第8話 その勇気は何よりも 3
僕は文芸部の扉を掴むと、ガラガラッ! と勢いよく開いた。
「黒羽さん!!」
文芸部の窓際の席に彼女の姿はあった。
僕が初めてこの文芸部の部室を開けた時と同じだった。
開けた窓からそよ風が入り込み、夕焼けに照らされた彼女の髪が揺れ、驚いたようにこちらを見ている。
…………ああ、やっぱり……そうだ。
僕は……初めてこの部室で彼女を見た時に……恋していたに違いない。
僕たちの関係が始まったのは歪だけど……彼女の事を……僕は最初から……好きだったんだ。
「…………飯田くん」
彼女は呟くように僕の名前を呼んだ。
「……なに? もうここには来ないでって言ったけど」
彼女は驚いた顔をごまかすように本に目を戻した。
「……話がしたくて来たんだ、黒羽さん」
僕は部室に入り、扉を閉め、落ち着きを意識しながら言葉を発する。
「私には話すことなんてない。もう飯田くんとの探求は終わりを迎えた」
皆の言う事と彼女が言う言葉の冷たさに差がある。
……しかしそれは、僕が探究を拒んでるからに他ならない。
「……やめてよ、そんな言い方」
「どうして? 私が求めた物を否定したあなたは私にとって距離を置くべき対象。合理的な判断。早く出てって」
「……合理的だとしても、ちゃんと話をさせてほしい」
彼女の拒絶に怯むわけにはいかない。
「………イヤ」
黒羽さんから子供じみた反応が返ってくる。
いつもの論理的な言い方では全くない、シンプルな感情表現な気がした。
……考えてみれば、彼女は防衛のために僕を拒絶しているんじゃないだろうか。
僕と関わることで、感情に振り回されてしまうようになっているのであれば、今僕と関わることで、彼女は強い悲しみを感じると思っているからなんじゃないか?
……そんなことを思われるのは嫌だ。
「それでも、どうか僕の話を聞いて、黒羽さん」
「……イヤ……嫌だよ……そんなの絶対嫌!」
無表情に務めていた彼女の顔が……苦しそうな表情に変わった。
……僕に彼女が向けた最初の感情はそんな顔だった。
そんな顔をされてしまうと……動揺してしまう。
……なんて僕はメンタルが弱いんだ。
僕がいることでそんなにも苦しんでしまうのなら、僕は姿を消した方が良いのではないかなんて思ってしまう。
「…………」
思わず僕は言葉に詰まる。
……バカ、黙るな。苦しんでるから消えればいい? 苦しませてるのはお前のせいだろ。
その苦しみから解放させてあげられるのは誰だ? お前しかいない。
動け……考えろ……行動しろ……!
「……あなたが出ていかないなら……私が出ていく」
「えっ……」
黙っている僕に痺れを切らしたのか、彼女は丁寧さを欠いた様子で乱雑にカバンに本をしまうと、俯き気味に足早に部室から出ていこうとする。
待って、止まってくれ。そんなことを思う。
……思ってどうする。止めろ。僕が止めるんだ。
彼女は閉ざした僕の心に何をした。
自分の求めるもののために、僕の心に土足で入ってきたじゃないか。
それが僕の心を解放した。
だったら今、心を閉ざした彼女に僕がするべきことはなんだ?
僕は何も学んでこなかったか?
黒羽さん、白川さん、隼人、皆としてきたこと。
その結果得られたのは……楽しくて、幸せな日々だ。
それに必要なのは……
嫌われる勇気と……人を信じる心だ。
彼女が扉に手をかけようとした――その瞬間、
「待って! 黒羽さん!」
僕は後ろから必死に彼女を抱きしめた。
心臓は張り裂けそうだった。
僕が女子にこんなことをするなんて許されるのだろうか。こんな場面になってもそんなことが浮かんでくる。
だけど、今彼女を止めなければ、もう二度と彼女と話せる気はしなかった。
嫌われる? そんなこと考えるな。
無遠慮に触ってきたのは彼女の方だ。僕が触って怒られるなんて理不尽な事考えるんじゃない!
「……は、離して」
彼女は扉に手をかけたまま硬直し、動かない。
振り払おうともせず、ただ小さくそういうだけだった。
「逃げないで……お願いだから僕の話を聞いて……」
「…………」
彼女は否定すらせず、肯定もしなかった。
……僕は背中から抱きしめたまま……呟くように震える声で言った。
「……僕には……黒羽さんが必要なんだ」
精一杯の、僕が伝えたい思いをふり絞った。
失って気付いた存在。
まだ間に合うのなら……失いたくない。
「…………私には必要ない。離して」
しばらく無言の後に彼女は静かに答えた。
必要ないなんて、そんな辛そうな顔してよく言う。
「……嫌だ。ちゃんと話を聞いてくれるまで、絶対に離さない!」
僕は強く、絶対に彼女を離そうとはしなかった。
「嫌だ……聞きたくない……私に何もしないで……」
「お願いだからちゃんと話を聞いて! これ以上……君を悲しませたくないから!」
「……どうして? 飯田くんと一緒にいることがつらくて、苦しくて、悲しいのに……どうしてあなたが、そんなことを言うの?」
「それは……悲しみや苦しみの向こう側に、喜びや幸せがあるからだよ」
「……どういうこと?」
少しだけ落ち着いた声が聞こえる。
「……黒羽さんと出会うまで、僕は平穏な日々が幸せだと思ってた。誰にも干渉されず、教室の隅で本を読んで、たまに隼人と話すだけの、変化のない毎日 。それが僕の聖域だった」
「…………」
「でも、黒羽さんに……えっちな事を誘われてから、それはもう毎日が刺激の連続で、僕の心は一瞬たりとも穏やかじゃなくなった」
少しだけ腕の力を緩めながらも、抱きしめたまま続けた。
「……正直な話、僕は君という綺麗な女の子に振り回されることを喜んでたんだ」
「…………」
「散々否定しておいて何だって話だけど……でも、だからこそ、僕は黒羽さんとの関係をちゃんとしたかった。えっちなことを目的にするんじゃなくて、えっちなことは幸せのための手段にしたかったんだ。だから……黒羽さんのことを好きになりたいって思ったんだ。だから、まずは友達から始めようと思った。一緒に部室で本を読んで、たまには感想を言い合って、ゲームセンターに行ったり、ファミレスでお喋りしたり。……僕は、あの時間が凄く楽しかったよ。学校帰りにちょっと遊ぶことがこんなに幸せなんだって、君が教えてくれたんだ」
「…………」
「性的探究は、僕が黒羽さんに惹かれる理由の一つでもある。でもそれを僕は、不適切だからって無理やり拒もうとしてた。でも、その考え方は違うってようやく気が付いたんだ」
西日が部室の埃を黄金色に輝かせる。
「それが正しいかどうかを決めるのはほかの誰でもない僕であり、黒羽さんだ。……僕が君を、黒羽さんの望むものをちゃんと正しく受け止める。だから……僕と……仲直りしてくれないかな?」
「…………」
静寂が部室に響く。遠くからは部活に励む声が聞こえる。
腕の中にいる黒羽さんはピクリとも動かなかった。
僕の中でやってしまったという後悔が遅れてやってくる。
一方的にまくし立てて、また彼女を困らせてしまったんじゃないか。
でも、彼女を離すという選択肢は、今の僕にはなかった。
拒まれない限り……僕は彼女を離さないと決めたから。
……やがて、僕の手の甲に……ポタリと冷たい水滴が落ちてきた。
「……く、黒羽さん?」
恐る恐る声をかけると、彼女の肩が、小さく、不規則に震え始めた。
「……う……うぅっ……わからない……わかんないよ……」
嗚咽混じりの、今にも消えてしまいそうな声。
「飯田くんの側にいたい……けど……怖い……。これ以上一緒にいて……何もかも失うのは嫌なの……」
「……黒羽さん」
「ずっと後悔してた……こんなことになるなら、最初から友達になればよかったって……でもそれは嫌だったの……私の中の何かが拒むの……。飯田くんは睦月ちゃんや隼人くんとは違う……。私の中で、代わりのいない特別な存在だから……普通の友達として処理されるのが……ずっと辛かった……」
彼女の告白。
感情がないと言っていた彼女が、自分自身でも制御できないほどの独占欲と情愛に、これほどまで振り回されていた。
「……ごめん。僕は君が嫌だから友達になろうって言ったわけじゃないんだ。……性的側面だけで君を見てしまったら、僕は黒羽さんのことを欲望を満たしてくれる人としか見られなくなる気がしたんだ。そんな一方的な依存関係は、黒羽さんに失礼だから……だから、少し距離を置いて、一歩ずつ、お互いを知っていきたかったんだ。……いわゆる、愛を育むっていうのかな」
「……愛を育む?」
「うん。ちゃんと一人の人間として、君を好きになりたかったんだ」
「…………」
「だから、最初から黒羽さんは何も失ってなかったんだよ。……僕が、説明を端折って、君に不安を与えてしまっただけだ」
「…………」
黒羽さんが、小さな力で、ギュッと僕の腕を掴んだ。
その指先の熱さが、彼女が生きている、という何よりの証明に思えた。
彼女は人形なんかじゃない。感情を持った人間なんだ。
「……遅くなってごめん。最初からちゃんと会話していれば、こんなことにならなかったかもしれない」
「……う……ひっく……うぐっ……」
突然、彼女の声が崩れた。
子供のように声をしゃくりあげて、泣き始めた。
僕は驚いて、反射的に腕を離した。
「黒羽さん!? ご、ごめん! 大丈夫!?」
ワタワタと慌てる僕。
強く抱きしめすぎた? 僕が自分勝手に喋りすぎたせいで彼女を追い詰めてしまった?
不安でいっぱいになりながら彼女の顔を覗き込もうとすると、黒羽さんはゆっくりと僕の方を振り返った。
ようやく見た、彼女の顔。
涙でぐしゃぐしゃになった目元。白いガーゼが着いた頬は真っ赤になっている。
いつも無表情だったはずの彼女が、今、これ以上ないほどに剥き出しの感情で、僕を見つめていた。
「うぅ……やだぁ……離さないで……」
彼女はそう言って、寂しそうに両手を僕の首に回してきた。
しがみついてくる甘えた行動に、僕の胸はキュンなんて言葉じゃ足りないくらい激しく、痛烈にときめいた。
今度は、正面からしっかりと彼女をぎゅっと抱きしめ返した。
「……大丈夫だよ。もう、急にどこかに行ったりしないから」
僕は優しく、しっかりと彼女の心に届くように言った。
「……うう……ひっく……うわあああぁぁぁん!」
僕の腕の中で、彼女は声を上げて泣いた。
文芸部室の静寂を塗りつぶす、愛おしいほどの泣き声。
「……どうして……どうして飯田くんは、そんなに優しいの……? 歩み寄ってくれた飯田くんを拒んだのは私なのに……。どうしてこんな私に優しい言葉をかけてくれるの……?」
ひっくとしゃくりあげながら、彼女は聞いてくる。
「言ってるでしょ。僕には、黒羽さんが必要だからだよ」
「わかんないよ……こんな不器用な私が必要だなんて……。白川さんの方が素直で、かわいくて、素敵な人なのに……」
彼女は、自分と白川さんを比較して、また小さくなった。
僕は、彼女の耳元で、はっきりと言い切った。
「白川さんは、大切な友達だよ。同じ弱みを共有した、特別な友達だ 。……でも、黒羽さん君は違う」
「……友達じゃないの?」
「違うよ。……友達から始めて、その先にいく相手だ。白川さんや隼人とは、最初から違う場所に君はいる」
「…………」
「正直に言うと、人は仲良くなったり喧嘩したり、違う人間同士だから意見がぶつかることは絶対にある。僕と君が拗れたように」
「……うん」
「でも、それでも仲直りできるのは、それ以上に、その人と積み重ねた幸せの思い出があるからだ。そうしないと自分が不幸になると知っているから。……だから、頑張って仲直りするんだよ。失わないために」
「がんばる……」
「うん。……黒羽さんが僕と仲直りしてくれるなら、僕を信じて、傷つくかもしれない覚悟を持つしかない。それは……君にしかできないことだ」
「…………」
僕は少し身体を離し、彼女の目を見つめた。
「もう一度聞くね。……僕と仲直りしてくれる?」
黒羽さんは、少しだけ落ち着きを取り戻した様子で涙を指で拭った。
そして、腫れた赤い目で、真っ直ぐに僕の目を見返してきた。
「……私には感情がないと思ってた。皆が好きな物や興味がある物の話をする中、私にはそれが無かったから。だから、強い感情に異常なほど興味が湧いた。そのために、あなたを利用した。……ただ私のために、飯田くんの人生を振り回した。……そんな私を、飯田くんは許してくれるの?」
「人ってそんなもんだよ。自分が楽しいから人と遊ぶし、自分が喜ぶから人を喜ばせる。黒羽さんは僕を付き合わせたと思ってるのかもしれないけど、付き合うと決めたのは僕だ。それを負い目に感じているなら……うん、僕は喜んで許すよ」
優しく笑って僕は答えた。それが本心だから。
「……飯田くんは私を利用してないの?」
「利用してるつもりはないけど……あえて定義するなら利用してると思う。僕は黒羽さんといると楽しくて幸せだから、僕は自分の幸せのために黒羽さんを利用してるって言えるかな? ……それは黒羽さんにとって嫌……?」
「……嫌じゃない……嬉しい」
「じゃあ、僕も同じだ。僕も、黒羽さんに利用されて嬉しいよ」
「……そっか」
黒羽さんは、ようやく小さく、本当に小さく微笑んだ。
「……飯田くん。私はまだ自分で自分の感情が理解できないことがある。つらい感情ばっかり経験した……ずっとずっと辛かった……こんなことなら、感情なんて知らなければ良いって思った」
「うん……」
「けど……あなたは私の気持ちを受け入れてくれた……。今、とっても嬉しい」
再び涙を流し、でも、笑いながら彼女は言った。
「……今までつらい感情ばかりたくさん経験したから……これからは幸せな気持ちを理解するために、あなたを利用すると思う」
彼女は、少し強張った表情で、でも、人生最大の勇気を振り絞るようにしてこう告げた。
「こ……こんな私だけど……な……仲直り……して……くれる?」
不器用な、しかし何よりも誠実な問いかけ。
僕は、最高の笑顔で、片手を差し出した。
「もちろん。仲直りしよう」
「……うん!」
黒羽さんは、嬉しそうに僕の手をぎゅっと掴むと、力強く、自分の方へグイッと引っ張った。
「わっ!」
勢い余って、僕は彼女の方へ引き寄せられる。黒羽さんは、満面の笑みで、僕の胸に飛び込んできた。
不意打ちの抱擁。僕は彼女の重心を受け止めるように、その背中に腕を回した。
「……本当に……ホントに良かった……ごめんなさい……飯田くん」
涙声で呟かれる、謝罪。しかし強く抱きしめる彼女の手に、喜びを感じられた。
「……僕の方こそ、ごめん。ありがとう、黒羽さん……」
……それ以上、言葉はいらなかった。
部室を埋めるのは、もはや重苦しい静寂ではなく、お互いの心拍音と、微かな衣擦れの音。
窓の外では、世界を琥珀色に染め上げる夕陽が、ゆっくりと地平線に沈もうとしていた。
長く伸びた二人の影が床の上で一つに重なり、溶け合っていた。




