第23話 僕の歌が誰かを救った日、僕も救われていた
投稿から三日が経った夜。
僕は心音さんの部屋で、いつものようにスマホを開いていた。
Harmoniaのアプリを起動して、自分の投稿ページを見る。
Re:Voice - 名前のない歌
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少しずつ、数字が増えている。
「零くん、また見てるの?」
キッチンから心音さんが顔を出す。
温かい紅茶の香りが部屋に広がっていた。
「うん……最初のコメント、何度読んでも嬉しくて」
投稿した翌日に来た、初めてのコメント。
短い言葉だったけれど、それだけで十分だった。
誰かが僕の歌を聴いて、何かを感じてくれた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
「焦らなくていいのに。再生してくれてる人がいるだけでも、すごいことなんだから」
心音さんが隣に座って、僕の肩にそっと頭を預ける。
その温もりに、少しだけ緊張が和らいだ。
「でも、誰が何を思って聴いてくれてるのか……もっと知りたくて」
「……怖いの?」
「……うん」
僕は正直に答えた。
「否定されるのも怖い。でも、何も反応がないのも怖い。僕の声が、ちゃんと届いてるのかって」
心音さんが僕の手をそっと握る。
「届いてるよ。47人の人が、零くんの声を聴いてくれたんだから」
「……そうだよね」
僕はもう一度、画面を見た。
その時だった。
ピコン
通知音が鳴った。
画面を見ると、新しい通知が表示されている。
Re:Voiceの『名前のない歌』に新しいコメントがつきました
「え……」
心臓が激しく打ち始める。
手が震えて、スマホを取り落としそうになった。
「零くん、コメント?」
「……うん。二件目」
僕は震える指でコメント欄を開いた。
『初めてコメントします。
この歌を聴いて、涙が止まりませんでした。
声が、とても綺麗で。でもそれ以上に、歌の中にある痛みや優しさが、心に響きました。
私も、声を出すのが怖い時期がありました。
でもこの歌を聴いて、もう一度頑張ろうって思えました。
Re:Voiceさん、歌ってくれてありがとう。
この声に、救われました』
文字が滲んで見えた。
涙が、スマホの画面に落ちる。
「零くん……」
心音さんが僕の背中をさする。
でも僕は何も言えなくて、ただ涙が止まらなかった。
救われた。
僕の歌で。
僕の声で。
誰かが救われたと言ってくれている。
「よかったね……零くん」
心音さんの声も、少し震えていた。
「零くんの歌が、ちゃんと届いたんだよ」
僕は何度も何度も、そのコメントを読み返した。
一文字一文字が、胸の奥に温かく染み込んでいく。
「……信じられない」
やっと声が出た。
「僕の歌が、誰かを救えるなんて」
「でも、事実だよ。零くんは、誰かの力になれたんだよ」
心音さんが僕を正面から抱きしめてくれる。
その腕の中で、僕はまた泣いた。
嬉しくて。
怖くて。
でも何より、生きてる実感があって。
「ありがとう……ありがとう……」
誰に向けてかわからない言葉を、何度も繰り返した。
しばらくして、やっと落ち着いた僕たちは、ベッドに並んで横になっていた。
窓の外は暗く、静かな夜。
部屋の明かりを消して、二人だけの時間。
「ねえ、零くん」
心音さんが僕の胸に顔を埋めながら言う。
「これからも、歌うの?」
「……うん」
僕は少し考えてから答えた。
「もっと歌いたい。誰かに届けたい」
「怖くない?」
「怖いよ。すごく」
正直に答える。
「また傷つくかもしれない。否定されるかもしれない。でも……さっきのコメントを読んで思ったんだ」
心音さんの手をそっと握る。
「僕の歌で、救われる人がいるかもしれないって。それなら、怖くても歌いたい」
心音さんが顔を上げて、僕を見つめる。
暗闇の中でも、彼女の優しい瞳が見えた。
「零くん、強くなったね」
「……心音さんがいるから」
僕は彼女の頬に触れる。
「一人だったら、絶対無理だった。でも、心音さんがそばにいてくれるから」
「私、ずっとそばにいるよ」
心音さんが囁く。
「どんなことがあっても。零くんが歌いたい時も、歌えない時も。ずっと、ずっとそばにいる」
その言葉に、胸が熱くなった。
僕たちは静かに唇を重ねた。
優しく、深く。
離れてから、僕は心音さんの髪を撫でながら呟いた。
「次は、何を歌おうかな」
「零くんの好きなものを歌えばいいよ」
「好きなもの……」
僕は少し考えて、微笑んだ。
「心音さんのこと、歌ってもいい?」
心音さんが顔を赤くして、僕の胸を軽く叩く。
「零くん……恥ずかしいこと言わないでよ」
「でも、本当だよ」
僕たちは笑い合った。
そして、また静かに抱き合う。
温もりの中で、僕は思った。
確かに、僕には居場所がある。この腕の中に。
ふと、スマホを手に取る。
ロック画面には、通知が一つもなかった。
義理の両親からの連絡は、今日も来ていない。
「……どうせ僕のことなんて、気にもしてないんだろうな」
呟いた声は、少し寂しげだった。
心音さんがすぐに気づいて、僕を強く抱きしめてくれる。
「零くん」
「ん……」
「私は、いつも零くんのこと気にしてるよ」
心音さんが僕の頭を撫でる。
「だから、寂しくなったら言ってね。私が、零くんのこと気にかけてるって、何度でも伝えるから」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
「……ありがとう」
僕は心音さんをぎゅっと抱きしめた。
スマホを置いて、もう見ない。
今は、この温もりだけがあればいい。
「心音さん」
「ん?」
「好きだよ」
「……私も、好きだよ」
心音さんが優しく微笑む。
その笑顔を見ながら、僕は目を閉じた。
初めてのコメント。
そして二つ目のコメント。
誰かに届いた歌。
そして、この腕の中の温もり。
まだ不安は消えない。
義理の両親との関係も、何も変わっていない。
でも、少しずつ。
本当に少しずつ。
僕は前に進んでいる。
心音さんと一緒に。
暗闇の中で、二人の呼吸だけが静かに響いていた。
それは、確かな生の証。
僕は生きている。
愛されている。
その実感を噛みしめながら、僕は眠りについた。
翌朝、目が覚めると心音さんはまだ眠っていた。
僕はそっとベッドを出て、スマホを確認する。
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数字が少し増えている。
二人のコメントをくれた人以外にも、僕の歌を聴いてくれた人がいる。
僕の歌が、確かに誰かに届いている。
その事実が、僕の心を少しずつ満たしていく。
窓の外では、冬の朝日が静かに昇り始めていた。
新しい一日。
新しい希望。
僕は小さく微笑んで、また心音さんの隣に戻った。
この人のそばで、僕はこれからも歌っていく。
そう心に誓いながら。
歌を投稿してから、少しずつ声を出すことへの抵抗が減ってきた。
でも、日常の中で自分の想いを声にすることは、まだ難しかった。
「焦らなくていいですよ。できる範囲で」
先生の言葉に背中を押されて、僕は声日記を始めた。
毎晩、その日あったことや感じたことを、短い言葉で録音する。
最初は十秒程度の、本当に短いものだった。
それでも、自分の声で自分の気持ちを残すということが、少しずつ心を軽くしてくれる気がした。
三回目のカウンセリングで、先生はその声日記について尋ねてくれた。
「続けられていますか?」
「はい。短いですけど……毎日」
「素晴らしいですね。無理のないペースで続けることが大切です」
先生は優しく微笑んだ。
「零さんは、今、自分の声と少しずつ向き合えているんですね」
その言葉が、胸に染みた。
そうか、僕は今、自分の声と向き合っているんだ。
逃げ続けていた声と、ゆっくりと、でも確かに。
心音さんの部屋に戻ると、彼女がキッチンで夕食の準備をしていた。
「おかえり、零くん」
「ただいま」
僕はコートを脱ぎながら、彼女の後ろ姿を見つめた。
エプロン姿の心音さん。
もう、この光景が当たり前になっている。
「今日のカウンセリング、どうだった?」
心音さんが振り返る。
「うん、よかった。声日記のこと、褒められた」
「そっか。零くんの声、私も毎日聴けて嬉しいな」
心音さんが微笑む。
「零くんは、声が本当に綺麗だから」
その言葉に、僕は少し照れくさくなった。
「……手伝うよ」
僕はエプロンをつけて、心音さんの隣に立つ。
「じゃあ、野菜切ってくれる?」
「うん」
並んで料理をする。
包丁の音。お湯の沸く音。
二人の息づかい。
この時間が、僕は好きだった。
「ねえ、零くん」
「ん?」
「今日、零くんの荷物用の棚買ってきたんだ」
心音さんが嬉しそうに言う。
「え?」
「ほら、零くんの服とかCDとか、最近すごく増えてきたでしょ? だから、ちゃんと収納できるように」
僕は心音さんを見た。
「……いいの?」
「当然でしょ。ここ、もう零くんの家でもあるんだから」
その言葉に、胸が温かくなった。
確かに、最近は実家よりもこの部屋にいる時間の方が長い。
着替えも、CDも、録音機材も。
少しずつ、僕のものがこの部屋に増えていた。
「ありがとう……心音さん」
「どういたしまして」
心音さんが笑う。
夕食を作り終えて、二人でテーブルに向かい合う。
「いただきます」
温かいスープ。焼きたてのパン。
二人で作った料理は、いつも特別な味がした。
「美味しい」
「でしょ? 零くんの切った野菜、大きさが揃ってて綺麗」
「心音さんに教えてもらったから」
僕たちは笑い合った。
こんな日常が、こんなに幸せだなんて。
数ヶ月前の僕には想像もできなかった。
その夜、僕は声日記をつけることにした。
心音さんがお風呂に入っている間、僕は部屋の隅でスマホの録音アプリを開いた。
録音ボタンを押す。
「……えっと、今日は11月25日」
自分の声が、スマホから聞こえてくる。
不思議な感覚だった。
「今日は、カウンセリングに行った」
少し間を置いて、続ける。
「最近、心音さんの部屋にいる時間が長い。というか、ほとんど毎日ここにいる。実家には、たまに着替えを取りに帰るくらい」
声が少し暗くなる。
「義理の両親は、相変わらず何も言わない。いつ帰ってきても『おかえり』もないし、いなくても何も聞かれない。僕がどこで何をしてるか、興味もないんだろうな」
胸が締め付けられる。
でも、すぐに温かいものが湧き上がってくる。
「でも……心音さんがいる。心音さんは、いつも『おかえり』って言ってくれる。僕が何をしてたか、ちゃんと聞いてくれる。一緒に料理して、一緒に笑って、一緒に眠る」
声が震える。
「もし、心音さんがいなかったら……」
言葉が詰まる。
「僕はここにいなかった。多分、もう……」
それ以上は言えなかった。
涙が溢れそうになって、僕は録音を止めた。
深く息を吸って、顔を拭う。
こんなに感情的になるなんて。
でも、これが声日記なんだろう。
素直な想いを、声にする。
ファイルを保存して、僕はスマホを置いた。
夜、一緒に料理をして、一緒に食べる。
テレビを見たり、音楽を聴いたり。
僕が歌の練習をする時は、心音さんがそばで聴いてくれる。
そして、ベッドで抱き合って眠る。
「ねえ、零くん」
ある夜、ベッドで横になりながら心音さんが言った。
「毎日こうしてると、もう夫婦みたいだね」
「……え?」
僕は驚いて彼女を見た。
「だって、一緒に暮らして、一緒にご飯作って、一緒に寝てるんだもん」
心音さんが笑う。
「恥ずかしい?」
「……嬉しい」
僕は正直に答えた。
「僕、こんな生活、夢にも思わなかった」
「私も」
心音さんが僕に顔を寄せる。
「零くんと出会って、毎日が変わった。一人で寝るのが寂しかったけど、今は零くんがいる」
「僕も……心音さんがいなかったら、一人で寂しくて」
「ずっと一緒にいようね」
「……うん」
僕たちは静かに抱きしめ合った。
それから一週間ほど経ったある夜。
僕は声日記を続けていた。
毎晩、心音さんがお風呂に入っている間に録音する。
その日も、いつものように録音していた。
「今日は、心音さんと買い物に行った。僕の服を一緒に選んでくれて……すごく嬉しかった」
声が柔らかくなる。
「心音さんは、いつも僕のことを考えてくれる。何が好きか、何が嫌いか。ちゃんと覚えててくれる」
少し間を置いて。
「実家では、誰も僕の好きなものなんて知らなかった。義理の母は、僕の苦手なものばかり作った。わざとじゃないんだろうけど……興味がないんだ、きっと」
胸が痛む。
「でも、心音さんは違う。心音さんは、僕のことをちゃんと見てくれる」
涙が滲む。
「心音さんがいなかったら、僕はここにいなかった。本当に……本当に、感謝してる」
声が震える。
「好きなんだ。心音さんのこと、本当に……」
そこで、ドアが開く音がした。
「零くん、お風呂空いた……あ」
心音さんが部屋に入ってきて、録音している僕を見て立ち止まった。
僕は慌てて録音を止めようとしたけれど、遅かった。
「ご、ごめん! 声日記してたの、邪魔しちゃった?」
「あ、ううん……」
僕は顔を赤くして俯く。
「ごめんね、最後の方……聞こえちゃった」
心音さんが申し訳なさそうに言う。
静寂。
僕の心臓が激しく打っている。
「……零くん」
心音さんがゆっくりと近づいてきて、僕の隣に座った。
「私がいなかったら、僕はここにいなかったって……」
「……うん」
僕は正直に頷いた。
「本当にそう思ってる。心音さんがいなかったら、僕は……」
それ以上言えなかった。
心音さんが、ぎゅっと僕を抱きしめた。
「零くん……ありがとう」
「え……?」
「私も、零くんに救われてるんだよ」
心音さんの声が震えている。
「お父さんが亡くなってから、ずっと一人で頑張ってきた。誰かを支えたいって思ってたけど、本当は自分も寂しかった」
心音さんが僕の胸に顔を埋める。
「でも、零くんが来てくれて……零くんがそばにいてくれて……私も、救われたんだよ」
その言葉に、僕の目から涙が溢れた。
「心音さん……」
「だから、お互い様なの。零くんが私に救われたように、私も零くんに救われてる」
心音さんが顔を上げて、僕を見つめる。
彼女の目にも、涙が光っていた。
「ずっと一緒にいようね」
「……うん」
僕たちは強く抱き合った。
どれくらいそうしていただろう。
時間の感覚がなくなるくらい、ずっと。
やがて、心音さんが小さく笑った。
「声日記、いいね。零くんの本当の気持ちが聞けて」
「……恥ずかしいよ」
「でも嬉しい。これからも続けてね」
「……うん」
僕は心音さんの髪を撫でた。
翌朝。
目を覚ますと、心音さんがもう起きていた。
「おはよう、零くん」
「……おはよう」
起き上がると、部屋の隅に新しい棚が置いてあるのに気づいた。
「あ、棚……」
「うん。昨日組み立てといたの」
心音さんが笑う。
「零くんの荷物、ちゃんと整理しようと思って」
僕は棚に近づいた。
すでに、僕の服やCDが綺麗に並べられている。
「ありがとう……」
「これで、もっと零くんのもの置けるね」
心音さんが僕の隣に立つ。
「ここ、零くんの場所だから」
その言葉に、胸がいっぱいになった。
確かに、この部屋には僕のものが増えている。
服、CD、録音機材、歯ブラシ、タオル。
少しずつ、少しずつ。
僕の居場所が、ここに作られていく。
「心音さん」
「ん?」
「ずっと、ここにいてもいい?」
「当たり前でしょ」
心音さんが微笑む。
「ここは、零くんの家でもあるんだから」
僕は心音さんを抱きしめた。
——ありがとう。
その言葉だけでは足りないくらい、感謝の気持ちでいっぱいだった。
窓の外では、冬の朝日が静かに昇っている。
二人で過ごす時間。
それは、お互いにとってかけがえのないものだった。
僕の声日記は続いていく。
そして、この部屋での生活も。
心音さんと一緒に。
ずっと、ずっと。




