第9話 自分の名前を言えなかった僕が、勇気を出して彼女に伝えた日
夜の公園は静かだった。
街灯の下を歩くのは、僕と春野さんだけ。
葉擦れの音と、遠くを走る車のエンジン音が、かろうじて世界の存在を思い出させてくれる。
僕たちは並んで歩いていた。
ほんの数歩。小さな距離を空けて。
「……寒くない?」
春野さんの声が、風に乗って僕の胸に落ちる。
「……うん。大丈夫」
そう言ったけれど、指先は少し震えていた。
きっと、彼女には見えていたと思う。
――どうしてだろう。
こんなふうに優しくされるだけで、苦しくなる。
声を出すことが怖い。
言葉を飲み込んでしまうのは、もう癖みたいなものだった。
それでも、彼女は黙って隣を歩いてくれる。
責めることもなく、急かすこともなく。
……それだけで、救われる気がした。
⸻
僕は――捨て子だった。
名前のないまま施設にいて、やがて養子として迎えられた。
名前ができたことが嬉しかったのを覚えている。
でも、そのあとに待っていたのは、優しい日々じゃなかった。
「それは違う」「考えすぎ」
口を開けば否定される。
声が高い僕を「おかしい」と笑った。
学校でもからかわれた。
「男のくせに声高すぎ」
「変なやつ」
――僕の声は、僕の敵になった。
言葉を出すのが怖くなって、誰かに想いを伝えるなんて、とても無理だった。
心に穴が空いて、夜が怖くて、眠れなくて。
生きているだけで、世界から置いていかれる気がした。
手首に残った傷は、もう痛まない。
でも、消えない。
本当に痛かったのは、ずっと奥の、誰にも触れられない場所だった。
それでも、歌だけは――僕を許してくれた。
ひとりの夜、ギターを抱きしめながら小さく声を漏らす。
誰にも聞かれないように。
それでも、自分だけは自分の声を聴いていた。
歌っている間だけは、息ができた。
⸻
そして今、僕の隣には春野さんがいる。
何も言えない僕を、責めることなく見つめてくれる人。
その存在が、少しずつ僕を輪郭づけてくれる。
だから――僕は、彼女の名を呼んだ。
「……春野さん」
初めて呼んだ夜のことを、今でも覚えている。
彼女は何も言わず、ただ「うん」と頷いてくれた。
その頷きは、春の風みたいにあたたかかった。
「……僕、ちゃんと名前があるんだ」
「……」
「水無月、零(みなづき、れい)。それが僕の名前です」
誰にも言えなかった本当の名前。
それを彼女に差し出すのは、勇気というより、命を手渡すような感覚だった。
春野さんは少しだけ目を細め、微笑んだ。
「零くん、って呼んでもいい?」
「……うん」
僕は、小さく頷いた。
胸の奥で何かが揺れて、涙が込み上げてくる。
「零くんの声、私は好きだよ」
彼女は、そう言って僕の手を取った。
傷跡ごと、そっと包むように。
「過去に何があっても、今ここにいる零くんが大切なんだよ」
涙が止まらなかった。
泣きたくて泣いたわけじゃないのに、あふれてくる。
それは――心が自分に向けた返事だった。
「……ごめん。ほんとに、何もできない僕で」
「ううん」
彼女は首を振った。
「零くんが、生きて私の前にいてくれる。それだけで嬉しいんだ」
その言葉が胸に届いた瞬間、何かがほどけた。
僕は、初めて自分から手を握り返した。
怖さよりも、あたたかさのほうが勝った。
夜の風が、やさしく木々を揺らす。
まだ夜明け前なのに、春の匂いがする気がした。
「……ありがとう、春野さん」
震える声は、きっと彼女に届いただろう。
――僕は今、生きている。
ここにいる。
それだけで、世界は少しだけ違って見えた。
(春野 心音 視点)
あの夜。
彼の手を包んだとき、彼はためらいながらも握り返してくれた。
その瞬間、私の胸の奥もほどけていった。
泣きたいのは、むしろ私のほうだった。
彼の手は細くて、でも優しくて。
傷つくことを知っている温もりだった。
「零くんの声、私は好きだよ」
そう伝えたとき、彼の瞳がすこし揺れた。
返事はなかったけれど、心が静かに頷いた気がした。
私は、ずっと気づいていた。
この人を好きになっていたことに。
彼は不器用で、声も震えていて、言葉も少ない。
だけど――その不器用なまなざしが、声にならない声が、
誰よりも私の胸を強く叩いていた。
ああ、恋って、こんなふうに始まるんだ。
名前を明かす勇気。
声を届ける怖さ。
想いを差し出す美しさ。
彼が全部、教えてくれた。
「……ありがとう、零くん」
誰にも聞こえないほどの声で囁いた。
彼に届かなくてもよかった。
ただ、自分の心に刻みたかった。
私は――あなたが好きです。
その言葉はまだ言えないけれど。
もう少しだけ、この距離で隣にいたい。
夜の風が木々を揺らす。
その音が優しく響くのは、きっと彼の手がまだ残っているからだ。
――零くん。
あなたが世界を信じ始めるように。
私は、あなたのそばで咲く人でいたい。
この夜が終わらなければいい。
本気で、そう願った。
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