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詐術師は笑わない

放課後の教室は、いつも他人の声で満ちている。

 神崎律はそれが嫌いではなかった。正確には、どうでもよかった。窓際の席で文庫本のページをめくりながら、背後の喧騒を環境音として処理する技術を、律は中学の頃には習得していた。

「ねえ律、また読んでる」

 声をかけてきたのは朝倉誠だった。隣の席の椅子を引いて、許可も取らずに座る。律は本から目を上げなかった。

「見ればわかる」

「何の本?」

「お前には関係ない」

「そっか」

 誠は傷ついた様子もなく笑った。こいつはいつもそうだ、と律は思う。跳ね返す壁を持っていない。律のどんな言葉も、誠の前では角が取れてただの音になる。それが律には少し不思議で、少しだけ——ほんの少しだけ——居心地が良かった。

 本のページをめくりながら、律は視界の端に教室の中心を映した。

 桐島奏が笑っていた。

 いつもと同じ笑顔で、いつもと同じように周囲を引きつけながら。三人のクラスメイトに囲まれて、何か面白い話をしている。笑い声が上がる。奏がまた笑う。

 律は視線を本に戻した。

 あいつの笑い方を、律は知っている。損得を計算し終えた後の笑い方だと、律は知っている。ただそれだけだ。

「律、今日帰り——」

 誠が言いかけた時だった。

 光が、あった。


 音がなかった。

 それが最初に律が認識したことだった。爆発でも衝撃でもなく、ただ世界が白く塗り潰されて、次の瞬間には別の場所に立っていた。

 石畳だった。古く、苔むした石畳。両側に廃墟が連なる路地。空は夕暮れのような色をしているが、太陽がどこにあるかわからない。空気が重く、湿っていて、微かに腐臭がした。

 律は一秒、立ったまま動かなかった。

 視覚。廃墟、路地、異常な空の色。出口は路地の両端。右は막힌 막힌막힌 行き止まり、左は開けている。

 聴覚。遠くから悲鳴のような声。複数。方向は左前方、距離は百メートル以上。

 嗅覚。腐臭に混じって何か焦げた匂い。魔法の残滓か、あるいは——

 律は左へ歩き始めた。走らなかった。走る理由がまだなかった。


 声が先に聞こえた。

「どこ見てんの、さっさと離れなさいよ!」

 白河このはが、路地の出口で炎を展開していた。両手から螺旋状の炎が伸びて、周囲の廃墟の壁を舐めている。派手だった。遠くからでも位置が丸わかりになるくらい、派手だった。

 その後ろで、朝倉誠が膝をついたクラスメイトの傍に寄り添っていた。右足を引きずっている女子生徒。転移の際に落下したのか、顔が青ざめている。

「大丈夫、大丈夫だから」と誠が言い続けていた。

 律は立ち止まった。

 状況を三秒で整理した。このはの炎で敵の注意は引けている。ただし味方の位置も同時に知らせている。負傷者一名、誠が対応中。周囲に他のクラスメイトの姿は今のところない。

「何突っ立ってんの」

 このはが律を見た。炎を展開したまま、値踏みするような目だった。「役立たず、邪魔なら消えれば」

「お前が炎を撒き散らしてるせいで、この路地全体の位置が敵にバレてる」

「は?」

「声も大きい。半径五十メートル以内に何がいるか知らないが、全部こっちを向いてると思え」

 このはの目が細くなった。「だったら何、黙って隠れてろってこと? 舐めたこと言ってんじゃないわよ、あんた天職何よ」

「詐術師」

 一瞬の沈黙。

「……は?」

「聞こえなかったか。詐術師だ」

 このはが何か言いかけた時、律はすでにそちらに背を向けていた。路地の壁に手をついて、廃墟の二階部分を確認する。登れる。視界が確保できる。

「炎を止めろ。三秒後に右の廃墟に飛び込め」

「誰があんたの言うことを——」

「止めたければ止めればいい」律は振り返らなかった。「ただ次に何かが来た時、俺はお前を助ける理由がない」

 このはが舌打ちをした。

 炎が消えた。


 天職は、廃国のあちこちに点在する石板に触れることでわかった。

 四十人が散り散りになりながらも、日が完全に落ちる前に二十三人が廃国の広場跡に集まった。石板は広場の中央にあった。誰かが最初に触れて、仕組みを発見した。

 順番に触れていく。天職の名前が石板に浮かび上がり、本人の脳裏に直接流れ込んでくる感覚があった。

 炎術師、剣聖、治癒師、鉄壁、風読み——派手な名前が続くたびに歓声か安堵の声が上がった。

 朝倉誠が触れた時、石板には「無効化師」と浮かんだ。

「む、無効化……?」

 周囲がざわついた。地味だった。何を無効化するのか、どう使うのかが直感的にわからない。誠本人も困惑した顔をしていた。

 律は誠の顔を一秒見て、視線を石板に戻した。

 無効化。あらゆる干渉を打ち消す。つまり——

 考えかけた時、このはが石板に触れた。

「炎術師」

 今度は歓声だった。このはは当然だという顔で一歩引いた。律と目が合った。そらした。

 律が石板に触れた。

 詐術師。

 条件を設定せよ——という感覚が、脳の奥に直接響いた。

 周囲は沈黙していた。詐術師という言葉の意味を誰も即座に理解できなかった。笑い出す者もいなかった。ただ、空気が微妙に変わった。強い天職ではないと本能的に判断した空気が、広場に薄く広がった。

 律は石板から手を離した。表情を変えなかった。

 条件を設定せよ。

 律は心の中でその言葉を繰り返した。条件。自分で設定できる。つまり——

「帰れるよな、ここから」

 誰かの声が広場に響いた。

 沈黙が落ちた。

 二十三人が互いの顔を見た。答えを持っている人間がいないことを、全員が同時に理解した種類の沈黙だった。

 その時だった。

 夜空に、それが現れた。

 紋章だった。巨大な、幾何学的な紋章が夜空に浮かび上がった。光ではなく、むしろ空の一部が別の何かに塗り替えられたような、そういう不自然さだった。脈動していた。生きているように、一定のリズムで収縮と拡張を繰り返していた。

 クラスメイトたちが騒ぎ出した。何、あれ、怖い、神様?、違う、何かのマーク——

 律は空を見上げたまま動かなかった。

 紋章の形を、律は記憶した。幾何学的な構造。中心から放射状に伸びるいくつかの線。それが示す意味を律はまだ知らない。だがこれが偶然ではないことは分かった。これは最初から設計されている。この場所も、この状況も、四十人がここに集められたことも——

 全部、誰かが作った盤面だ。

 律は視線を空から下ろした。

 広場の端、石板の影に誰かがいないことに律は気づいた。

 御堂玲司の姿が、最初から広場にない。


 同じ頃。

 廃国の奥深く、一人の男が石造りの建物の中にいた。

 松明の光の中で、御堂玲司は古い石板の文字を読んでいた。転移してから一度も広場に向かわず、ただひたすら廃国の構造を歩いて確認し、この建物を見つけ、この石板に辿り着いた。

 石板には、この世界の言語で何かが刻まれていた。玲司にはまだ読めない。だが一つだけ、どの言語にも共通する記号が石板の最下部に刻まれていた。

 数字だった。

 玲司はその数字を見て、初めて表情を動かした。

 笑っていた。


第一話 了


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