第16話 震える声でも、心音さんの手の温もりと柔らかな光に、僕はまた歌える気がした
朝の光はまだ柔らかく、空気にはひんやりとした静けさが漂っていた。
窓の外では、色づき始めた街路樹の葉が風に揺れ、かさりと音を立てる。
乾いた土と枯れ葉の匂いが、目覚めたばかりの心をやさしくくすぐった。
「零くん、今日も少し歩いてみない?」
ベッドの横で、心音さんが微笑む。
その笑顔に、胸の奥の硬い部分がふわりと緩む。
怖さよりも、彼女といる安心のほうが、少しだけ勝った気がした。
僕は小さく頷き、彼女の手を取る。
指先から伝わるぬくもりが、震える心をそっと落ち着かせてくれた。
マンションの廊下を抜けると、外の空気は冷たく、落ち葉が小さく音を立てた。
色づいた葉が舞うたび、世界が少しずつ柔らかく揺れて見える。
淡い光が歩道に模様を描き、僕の影を細く伸ばす。
その影は儚く、けれど確かにそこにあった。
僕は心音さんの手を握り、落ち葉を踏む音に耳を澄ませた。
一歩ずつ踏みしめるたび、世界がほんの少しずつ優しくなっていく気がする。
怖さはまだ残っている。
けれど、彼女と並んで歩けるだけで、胸の奥に小さな希望の芽が息を吹き返す。
「……ねえ、零くん」
道の途中で、心音さんが立ち止まった。
「カウンセリング……一緒に行ってみない?」
その声は、傷口の上にそっと絆創膏を置くような優しさを帯びていた。
押しつけるような響きはない。
それでも、僕のことを本気で思ってくれている――
そんな気持ちが、言葉の隅々から伝わってきた。
胸の奥がぎゅっと締まる。
カウンセリングに行こうと思ったことは、何度もあった。
けれど、声を出すたび震えてしまう自分が怖くて、結局いつも途中で諦めてしまった。
「……また、怖くなるかもしれない」
足元の落ち葉を踏む音さえ、心臓の鼓動のように響く。
それでも、心音さんの手が僕の指先に触れた瞬間――
その温もりが、ほんの少しだけ勇気をくれた。
押しつけじゃない。
ただ、隣にいてくれるだけでいい。
それだけで、怖さの一部が溶けていく気がした。
「……うん、行ってみる」
震える声でそう答える。
不安は消えないけれど、彼女が隣にいるなら、少しだけ前に進める気がした。
バス停までの道、彼女は僕の歩調に合わせてゆっくり歩いてくれる。
声をかけなくても、その存在が安心になる。
見上げた空は、薄く光を帯びて優しかった。
診療所の前に立つと、白い壁が朝の光を反射していた。
手の震えを隠すように息を整え、心音さんの手をもう一度握り直す。
怖い。
でも、大丈夫。行ける。
少しずつ、心の扉を開ける準備ができている気がした。
受付で番号札を受け取ると、彼女は静かに頷き、そっと言った。
「ここで待ってるね」
その一言が、背中をやさしく押してくれる。
僕は呼ばれた番号を聞き、診察室の扉を押し開けた。
部屋の中は、淡い光に満たされていた。
カウンセラーは穏やかな声で微笑み、僕の目をまっすぐに見つめる。
責めるでも、急かすでもない。
ただ受け止めてくれるようなまなざしだった。
「今日は、どんなことをお話ししましょうか」
静かな低い声に、胸の奥がざわつく。
言葉を出すと震えて、まともに声にならない気がしていた。
「……その、声のことで……来ました」
震える声でそう告げる。
昔、声を笑われたことがある。
友達の前で、教師の前で。
そのたびに心がちりちりと痛んで、やがて声を出すことが怖くなった。
カウンセラーは何も言わず、静かにうなずく。
沈黙が、思ったよりも温かかった。
誰にも笑われず、ただ受け止めてもらえる――
それだけで、胸の緊張が少しずつほどけていく。
「水無月さん、そのときのこと……無理のない範囲で、聞かせてもらえますか」
包み込むような声が、心の奥の痛みにそっと触れる。
僕は息を吸い、かすかな声で言った。
「……笑われて」
声が途切れる。
でも、カウンセラーは何も言わず待ってくれた。
「声を出すのが……怖くなったんです」
その瞬間、胸の奥が小さく疼く。
けれど、その痛みを一緒に抱えてくれる人がいる。
そのことだけで、少しだけ、声が戻る気がした。
「声が出なくなったのは、“心”があなたを守ろうとしていたからかもしれません」
カウンセラーの言葉が、胸に小さな光を落とす。
弱い自分として責めてきたけれど、心はちゃんと僕を守ろうとしていたのかもしれない。
「“生きていていい”って、まだ信じられないんです」
震える声で吐き出す。
でもここには否定も嘲笑もない。ただ、そっと存在を認めてもらえる安心があった。
診察が終わり、心音さんと並んで帰る。
夕暮れに近い柔らかな光が街路樹の葉を透かし、影が細く長く伸びる。
通り沿いの小さな音楽教室から、ピアノの音が漏れてくる。
柔らかく、懐かしい旋律。胸の奥の小さな傷に触れるようだった。
思わず肩をすくめ、指先が彼女の手を求める。
彼女の手の温もりが、緊張で固まった心をゆっくり溶かす。
「あ……」
小さな声、息のような音。
震え、途切れ、でも確かにここにある――
自分の声だった。
長い間封じ込めていた“声”の証明。
胸の奥がふわりと温かくなる。
「……今、歌ったの?」
心音さんが微笑む。
頬にかすかな熱を感じ、手のひらに伝わる温もりが、心に小さな勇気を灯す。
夕暮れの街路に溶けるピアノの音と、風に揺れる落ち葉の音。
その二つが重なり合う中で、僕の中の小さな希望が芽吹く。
まだ声は完全に戻らないかもしれない。
でも、今日という一瞬、僕の声は確かに生まれた――
儚く、切なく、でも確かにここにある存在として。
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