第1話 消えたかった僕が、生きてしまった理由
あれから、一週間が過ぎた。
彼は、相変わらずひとことも喋らない。
ただ静かに、白く静かな病室に溶けるように過ごしていた。
ナースステーションの奥では、彼の話題がそっと囁かれていた。
「ねぇ、あの子……すごく綺麗な顔してるよね」
「うん、まるで人形みたい。でも、まったく喋らないんだって」
「声が出ないのかな。可哀想に……」
「聞いた? 飛び降りたらしいよ。あんなに綺麗な子が、なんで……」
――美しさの中に、何かを閉じ込めたような少年。
誰もが、そう感じていた。
整った顔立ちに沈黙が重なることで、彼はこの世界から少しだけ浮いた存在に見えていた。
けれど当の本人は、そうした言葉が聞こえているのかどうかもわからないまま、ただ、窓の外の空をじっと見つめていた。
俯いたまま、まばたきをして。
何も言わずに、今日もまた一日をやり過ごす。
――まるで、自分の居場所が、ここじゃないかのように。
もう、何度目だろう。
終わらせたくて、終われなかった夜は。
骨も皮膚も、奇跡的にほとんど傷ついていなかったらしい。
「あと二、三日で退院ですね」と、誰かが笑っていた。
――でも、帰る場所なんて、どこにもない。
雪のように眩しい天井を見つめながら、彼は静かに目を細めた。
「ねぇ、神様……
どうして、生きたい人が死んで、
消えたい僕が、またこうして目を覚ますの?」
この世界は、静かすぎて。
あまりに、不条理だった。
大切な誰かがいなくなって。
残されるのはいつも、自分のような存在だ。
望んでいない明日だけが、毎朝、置き手紙のように枕元に残されている。
それでも――
眠りだけは、やさしく訪れた。
心の奥を、ひとしずくの闇でそっと包むように。
全てを忘れさせるように。
気がつくと、彼は夢の中にいた。
「……これ、夢だ」
ぼんやりとした意識の中で、確信する。
今夜の夢は、驚くほど鮮やかだった。
現実では見たことのないほど澄んだ青空。
風に揺れる花畑。
静かに波打つ湖の水面に、雲ひとつない空が映っていた。
どこからか、小鳥のさえずりも聴こえる。
ここでは、痛みも声も、遠いもののようだった。
手首の傷も、なにもかも――消えていた。
彼は小さく息を吸い、そっと歌いはじめる。
誰にも聞かれないように。
ただ、この風景にだけ届くように。
音は水に溶けていくようだった。
誰にも届かない歌声が、いちばんやさしく感じた。
「……ずっと、このままだったらいいのに」
そう思いながら歌っていると――
遠くで、誰かが彼の名前を呼ぶ声がした。
いつもなら、きっと耳を塞いでいた。
でも今だけは、その声に、触れたくなった。
音のする方へ歩き出す。
花畑の向こうに、ひとすじの光が見えた。
そして、光に触れた瞬間――
世界がふわりとほどけていく。
まるで、全部が許されるように。
……目を開けると、そこには白い天井。
あたりには、いつもと変わらない病室の静けさがあった。
窓の外には、曇った空。
夢の中で見た青空は、もうどこにもなかった。
けれど――
「……いまの、なんだったんだろう」
ぽつりとこぼれた声さえ、まだ夢の続きみたいにかすんでいた。
夢だったはずなのに。
あんなにも鮮やかで、やさしかった。
ほんのひとときでも、笑えていたことが、少しだけ切なくて、愛しかった。
「……本当に、夢だったのかな」
そう、思わずにはいられなかった。