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誰にも届かなかった僕の声が、君にだけ響いた。  作者: ひとひら


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第21話 匿名で歌った「名前のない歌」がくれた、生きるための一歩

最後の音が消えたあと、部屋に訪れたのは深い静寂だった。

時計の針だけが、カチ、カチと響く。


僕は息を整えようと頭を抱え、震える肩越しに心音さんを見る。

彼女は優しく笑い、小さく頷いた。


「零くん……頑張ったね。すごいよ」


その言葉に、胸の奥で涙が溢れそうになる。

肩越しに触れる彼女の温もりが、胸を静かに満たしていく。


「ありがとう……心音さん」


あの夜、僕は初めて歌を「残す」ことができた。

誰のためでもない。僕と心音さんのためだけの歌。

それは、過去に閉ざした声を取り戻すための、儚く切ない第一歩だった。




それから数日後。

僕は大きな決断をしようとしていた。

パソコンの画面には「Harmonia──ハルモニア」のサイトが開かれている。


匿名で歌を投稿できる場所。

誰も僕を知らない。顔も名前も明かさず、ただ声だけを届けられる。


マウスを握る手が震える。


「……本当に、投稿するの?」


隣で心音さんが静かに尋ねる。無理強いしない、その声は優しかった。


「うん……多分、今しかないと思う」


録音したあの歌。心音さんと二人だけの空間で生まれた、震えながらも確かな声。

それを世界に放つことは、怖い。

でも、これは僕が前に進むための一歩でもあった。


「零くんなら、大丈夫だよ」


心音さんがそっと僕の肩に手を置く。

その温かさに背中を押されるように、僕は投稿画面に向き合った。


投稿者名にゆっくりと打ち込む。

――Re:Voice。

声を取り戻す。声を再び。そんな願いを込めた名前だった。


タイトル欄で指が止まる。


「……タイトル、どうしよう」


「零くんの好きなようにしていいんだよ」


心音さんの言葉に頷き、僕は静かにキーボードを打った。


――名前のない歌。


まだ名前なんてつけられない。

この歌は何なのか、僕自身まだ分からないから。

ただ、確かに存在する歌。それだけで十分だった。


「……いくよ」


アップロードボタンに指を置く。

胸の奥で鼓動が高鳴る。


クリック。

投稿完了。

画面にその文字が表示された瞬間、胸が強く震えた。


「……投稿しちゃった」


「うん。そうだね」


心音さんは微笑む。誇らしさと少しの寂しさが混ざっていた。


「もう、零くんの歌は零くんだけのものじゃなくなったんだね」


その言葉を噛みしめる。

確かに、もうこの歌は僕たちだけのものではない。

誰かが聴くかもしれない。

誰かの耳に届くかもしれない。


怖い。

でも、少しだけ期待していた。


「再生数、まだゼロだね」


「当たり前でしょ。投稿したばかりなんだから」


心音さんが笑いながら画面を覗き込む。


投稿者:Re:Voice

タイトル:名前のない歌

再生数:0


何もかも曖昧で、不完全だった。

でも、それでいい。これは始まりなのだから。




翌朝。

僕は真っ先にスマホでHarmoniaを開く。


再生数:3


「……誰か聴いてくれた」


胸が熱くなる。

たった三回。

でも、それは確かに誰かが僕の声に触れた証だった。


コメント欄はまだ空っぽ。

でも、それでいい。

誰かの時間に、ほんの数分でも僕の歌が存在した。

それだけで十分だった。


「心音さん……見て」


急いで彼女にメッセージを送る。

すぐに返事が来た。


「よかったね、零くん。おめでとう」


その言葉を何度も読み返し、僕は小さく笑った。


過去に声を失った少年が、再び歌い始めた。

誰にも見られない場所で、誰にも知られない名前で。

それでも、確かに僕の声は世界のどこかに届き始めていた。


――Re:Voiceの「名前のない歌」。

それは、長い道のりの、小さな一歩。

でも僕にとっては、何より大切な一歩だった。




それから一ヶ月。

僕は再びカウンセリングルームの前に立っていた。

街路樹の葉はほとんど落ち、歩道には茶色い枯れ葉が舞っている。

空は灰色に曇り、吐く息が白く染まる季節。


歩きながら、コートの襟を立てる。

冷たい風が頬を刺す。

でも心音さんが隣にいる温もりが、少しだけ寒さを和らげてくれる。


「零くん、行ってらっしゃい」


心音さんが小さく手を振る。

マフラーに顔を埋めた彼女の笑顔が、僕を支える。


ドアをノックすると、カウンセラーの先生が穏やかに迎えた。


「こんにちは。また来てくれましたね」


前回と同じ落ち着いた照明、柔らかなソファ。

窓の外では冬の気配が近づいていた。


でも、今日の僕は少し違っていた。


「先生……あの、報告があります」


「はい、聞かせてください」


先生は静かに頷く。

僕の言葉を待ってくれている。


「歌を……投稿しました。匿名で」


言葉にして、改めて実感が湧く。

僕は本当に、あの一歩を踏み出したのだ。


「それは大きな一歩ですね」


先生の声に温かさが混じる。


「どうでしたか?投稿してみて」


「……怖かったです。今も怖い。でも」


少し間を置いて続ける。


「でも、声を出せたこと。それを形にできたこと。それがすごく嬉しくて」


胸の奥から湧く感情を、言葉にしようとする。

前回のカウンセリングでは、ほとんど何も話せなかった。

でも今日は少し違う。


「まだ再生数は少ないです。コメントもない。

でも……誰かが聴いてくれた。それだけで、生きてる実感があります」


「それは、水無月さんが自分の存在を、自分の声を、世界に届けたということですね」


先生の言葉に、僕は小さく頷いた。


「まだ完全には信じられません。

でも、少しだけ。『生きてもいいのかな』って思えるようになった気がします」


それは小さな光。暗闇の中で灯る光だった。


「焦らなくていいんですよ。水無月さんはちゃんと前に進んでいます」


先生は優しく微笑む。


僕は深く息を吸った。


後半、先生は僕に新しい提案をした。


「水無月さん、もしよければ『声日記』をつけてみませんか?」


「声日記……ですか?」


「はい。文字じゃなくて、声で記録するんです。

一日の終わりに、数分でいい。今日感じたこと、考えたことを、声に出して録音する。

誰にも聞かせなくていい。水無月さん自身が、自分の声と対話するための時間です」


それは新しい挑戦だった。

でも、確かに意味がある気がした。


「歌うのとは、また違いますか?」


「違いますね。歌は、感情を昇華させる行為。

でも声日記は、素のままの自分を認める行為です。両方大切なんですよ」


「……やってみます」

僕は小さく頷いた。




カウンセリングを終え、待合室に戻ると心音さんが本を読んでいた。

窓の外では、細かい雨が降り始めている。

十一月の冷たい雨。


「おかえり」


「ただいま」


「どうだった?」


「うん……前よりちゃんと話せた。それに、新しい宿題もらった」


「宿題?」


僕は声日記のことを話す。

心音さんは興味深そうに聞き、最後に微笑んだ。


「いいね、それ。零くんらしい」


「……そうかな」


「うん。零くんは、声を通して自分を取り戻そうとしてるんだもん」


その言葉に胸が温かくなる。




クリニックを出ると、冷たい雨が頬を濡らした。

心音さんが傘を差し出してくれる。

二人で一つの傘に入り、並んで歩く。


「もうすぐ十二月だね」


心音さんが空を見上げて呟く。


「うん」


「冬になるね」


「……うん」


街路樹の枝は裸になり、街はどこか寂しげな色に染まっている。

でも、心音さんの肩が触れるたびに温もりが伝わる。


「次のカウンセリング、二週間後だっけ?」


「うん」


「それまでに、また歌えるといいね」


「……うん」


濡れた歩道を歩きながら、僕は思った。

一ヶ月前より、確かに僕は少しだけ変わっていた。


まだ弱くて、まだ不安で、まだ自分を完全には認められない。

でも、それでも。


少しずつ、少しずつ。

僕は自分の声を取り戻していく。


冷たい雨の中でも、傘の下には小さな温もりがある。

その道のりがどんなに長くても、今は一人じゃない。





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