第57話 視察、決戦の刻
視察当日、朝から重く垂れ込めた雲が、ソルヴィン村全体を覆っていた。
村の広場には、村人たちがすでに集まり始めていた。バートラムを筆頭に、レオ、ミア、ノア、エマ、そしてレイナとジョセフの姿もある。証拠の束を抱えたノアの手は、緊張でわずかに震えていた。
「来たぞ」
誰かが呟いた声に、全員が街道の方角を見た。
まず現れたのは、ヴォルフ子爵の一行だった。護衛を従えた立派な馬車が村の広場に停まり、子爵自身が姿を現す。その隣には、ガイウスの姿もあった。
「バートラム村長、出迎え大儀」
「子爵閣下、遠路お越しいただき恐悦至極に存じます」
バートラムが深く頭を垂れる。子爵は村の様子を静かに見渡した後、レオに視線を向けた。
「レオ殿。エルバンでの一件以来だな」
「はい。今日は、この村の実情をご覧いただきたく存じます」
その言葉が終わらぬうちに、もう一台の馬車が到着した。降り立ったのは、ダレンとモーガンだった。
「これはこれは、子爵閣下。ご足労、痛み入ります」
ダレンは慇懃に一礼したが、その目には明らかな警戒の色があった。
子爵は表情を変えずに応じた。
「ダレン殿、モーガン殿。今日は、辺境伯領への編入という重大な案件について、事実を確かめに参った。両者とも、包み隠さず話していただこう」
「もちろんでございます」
ダレンが笑みを浮かべる。だがその笑みは、以前ほどの余裕を感じさせなかった。
一行は集会所へと移動した。中には、これまで集められた証拠の数々が整然と並べられていた。ノアが記録した帳簿の写し、証文の原本、そして子供たちが綴った手記。
バートラムが一件ずつ、証拠を示していった。
「これは、村人カレンの証文です。当初の契約書には延滞条項の記載はございませんでした。しかし後日、何者かによって条項が書き加えられ、法外な利息が発生する形になっております」
子爵が証文を手に取り、細部まで確認する。
「筆跡が違う……明らかに、後から書き足された跡があるな」
「はい。同様の事例が、確認できただけで十九件」
バートラムが証拠の束を示すと、子爵の表情が険しくなった。
ダレンが慌てて割って入る。
「閣下、それは村人同士の誤解、あるいは記憶違いによるものかと。証文の管理は複雑でして──」
「ダレン殿」
レオが静かに、しかし鋭く口を挟んだ。
「十九件すべてが『誤解』だと仰るなら、その根拠をお示しください。証人の署名すら本人が知らぬまま使われていたケースもあります。それも誤解ですか」
ダレンの額に、うっすらと汗が滲んだ。
「それは……」
「もう一つ、お聞きしたいことがあります」
レオはモーガンに視線を移した。
「モーガン殿。あなたはグレイシャー辺境伯家の代理人として、この編入話を進められているとのことですが、辺境伯ご本人の正式な委任状をお持ちでしょうか」
モーガンの顔が、目に見えて強張った。
「そ、それは……紋章入りの書状で証明されている通り──」
「紋章入りの書状に、辺境伯ご本人の署名はありますか」
沈黙が落ちた。モーガンは答えられなかった。
子爵の目が鋭く光る。
「ガイウス殿から先だって聞いていた通りだ。儂も念のため、グレイシャー辺境伯家に直接使者を送り、確認を取らせてもらった」
子爵が懐から一通の書状を取り出した。
「辺境伯殿からの正式な返答だ。『モーガンなる者に、ソルヴィン村編入に関する正式な委任を与えた事実はない』とある」
集会所に、重い静寂が落ちた。
モーガンの顔から血の気が引いていく。
「そ、それは何かの間違いです……!」
「間違いかどうかは、辺境伯殿ご自身に確かめていただこう。つまり──」
子爵はダレンを見据えた。
「この編入話そのものが、貴殿らの独断による、不正な工作だったということだな」
ダレンの余裕の仮面が、完全に崩れ落ちた。
「し、しかし閣下! 我々はあくまで、この村の発展のために──」
「証文の改竄。子供を人質同然に扱う行為。そして正式な権限もないままの編入工作。これのどこが『村の発展』だ」
子爵の声が、集会所に響き渡った。
「バートラム殿」
「はい」
「村人たちの意思を、直接聞かせてもらいたい」
バートラムが頷き、外に控えていた村人たちを集会所に招き入れた。デニス、ジョセフ、サラ、レイナ、そして名乗り出た証言者たち。彼らは一人ずつ、子爵の前で自らの経験を語った。
最後に、レイナが一歩前に出た。
「わたしは、字が読めるようになって、お父さんの証文が不正に書き換えられていたことに気づきました。組合は五年前、飢饉のときに村を助けてくれました。それは本当に感謝しています。でも……その恩を理由に、ずっと村の人たちを苦しめ続けるのは、もう終わりにしてほしいです」
レイナの言葉に、集会所全体が静まり返った。子爵はしばらく目を閉じ、やがて静かに頷いた。
「よく分かった」
子爵は立ち上がり、ダレンとモーガンを見据えた。
「グリンウォード交易組合による、ソルヴィン村への一連の行為──証文の不正な改竄、村人への不当な圧力、そして権限なき編入工作。これらは看過できるものではない。この件、正式に王都へ報告し、沙汰を待つこととする」
「そんな……!」
ダレンが青ざめる。
「そして、ソルヴィン村については──」
子爵は村人たちを見渡した。
「村人たちの総意として、ヴォルフ子爵領への編入を望むのであれば、儂はその意思を受け入れよう」
バートラムが、深く頭を垂れた。
「閣下……感謝申し上げます」
村人たちの間から、堪えきれない歓声とすすり泣きが漏れた。
ダレンは唇を噛みしめながら、その場に立ち尽くしていた。
「……レオ殿。貴殿には、二度も煮え湯を飲まされたな」
「煮え湯を飲ませたのは、あなた方自身の行いです」
レオは静かに、しかしはっきりと言い切った。
ダレンは何も言い返せず、モーガンと共に、逃げるように集会所を後にした。
その日の夕暮れ、村の広場には安堵と喜びの空気が満ちていた。
「レオ様、ありがとうございました」
レイナが、涙を浮かべながら深く頭を下げる。
「僕は何もしていないよ。証拠を集めて、声を上げたのは、レイナや村の皆自身だ」
ジョセフとサラが、娘の肩を抱きながら微笑んでいた。
バートラムがレオの隣に立ち、静かに空を見上げた。
「レオ殿。この村は、ようやく自分の足で立てる」
「はい。これからが、本当の始まりです」
夕焼けに染まる空の下、ソルヴィン村には、久しぶりに穏やかな笑い声が響いていた。
だが、王都への報告という新たな局面が、この物語の次の章を静かに予告していた。




