中で、呼吸だけが響く。
涙は止まらなかった。
(心音視点)
ドアの向こうで、零くんの気配が静まった。
私はしばらく、閉まったドアを見つめていた。
傷ついた——
でも、それ以上に、怖かった。
零くんが、どこか遠くへ行ってしまうような気がして。
それでも、無理に開けなかった。
今は、そっとしておくことが、自分にできる唯一のことだと思ったから。
(零視点)
それから、数日が過ぎた。
時間の流れがぼやけていく。
ギターにも触れられない。
曲も浮かばない。
「零くん、何か食べよう?」
心音さんの声が、まるで遠くから聞こえるようだった。
「……うん」
けれど、味はしなかった。
心音さんが涙を浮かべながら言う。
「もういいんだよ。零くんには、私たちがいる」
「……わかってる」
頭では、理解している。
でも心は、いつまでも取り残されたままだ。
夜、心音さんに抱きしめられながら、僕は呟く。
「僕、何が悪かったのかな」
「零くんは、何も悪くない」
優しい手が髪を撫でる。
「……でも」
「でも、じゃない」
心音さんの声が、柔らかくも強かった。
「零くんは、十分頑張ってる」
「……わかってる」
それでも、心は揺れる。
わかっているのに、手放せない。
そして一週間後。
カウンセリングの日。
僕は先生にすべてを話した。
メールのこと。
「すごいね」としか言われなかったこと。
「まだ、認めてほしいんです」
声が詰まりながら言葉を絞り出した。
「『よく頑張ったね』って、『誇りに思うよ』って……言ってほしかった」
涙が頬を伝う。
先生は黙ってうなずいた。
「自然なことですよ」
「……え?」
「親に認められたいという気持ちは、人間の根源です。
それが義理であっても、育ててもらった以上、当然の願いです」
先生は少し間を置いてから続けた。
「でも、残念ながら――」
その声は静かだった。
「すべての親が、子を愛する力を持っているわけではない」
胸の奥で、何かが崩れる音がした。
その言葉を、うまく受け取れなかった。
愛する力がない——
じゃあ、僕が悪いわけじゃないのか。
そんな単純なことが、どうしてこんなに難しいんだろう。
「……じゃあ、僕はどうすれば」
「焦らずにいきましょう。答えは、すぐには出ません」
「……本当に来ますか」
「来ます。必ず」
帰り道。
心音さんが待っていた。
「おかえり」
「……ただいま」
僕の目の腫れを見て、心音さんは何も言わず、抱きしめてくれた。
「まだ、時間がかかると思う」
「うん。いいよ、ゆっくりで」
その声が、春風みたいに柔らかかった。
「ごめん。最近、塞ぎ込んでて」
「謝らないで。辛い時、そばにいるのが私の役目だから」
「……ありがとう」
心音さんが微笑む。
「私のお母さんも、結音も、零くんを家族だと思ってる。
だから、もう“ひとり”じゃないよ」
その言葉に、胸の奥で何かが静かに溶けていった。
涙がまた滲む。
「……心音さん」
「うん」
僕たちは夕暮れの道で抱き合った。
通り過ぎる人の気配も、風の音も、何も聞こえなかった。
義理の両親の承認。
きっと、まだ心の奥では求めている。
でも――もう、少しずつ、手放していこう。
その夜。
僕は声日記に残した。
「義理の母から、連絡があった。
『すごいね』って。それだけだった。
やっぱり、認めてもらえなかった。
でも、先生が言ってた。
それは自然な感情なんだって」
「心音さんがいる。
僕には、もう家族がいる」
録音を止め、ベッドに横たわる。
隣で眠る心音さんの呼吸が、静かな波のように聞こえた。
義理の両親の承認は、もう届かない。
でも――それでいい。
僕を愛してくれる人が、ここにいる。
僕を認めてくれる声が、ここにある。
少しずつ。
本当に少しずつ。
でも確かに、心は前を向き始めていた。
窓の外、夏の夜風が、優しくカーテンを揺らした。
その音がまるで、「もう大丈夫」と囁くようだった。
心の傷はまだ痛む。
けれど――
いつか、必ず。
義理の両親の承認がなくても、僕は幸せだと思える日が来る。
心音さんとなら、きっと。
そう信じながら、静かに目を閉じた。
明日もまた、彼女と同じ朝を迎える。
その奇跡を、胸の奥でそっと噛みしめながら。
義理の母から連絡があってから、一週間が過ぎた。
時間が経っても、胸の奥に残る影は消えなかった。
曲を作っていても、どこか遠くで「すごいね」という言葉が、鈍く響いている。
まるで、心の奥に薄い膜を張るように。
音が、感情の奥に届かない。
ある日の午後。
「零くん、荷物届いてるよ」
心音さんの声が、静かな部屋を照らす。
大きな箱を抱えて、少し嬉しそうに笑っていた。
「荷物?」
「佐藤さんから。ファンレターみたい」
「ファンレター……」
箱を開けた瞬間、ふわりと紙の匂いが広がる。
白い封筒が、いくつも、いくつも重なっていた。
たぶん、五十通はあるだろう。
いや、それ以上かもしれない。
ひとつひとつの封筒に「Re:Voice様」と丁寧な文字。
どれも、誰かの想いが詰まっている。
それを見ただけで、胸が少し熱くなった。
「こんなにたくさん……」
心音さんが優しく笑う。
「零くんの声、ちゃんと届いてるんだよ」
「……うん」
僕は、一通を手に取った。
Re:Voice様
はじめまして。いつもあなたの歌を聴いています。
『春風のメロディー』を初めて聴いたのは、仕事で失敗して落ち込んでいた夜でした。
イヤホンをつけた瞬間、涙が止まりませんでした。
あの夜、あなたの声が傍にいてくれた気がします。
少しずつ前を向こうと思えました。
どうか、無理せず活動を続けてください。
応援しています。
文字を追うたび、胸の奥がじんわりと温まっていく。
その温かさは、僕の冷えていた部分を、ほんの少しだけ溶かしてくれた。
「……嬉しいな」
「でしょ?」
心音さんが微笑む。
「ねぇ、他のも読んでみよう」
僕はうなずいて、次の手紙を開いた。
Re:Voice様
あなたの声が大好きです。
透明で、まっすぐで、聴くたびに心が落ち着きます。
いつか、あなたの顔を見てみたいです。
どんな人が、こんな優しい声で歌っているのか、知りたい。
でも、無理はしないでくださいね。
……顔が見たい。
その一文に、指先が少し止まった。
胸の奥に、微かな痛み。
「零くん?」
「……大丈夫」
小さく呟いた。
心音さんが僕の隣で眉を寄せる。
「零くん、無理しなくていいよ」
「ううん。大丈夫……」
そう言いながら、胸の奥で何かが軋んだ。
“歌だけじゃ、足りないのかな。”
次の封筒を手に取ろうとした時、心音さんが一通を差し出した。
「これ、読んでみて」
Re:Voice様
突然のお手紙、失礼します。
私は子供の頃から、歌うことが好きでした。でも、父親に「お前の声は聴いていられない」と言われてから、人前で歌えなくなりました。
それから十年以上、歌と音楽から距離を置いて生きてきました。
そんな私が、あなたの『春風のメロディー』を聴いた時、初めて、また歌ってみたいと思えたんです。
あなたの声には、傷ついた人の心に届く何かがあります。
顔も名前も知らなくていい。
ただ、その声だけで、私は救われました。
どうか、これからも歌い続けてください。
読み終えた瞬間、視界が滲んだ。
声を、否定された人がいた。
それでも、歌を愛し続けた人が。
そして、僕の声を聴いて、また歌いたいと思ってくれた。
「……」
言葉が出なかった。
胸の奥で、ずっと凍りついていた何かが、ゆっくりと溶けていく気がした。
僕が声を出せなかった頃のことを、思い出す。誰かに届くとも思えずに、ただ部屋の隅でギターを抱えていた日々を。
「零くん」
心音さんの声が、遠くから聞こえた。
「声を否定されたのは、零くんだけじゃないんだよ」
涙が止まらなかった。
悲しくて泣いているのか、嬉しくて泣いているのか、自分でもわからないまま。
しばらくして、もう一通を開いた。
Re:Voice様
顔は見えなくても、あなたの想いは伝わっています。
声だけで、心を動かせる人なんて、なかなかいません。
匿名だからこそ、音楽そのものに向き合える気がします。
これからも、あなたのペースで活動してください。
その言葉に、胸の奥が少しだけ救われた。
「ね? こういう人もいる」
心音さんの声が優しい。
「……うん」
でも、心の中には波が立っていた。
“顔を出してほしい人”と、“顔が見えなくてもいい人”。
どちらも、嘘じゃない。
どちらも、優しい。
なのに、なぜこんなにも苦しいんだろう。
夜になっても、眠れなかった。
心音さんが眠る横で、天井を見つめていた。
「……このままでいいのかな」
声に出した瞬間、自分の中にある焦りがはっきりと形を持った。
「ファンの人たちのために、顔を出すべきなんじゃないか」
声に出したつもりはなかった。
でも、心音さんが目を開けた。
「零くん……」
「義理の両親にも、認めてもらえなかった。
だったらせめて、僕の音楽を聴いてくれる人たちには……」
声が震える。
「ちゃんと、僕を見せたい」
「でも、それは“見せたい”の? それとも“見せなきゃいけない”の?」
心音さんの問いが、静かに刺さった。
答えられなかった。
「もし、“見せなきゃ”って思ってるなら、やめた方がいいよ」
心音さんが僕の手を包む。
「零くんが壊れちゃう」
「……」
「顔を出すのは、怖くなくなった時でいい。
今はまだ、その時じゃない」
彼女の声は、春雨のように柔らかかった。
僕は、ただうなずいた。
「ありがとう……心音さん」
「ううん。焦らなくていいんだよ」
その言葉に、心の奥の硬い部分が少しだけ緩んだ。
翌朝。
まだ心は晴れなかったけれど、少しだけ息がしやすかった。
僕は声日記を録った。
「ファンレターが届いた。たくさんの温かい言葉。でも、その中に『顔が見たい』という言葉があった」
「僕は、このままでいいのか。声だけで、本当にいいのか。でも、怖い。怖くて仕方ない」
「……一通だけ、違う手紙があった。子供の頃、声を否定された人からの手紙。その人が、僕の声を聴いて、また歌いたいと思ってくれたって」
「心音さんは『ゆっくりでいい』って言ってくれた。でも、いつまでも逃げていていいのかな。わからない」
録音を止めた後も、心の奥では波が立ち続けていた。
承認を求める心は、たぶん、誰にでもある。それを手放すことは、簡単じゃない。
だけど、ほんの少しだけ、思えた。
——歌を信じたい。
僕の声を愛してくれる人たちを。
声を否定されても、また歌いたいと思ってくれた、あの人を。
そして今、隣で僕を支えてくれる人を。
夏の光が揺れていた。
痛みはまだ消えない。
でも確かに、少しずつ前へ進んでいる。
揺れながら、迷いながら。
それでも、誰かの心に届く声を、またひとつ紡いでいく。




